第18話 運命の日
翌朝、窓のカーテンの隙間から漏れる光で目が覚めた。
カーテンを開けて外を見ると、空はどんよりとした厚い雲で灰色に染まっていた。
僕は折りたたみ傘をカバンの中に入れ、いつも通りの時間に家を出た。
そして、いつも通りの時間のバスに乗った。
今日は土曜日なので、授業は午前中だけだ。
学校が終わったらすぐ病院へ向かおう、そう思いながらお母さんからのメールを待っていた。
僕の心の中は、早く彼女に会いたいという気持ちだけでいっぱいで、他には何も見えず、何も聞こえなかった。
午前中の授業が終わる。
何の授業だったか、全く記憶にない。
僕はスマホの画面を確認した。
しかし、着信は無かった。
僕はお母さんのメールを待った。
でも、楽しみを待つのは苦痛ではなかった。
帰りのホームルームが終わった時だ、スマホのメール着信音が響いた。
彼女のお母さんからだ。
やっと彼女に会える・・・僕は思わず気持ちが弾んだ。
しかし、そのメールの内容は僕が待っていたものとは違った。
『ごめんさない。今日の面会は少し待って下さい。また連絡します』
どういうことだろう?
手術は終わったのではなかったのだろうか?
手術後の検査に時間がかかっているのだろうか。それとも何かの手続きか。
真っ暗な不安感が僕を襲った。
それは理由が分からない分だけ大きかった。
僕は、たとえ会えなくても彼女のそばにいたいと思い、病院方面行きのバスに乗り込んだ。
バスは二十分ほどで病院に着いた。
けれど僕は病室には向かわなかった。
もし検査中だとしたら、行ってもまだ会うことはできないだろう。
それにお母さんから待ってくれと言われているので迷惑になるかもしれない。
そう思い、僕は病院内の公園のベンチに座って、お母さんからの連絡を待つことにした。
連絡が来たらすぐに会えるように。
公園内には、あちらこちらに桜の木が植えられていた。
ついちょっと前まで満開だったと思っていたが、気がつくと既にかなりの花が散っていた。
だが、黄緑色の新葉が脇から芽生えてきており、それがかえって残った花の桜色を映えさせていた。
――桜ってこんなに綺麗だったんだな。
普段、じっくりと花なんか見ることがなかった僕は、あらためて自然の美しさというものを素直に感じていた。
僕は彼女と出逢った時のことを思い出していた。
ほんの一か月前のことなのに、やけに懐かしく感じていた。
――また海に行きたいな。それとも彼女はどこか別の所に行きたがるかな・・・。
そんなことをボーっと考えながら時間は過ぎていく。
一時間くらい経っただろうか。
ベンチでずっと動かなかったせいか、腰に痺れを感じていた。
ポツリと頭に冷たい感覚が走った。
――雨だ。
ほぼ天気予報通りの時間に雨が降り出してきた。
――やばい。どこかで雨宿りしないと。
そう思って立ち上がった時、ジャケットのポケットに入れていたスマホがコトンと音をたてて、ベンチの上に落ちた。
――あれ?
スマホのLEDが青白く点滅していた。
メール着信に気がつかなかったようだ。
液晶画面に彼女のお母さんの名前が表示されている。
やっと検査が終わったみたいだ。
僕は嬉しい気持ちを抑えながらメールを開く。
でもそこに表示された、たった一行の文章に僕の意識は凍りついた。
『咲季だめでした。いろいろありがとう』
一瞬で頭の中が真っ白になった。
その言葉の意味を理解できなかった。
――何?
――だめって、何?
それ以上考えたくなかった。
――まさか、彼女が・・・。
僕の頭の中に最悪の言葉が過る。
――いや、そんなことがあるはずがない。
その言葉を僕は懸命に打ち消した。
――嘘だ・・・嘘だ・・・。
頭の中で同じ言葉が繰り返される。
――確かめないと。
僕は急いで病棟の入口へ走った。
しかし、僕の足は扉の手前で動けなくなった。
行けなかった。
行きたくなかった。
認めない。
認めるもんか・・・。
僕はそのまま病院を背にして駆け出した。
それからどれくらい時間が経ったのか分からない。
どこをどう走ったのか、全く覚えていない。
気がつくと、僕は自分の家の前にいた。
服がぐっしょりと雨で濡れていた。
――雨、降ってたんだ・・・。
全く憶えていなかった。
――今、何時くらいなんだろう?
