第3話 親子の感慨

 軽く夕餉を取った信長は、本因坊の僧、2人を呼び囲碁の観戦を博多の商人たちと共に始める。

 その途中、信長の嫡男、現織田家当主、織田三位中将信忠おださんみちゅうじょうのぶただの来訪を告げられると親子ともに囲碁観戦を始めた。


 実は信忠は信長上洛に先立つ五月二十一日、徳川家康一行の案内と警護役として京に上洛していた。

 京見物を終えた家康一行は信忠に警護され堺へと移動したが信長上洛の情報を受けて家康一行と別れ再び上洛した。


 囲碁の対局は『三劫さんこう』という珍しい手になり信長より許しを得て引き分けとした。

 ちなみに三劫とは盤上に三つの劫ができその劫をお互いが取り合うと対局が終わらない状態のこと。

 このような場合には対局者双方の合意をもって無勝負ないし引き分け判定とした。


 本因坊の僧が下がり、博多の商人も下がると信長は酒席を用意させた。

 時刻はすでに子刻(午後十一時)を過ぎていた。


 「上様、本日はごきげんよろしく信忠、喜ばしく思います。」

 信忠は深く頭を下げた。


 「城介よ、上様も格式張った挨拶もいらぬは。われら二人だけの酒席よ。」

  信長は盃の酒を一息に飲み干す。


 「あら、上様、私はお邪魔だったかしら。」

臈たけた婦人が信長の盃に酒を満たす。


「戯れを申すな帰蝶きちょう。そなたは儂と一心同体ではないか。」

信長は婦人に向かって瓶子を差し出し、婦人は盃を信長に差し出す。


 帰蝶こと濃姫のうひめは織田信長の正妻、美濃のマムシこと斎藤道三の娘。

 道三は生前、帰蝶のことを「男子であれば天下を狙えた」と言わしめさせたほどの聡明な女性。織田家の奥を取り仕切り、波風を立てさせなかった。

 残念ながら信長との間に子をなさなかったためか歴史の影にうもれている。

 信長の子供はすべて実子扱いをして公平に育てた。もちろん、公平とは長幼之序を守らせることであるが。


 ちなみに信長は信忠を父の愛情を込めて呼ぶときには、幼名の奇妙(丸)、勘九郎、城介のいずれかで呼んでいた。


 信忠は父と義母のやり取りを複雑な思いを込めて見ていた。

 「父上、本日は大変、忙しそうでお疲れではありませんか。」


 信長は盃を傾ける。

 「つまらぬ余興だったが公家達の名物を見る顔は楽しかったぞ。危うくすべて下賜したら何人か卒倒するんじゃないかと思ったわ。」


 「ははは。父上いくらなんでもそれは豪気すぎませんか。」

 信忠の顔が少し引きつった。


 「ふん、名物と申してもただの物よ。それよりも城介よ、改めて武田征伐の手腕、見事であった。この場だから申すが、武田を甘く見て逆襲にあわぬかと思うておったぞ。」


 「父上にそれほどのご心配をお掛けしていたとは信忠、思いもよりませんでした。」


 「そうですよ、中将様。上様はご心配で何度も御書状をお出しでした。武田を侮るなかれとね。」

 濃姫はそう言うと信忠にニッコリと微笑んだ。


 信長は少々バツの悪い顔になる。

 「東国のことは城介と三河殿に任せる。北陸の柴田もようやく上杉を追い込んでおる。そうなれば信濃より越後に攻め込むことになろう。関東管領の滝川一益に合力してやってくれ。」


