第10話 初めてのルール破り
あれから三日間、雨の日が続いている。
三月だというのに、まるで梅雨のようだ。
この前、偶然に教室で話をして以来、僕は彼女に一度も会えていなかった。
ラインもメアドも交換していない僕は、直接彼女に話し掛けること以外、彼女と連絡する術を持っていなかった。
だからと言って、自分から彼女の教室へ行って声を掛ける度胸も持ち合わせていなかった。
僕らは付き合っているわけではないし、彼女にしても、僕に対して特別な感情なんて持っていない、ということも分かっている。
でも、僕は待っていた。
――待っている? 誰を? 何を?
自分の気持ちがよく分からなくなっていた。
週が明けた。
ようやく青い空が見られた。
久々の晴天だ。
明日は終業式、そして明後日からは春休み。
いよいよ高校二年も終わる。
明日が終業式ということは、正規の授業は今日が最終日になる。
せっかく晴れたというのに今日の授業は午前中で終わりだった。
だから昼休みは無い。
つまり、今日も彼女と屋上で会うチャンスは無いということだ。
――このまま春休みになったら、もう彼女と会えないのかな・・・。
気がつくと、そんなことを考えていた。
二時限目の授業の時間だった。
数学の予定だったが、先生がなかなか来る気配が無い。
授業開始チャイムから五分ほどたったころ、学年主任の先生が入って来きた。
担当教師が急用により来れないので自習となるとの説明がされる。
クラス内は歓声と共にどっと盛り上がる。
自習といっても、それはほぼ自由な休み時間のようなものだったからだ。
教室の生徒みんなが各グループで雑談やゲームを始めた。
その時、ある男子生徒が意味ありげに僕に近づいてきた。
テニス部で一緒の赤井だ。
何か嫌な予感がする。
「よう名倉。お前この間、A組の女子と二人で一緒に歩いてたろ? まさか彼女できたのか?」
――まずい。見られてたのか。
「ごめんね、そんなんじゃないよ。美術の選択授業の時に挨拶したことがあって、たまたま帰る方向が同じだったから二人で歩いてただけだよ」
僕にしてはめずらしく即答で答えた。
「なーんだ。そうか、そうだよな。てっきりお前にも春が来たのかと祝ってやろうかと思ったんだけどな」
赤井はそう言いながらも、何かホッとしたような表情をしていた。
お前なんかに彼女なんかできるかって感じだ。
――祝うって本気で言ってるのかな。ホッしてるじゃん。
共学の学校は男女がちょっと一緒に歩いてたりすると、すぐに勘ぐるやつが出てきて牽制したり、冷やかしたりする輩が出てくる。
僕はこういうのが嫌だった。
放っておいて欲しいもんだ
残念ながら彼女とは本当にそういう関係ではない。
でも本当に『彼女だよ』・・・なんて言えたらよかったな、とつい思ってしまう。
そんな風にグズグズ思う自分が空しかった。
――何も行動できない、この消極男子のクラス代表が!
僕はそう心で叫ぶと同時に、ふと思いついたように立ち上がった。
そして、何かに導かれるようにそのまま教室の出口へ向かう。
「おい、どこ行くんだ?」
赤井が呼び掛けてきた。
「あ、ごめんね。ちょっとトイレ・・・」
トイレに行く気などさらさら無かった。
今までに自習の時に教室を抜け出したという記憶は無い。
僕は無心で廊下を歩いていた。
行先は屋上だ。
そう。僕は彼女が今、
全く根拠は無い。
でも、なぜか確信を持っていた。
その確信が僕を屋上へと向かわせていた。
屋上に出ると、そのまま一気にペントハウスの階段を昇る。
息が切れる・・・。
給水塔のまわりを見渡した。
そこには誰もいなかった・・・。
――ハハ、そりゃそうだよな。いるわけないよな。休み時間でもないのに。
自分の馬鹿さ加減に僕は思いっきり苦笑した。
給水塔からの学校の外の景色を見渡すと、まわりに植えられている桜並木がの花が薄いピンク色に染り始めていた。
――ああ、なんか青春っぽいな・・・。
そんな自己陶酔している自分に呆れながらまた笑った。
――今からこんなに咲き始めて、来月の入学式まで持つのだろうか・・・。
そんな、いならい心配をしながらぼーっと外を眺め続けた。
春の風はまだ少し冷たく感じた。
でも、それがとても心地よかった。
「あれ? なに真面目くん、サボり?」
「え?」
聞き覚えのある声が僕の心に突き刺さる。
思わず僕は階段の下に目を向ける。
そこには彼女が立っていた。
――え? まさか・・どうして?
