第2話 名物茶会

天正十年六月一日(西暦1582年6月20日)


 織田前右府信長は京において忙しかった。


 前日五月二十九日(旧暦ではこの年五月三十日はない)、早朝に安土を発った信長と小姓衆と随行員合わせて200人と名物茶器三38点は、日が沈む戌刻頃(午後七時頃)、京、本能寺に到着した。


 本能寺は法華宗大本山であり堺や京の商人たちが在家信者として多く鎌倉の頃より比叡山とは犬猿の仲だった。信長と本能寺住職、日承上人にちじょうしょうにんとの結びつきもあって信長は法華宗を保護する立場を取るようになった。

 このような関係から信長は京、四条西洞院にあった本能寺を定宿と定め敷地を拡張して大改修を施し掘りを穿ち、小さな砦として機能するよう手を加えた。

 ちなみに法華宗、本能寺大本山は、鉄砲伝来の地、種子島の当主も帰依しており堺商人、種子島の鉄砲、火薬商業圏、日承上人の血筋は天皇家という関連も無視できない影響力を発揮していた。


 この日、京は、梅雨の雨が朝から降っていたにも関わらず、信長は上機嫌だった。


 実は前日、信長の上洛に合わせて伏見の地にて近衛前久このえさきひさ(太政大臣・前関白)を筆頭として20人程の公卿たちが出迎えのために待っていたが、先駆けの信長小姓、筆頭の森乱丸成利もりらんまるなりとしが現れ

「出迎え無用」

との信長の命を伝え公卿たちを立ち去らせていた。


 雨にも関わらず、辰刻頃(午前7時頃)

より本能寺は公卿百官などが訪れてきていた。

 訪れた人は近衛家を筆頭に摂家、清華家、正三位他39人の京にいて動ける公家すべてといっても過言ではない程の人数で、この他、聖護院門跡(近衛前久弟)や囲碁棋士の本因坊の僧たち、博多の商人、島井宗室しまいそうしつ神屋宗湛かみやそうたん、信長に謁見を許されたもの若干名がいた。


 本能寺を訪れた人たちは一様に進物を用意してきたのだが信長はこれを受け取らずすべて突き返していた。


 公家、門跡、博多商人たちは茶会となり、この時信長は名物茶器を惜しげもなく披露し信長自ら茶を振舞った。

 茶の湯が果てると名物茶器を披露したまま茶子となった。

 ちなみに、茶子とは茶会の際に食べる菓子のことでこの場合では茶会とは違って雑談を許される場に相当する。


 その場の人たちは名物茶器を目の当たりにして名物のことを話し合っていた。

時により信長も話に参加したりもしていた。

また、信長は博多商人の二人には九州の情勢や朝鮮、唐、南蛮との商取引のことなども聞き取っている。

 一刻(約二時間)程雑談の時が流れると、信長は一人の公家に目配せをした。


 「私より少し話したいことがあるのですが。」

口を開いたのは陰陽頭兼天文博士の土御門久脩つちみかどひさながだった。


 「暦の件をもう少し考えたく思うのですが。」

 その発言に公家たちはざわざわと色めき立つ。


 暦の件とは同年正月二十九日に京暦と尾張暦(三島暦)との違いを指摘した話だったのだがこの時は決着つかなかった。

 その時に京暦を支持したのは久脩だったのだが。


 信長は楽しそうに口を開いた。

 「今日、尾張暦では日食の予定であるが京暦ではその記述が見られない。御所において日食の日には御所に穢れた光を当てないよう、また、お上をお守りすべくこもで包むと聞いたがいかに。」


 前久が代表して答える。

「京暦には本日日食の記述がございませんから準備はしておりません。あいにくの天気なので確認できませぬが。」


 言い終えると額の汗をぬぐった。

「であるか。」

 機嫌を悪くせずににこにことしながら信長は答えた。

 結局、その場で公家たちが暦の件を話し合うが結論は出そうもない様子だった。

 そんな様子をしばらく見ていた信長は、その場で右手を上げ,

「結論は出ぬようだなこれまででよい。」

と話題を切り上げさせ茶会の終了を告げた。


 もうすでに時は酉刻(午後5時)を過ぎていた。

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