 「御意にございます。」

 信忠は頭を下げた。

 「父上、こたびの中国筋へのご出陣だと伺っておりますが、羽柴筑前様の合力でしょうか。」


 北陸の柴田とは北陸方面軍大将、柴田修理亮勝家しばたしゅりのすけかついえ、権六郎とか権六と呼ばれる。別名に鬼柴田や瓶割り柴田、かかれ柴田などがある。

 羽柴筑前とは中国山陽方面大将(対毛利)羽柴筑前守秀吉、信長はハゲねずみと書状に表現したことがある。


 「そのハゲねずみが少々、増長しておるやもしれんのう。」

 信長の目に殺気が宿った。


「あらあら、尾張のうつけどのにかかっては筑前殿も少々お気の毒でございましょうに。かのねね殿にでも尻を叩いてもらえれば済む話かと思いますわ。」

 濃姫は着物の袖で口元を隠しコロコロと軽く笑った。


 信忠は少々驚いた顔をする。

 「義母上、うつけは少しひどくはありませんか。」


 「城介よいのだ。帰蝶にとって儂はまだまだ尾張のうつけだからのう。」

 信長はニコニコ笑いながら盃を煽ると濃姫に差し出し、濃姫は酒を注いだ。


 いつのまにか信長の殺気は消えていた。


 あのまま羽柴秀吉の話をしていれば信長の中で秀吉への猜疑心が膨らんだだろう。

 ここ最近の秀吉の行動は信長の思惑とずれることが多くなった。

 だからこそ、濃姫は織田家の功労者を敵に回すなと忠告したにすぎなかった。

 信長も敏感にそのことを感じたからこそ濃姫の言葉を受け入れたのだった。

 信忠も朧げながらそのことを感じ自分の義母の聡明さを頼もしく思い、このまま織田家に一大事が起こらないことを望んだ。


 だが実際には一大事が近づきつつあったのだが。


 信忠は居住まいを正した。

 「父上そういえば先ほど見慣れぬ町人が二人ほどいたようでしたがどなたでしたか。」


 「あの者は博多の商人で島井と神屋と申す者よ。九州の情勢や唐、南蛮との交易の話を聞いてのう。九州の大友から誼を結びたいと文が届いておって、今後九州をどうするか思案のために呼び寄せておってのう。毛利が片付けば次は九州の仕置が待っておる。」

 信長にしては珍しく少々歯切れの悪い返答をした。


 「さようでございますか。九州の商人どもでしたか。」

 それでも信忠は納得しようとした。


 「中将様、島井殿の茶道具ですわ。たしか、楢柴肩衝とかいう茶入だったかと。中将様ご所有の初花肩衝と上様ご所有の新田肩衝で天下三肩衝となると。それをすべて中将様にお譲りしようとしていましたわ。」

 濃姫はいたずらっ子のような顔をした。


 「これ帰蝶、余計なことを申すでない。」

 信長は濃姫を咎めたが声は明らかに楽しげだった。


 「では、それは後日の楽しみとさせていただきます。」

 そう言いながら信忠は今もって父と義母の信頼関係が強いことを感じていた。


 「城介、そなた武蔵、八王子に武田の姫を見つけたと聞いたが相違ないか。」

 いきなり信長に指摘された信忠は緊張した。


 「御意にございます。信玄の娘、松姫にてそれがしの婚約者であったものです。」


 「であるか。して、その者は今だ未婚か。」


 「御意にございます。すでに使者を遣わし岐阜に来るよう手配いたしました。」

 信忠は父、信長が次にいう言葉を想像しながら緊張を解くことができなかった。


 「中将様それでは、正妻となさいませ。武田信玄の血縁なれば肝も座っておりましょうほどに。とても良いご縁が再び結ばれるようですね。そうではありませんか、上様。」

 濃姫は信忠に微笑みかける。


 「であるか。」

 信長は少々苦い顔つきになったがすぐに元に戻った。


 信忠は義母に心の中で感謝し胸をなでおろす。

 「上様、夜もだいぶ更けてまいりました、子刻を過ぎ、丑刻(午前1時)になりましたわ。」

 濃姫は信忠にさらに助け舟を出した。


 「これは失礼いたしました。父上、それがしはそろそろ妙覚寺に戻ります。」


 「であるか。」


 信忠は父と義母に深々と頭を下げると部屋を後にした。

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