あたりを見ると真っ暗だった。
――もう夜になってたんだ・・・。
僕はろくな着替えもせず、そのままベッドに倒れ込んだ。
何も聞きたくなかった。
何も知りたくたかった。
僕は虚ろなまま眠ってしまった。
時々ぼんやりと意識が戻った。
――夢? 夢・・・かな・・・夢なら早く覚めてほしい・・・・。
おふくろの僕を呼ぶ声が聞こえる。
何やら慌てた感じで僕の部屋に入ってきた。
「今連絡が来たんだけど、あんたのクラスの鈴鹿咲季さんって子が今日、病院で亡くなったそうよ。あんた、知ってる子?」
「・・・・・」
何も聞きたくなかった。
心の中は真っ白のままだった。
――そうか・・・夢じゃないんだな。やっぱり彼女は・・・。
寝ている間の夢であって欲しかった。
現実を受け入れられないという言葉があるが、実感したのは初めてだった。
――人ってこんな簡単に死んじゃうんだ。
僕は心の中で失笑した。
彼女の手術は一度は成功したとの話だったが、翌日に容態が急変したそうだ。
医療ミスではないかとの疑いもあったようだが、そんなことは、もうどうでもよかった。
どのみち、彼女はもういない。
覚悟はできていたんだ。
彼女のお母さんに彼女の病気の話を聞いた時から。
覚悟?
覚悟って何の?
彼女を失うという覚悟?
いや、そんな覚悟、僕には全然できていなかった。
覚悟することから逃げていただけだった。
今になってやっとそれに気づいた。
彼女が死ぬはずなんかないと、どこかで思っていた。
いや、思い込んでいた。
でもなぜだろう?
涙は出なかった。
とても悲しいはずなのに。
泣きたいはずなのに泣けなかった。
――悲しい?
僕は本当に悲しいのだろうか?
なぜだろう?
不思議と悲しさを感じていなかった。
悲しさではない。
何か違うものが心の奥に沈んでいた。
――悔しい?
そう、悔しいんだ、僕は。
でも、何が悔しいんだろう?・・・。
そうか・・・分かった。
僕の心の中にある悔しさの正体が。
僕は彼女に自分の想いを伝えていなかった。伝えることができなかった。
――僕は馬鹿だ。なぜ彼女にもっと早く・・。
もう一度、もう一度だけでいい。
会いたい。
会って僕の気持ちを言葉で伝えたい。
でも、もう遅かった。
もう僕の声を彼女には届かない。
いつの間にか夜は明けていた。
眠れたのか眠れなかったのか、よく分からない。
体が熱っぽい。
雨で濡れてそのまま寝てしまったせいだろうか。
どうやら風邪をひいたようだ。
でもそんなことはどうでもよかった。
このまま肺炎にでもかかって死んでもいいと本気で思っていた。
おふくろが僕を起こしに部屋に入ってきた。
彼女の通夜についての連絡が学校から来たようだ。
――ああ、お通夜・・・・そうか・・・。
僕は体調が悪いのを理由に葬儀には行かないことをおふくろに伝えた。
おふくろもそれ以上は何も言わなかった。
彼女の通夜と告別式は地元の葬儀場で行われたようだが、結局どちらへも行かなかった。
体調が悪かっただけではない。
行けなかった。
彼女の死を認めたくなかったから。
僕はしばらくベッドに寝込む日が続いた。
彼女の死が原因なのか、風邪が原因なのかは分からない。
あれから何日が過ぎたのだろうか。
久しぶりに部屋の窓から外を眺めた。
曇っているせいだろうか。
目に映るもの、全てが灰色に見えた。
僕は来る日も来る日も何もする気が起きず、昼の間も自分のベッドで、ただ寝ながら過ごす日が続いた。
何も考えたくなかった。
少しでも何かを考えると、彼女を思い出しそうだったから。
だから僕は考えるのを止めた。
僕は悲しさというものを感じていなかった。
なぜ悲しくないのだろう。
そうか、僕の心は彼女が死んだということをまだ認めてないんだ。
だから悲しくないんだ。
何も感じない。
悲しさも、苦しさも、楽しさも、嬉しさも。
何も感じない。
僕の心は真っ白だった。
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