第4話 異形のもの現る
信忠が部屋からいなくなると信長は気を楽にし濃姫に酒を勧める。
「帰蝶よ確かにわしはうつけやもしれぬが、いい加減、対外的にうつけと申すのも大概にせぬか。」
微笑を浮かべながら信長は濃姫に空になった盃を差し出した。
「はい、前右府様。」
濃姫も微笑を返す。
「ならば、マムシの娘よ、そちもすごせ。」
「まあ、上様ったら。」
長年連れ添った夫婦の暖かい空気が流れている。
濃姫は盃を膳に置くと持ち込んでいた鼓を手に取り紐の調整を始める。
その様子を見て取った信長も盃を膳に置いて、ゆっくりと立ち上がり膳の前に出て扇を広げる。
「カァーン、カァーン、ポンポン。」
濃姫が鼓を打つ。
「人生五十年下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり、一度生を享け滅せぬもののあるべきか。」
信長の舞と濃姫の鼓が一体化している。
幸若舞の敦盛の一節である。
その意味するところは、人の世の五十年は下天という天上界の一日にしか当たらない。夢や幻のようなものだ、という意味になる。
敦盛を二度ほど舞った信長はゆっくりと扇をたたみ始めた。
すると、その時、天井より赤黒く大きくたくましい左右の足が現れ始める。
天井から床へとゆっくりと降りてくる。
足から腰、左右の腕、頭と現れ赤黒い異形の者が現れた。
禍々しい黒き尖った爪に大きく細く吊り上った目、大きく裂けた口に獣を思わせる牙。
頭頂部にはこぶし大の角。七尺程の異形の者だった。
信長は自然と濃姫と異形のものの間に移動する。
濃姫はことの推移を見守ることしかできなかった。
「何者ぞ!!」
たたまれた扇を右手に握ったまま足は肩幅に広げ信長は低く鋭い声で問いただした。
「わが名は酒呑童子なり。」
真っ黒く大きな細い目で信長を見つめながら獣を思わせる牙のある左右に裂けた口より発せられた低い声だった。
殺気を帯び細められた信長の目が大きく見開かれる。
元々信長は合理主義の現実主義者である。神罰や仏罰、先祖からの因縁や怨霊の類などを信じていなかった。
だが、現実に目の前に酒吞童子と名乗った異形の鬼が存在した。そして、認めた。
「ふん。であるか。」
そう言うと信長は引きつった微笑を見せた。
酒吞童子の右手がゆっくりと上がっていく。
「帰蝶!!」
信長は鋭く濃姫の名前を叫ぶ。
濃姫は信長の意図を察すると、素早く信長の佩刀を刀掛けより取り信長に渡す。
信長の佩刀は、宗三左文字。今川義元が桶狭間にて帯びていた刀で別名、義元左文字とも称される。
信長をして「義元の首よりも刀のほうが価値があった。」と言わしめた。
この刀は当初二尺六寸だったが信長の好みに合わせ四寸程磨り上げ、
信長は左手で宗三左文字を鞘ごと受け取ると右手の扇を酒吞童子に向けて投げつける。
折りたたまれた扇は酒吞童子の眉間をめがけて飛んでいくが赤黒い右腕が軽く扇を打ち落とす。
一瞬の隙を突いた信長は宗三文字を抜き右側に自然と垂らす。
信長の刀に気が満ちていくような静かな時が数瞬流れる。
酒吞童子の裂けた大きな口から瘴気が漏れた。
その瞬間、信長は一歩踏み出し刀を右下段から左上段に切り上げ、酒吞童子の右腕を肘から切り飛ばした。
斬られた右腕が宙を舞う間に酒吞童子の左拳が信長の腹を打ちよろめき膝を折った。
続けざまに拳を繰り出されていれば信長は無様に床に倒れ込んだかもしれなかったが、酒呑童子からの二撃目は放たれなかった。
床に落ちた腕からも酒吞童子の右手の切り口からも血が流れることはなかった。
酒吞童子の顔に微笑が浮かび、左手の手刀が信長に向けて真っ直ぐ伸ばされる。
その時、居室が光に包まれ一瞬何もかも見えなくなった。
信長の視界が回復すると目の前に白き龍頭の人型の後姿が見えた。
酒呑童子が数歩後ずさる。
「酒吞童子よ、人の手より神に祀られたと思うたが、このようなところで何をしておる。」
龍頭の人型が感情のない声で問いかけた。
「貴船の龍……。」
酒吞童子の大きく細い目がさらに大きく見開かれた。
龍頭の人型が一歩前に出ると酒吞童子は大きく跳躍し庭に跳ぶ。だが、龍頭の人型の右人差し指より光があふれ出て酒吞童子を貫いた。
光の矢に貫かれた酒吞童子はその場より姿が消えていた。
龍頭の人型が信長と濃姫に向き直り
「われは貴船の龍なり。」と言い放った。
貴船とは京、北方、貴船山と中腹の貴船神社のことで、水を司る龍神が祭神として祀られている。
龍神としては日本最高位に位置すると言われていた。
「われは織田信長と帰蝶姫に話がある。ここは追っ付け一大事が起こることになっておるので、いささか時がない。暫しつきおうてもらうぞ。」
貴船の龍神がそう言うと再び部屋が光で包み込まれた。
光が消えた後には、酒吞童子の右腕だけが床に転がっているだけであった。
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