「ああ、鈴鹿さん。僕のクラス、二時限目が急に自習になったんだ」
そう言いながら僕は動揺しまくっていた。
「ふーん」
「あの、鈴鹿さんは・・・サボり?」
「違うよ! 不良扱いしないでよね。うちのクラスもニ時限目が自習になったの。今日天気すごくいいからさー、なんか空が見たくなっちゃってね」
あとで分かったことだが、この日は二年生の学年担当全員が新学期からのクラス編成の件で一斉に召集がかかり、緊急会議が実施されていた。
つまり彼女のクラスと僕のクラスが同時に自習となったのは特に偶然ということではなかったようだ。
彼女はゆっくり外階段を昇ってくると、立っていた僕の横にさりげなく並んだ。
ちょっと強めの春の風が体の脇をすり抜ける。
黙ったまま、しばらく外を見ていた。
何だろう。
今日はいつもと違う雰囲気を彼女に感じた。
僕は真横にいた彼女の顔を横目で見た。
彼女はそれに気づき、僕を見て静かに笑った。
でも、その笑顔はいつもの彼女のものではなかった。
「なあに?」
「え?」
「だって、私の顔じっと見てるから」
「あ、ごめんね」
「また謝ってる。別にいいよ、謝んなくて。私の顔でよければずっと見てて」
彼女は笑いながらそう言ったあと、僕からすうっと目を逸らした。
やはりいつもの彼女ではない。
またしばらく沈黙が続いた。
「ね、二人で学校抜け出さない?」
「え?」
唐突な彼女の言葉に僕は固まった。
「あの・・・今から?」
彼女は何も言わずニコリと微笑んだままゆっくりと頷いた 。
気がつくと僕は彼女と一緒に駅の改札口まで来ていた。
彼女のいつものペースでここまで来てしまった僕は、ここでふと現実に戻る。
「ねえ、学校サボるのはやっぱりマズいんじゃない? 今からでも学校に戻ろうよ。まだ三時限目間に合うよ」
僕の中の“真面目”な小心者がひょっこりと顔を出し始めた。
“通常のレール”から外れそうになると、僕の体内にあるセンサーがアレルギーのように拒絶反応を起こすのだ。
「ふん、いいよ。もう分かった。真面目くんは学校に戻んなさい。私一人で行くから」
ウジウジしている僕に彼女は呆れたように言い残し、そのまま一人で改札口を抜けて行った。
自動改札の電子音の響きが『意気地なし!』と叫んでいるように聞こえた。
僕はしばらく動けなくなり、改札口の前でぼーっと立っていた。。
相変わらずの真面目さと臆病さに自己嫌悪に陥っていた。。
――ええい!
僕は慌てて彼女を追って改札口を抜けた。
自動改札の電子音の響きが、今度は『がんばれ!』と叫んでいるように聞こえる。
この時、僕は何も考えていなかった。
いや、考えることを止めたんだと思う。
プラットホームでようやく彼女に追いつく。
ホームの前のほうに立っていた彼女は僕に気づいた。
「来て・・・くれたんだ・・・」
彼女は驚いた顔をしたあと、優しく微笑んだ。
電車がゆっくりとホームに入ってくる。
目の前のドアが開くと、電車に中から数人の乗客が降りてきた。
降りる乗客がいなくなったあと、ホームで待っていた人が電車に乗り始める。
しかし、なぜか彼女は動かなかった。
「どうしたの?」
彼女は下に俯いたまま黙っていた。
「やっぱり・・・戻ろうか?」
彼女がぽつりと呟いた。
「え?」
彼女らしくない弱々しいその声に僕はびっくりした。
発車のチャイム音がホーム内に響く。
何かがっかりしたように俯く、らしくない彼女を僕は見ていた。
シュッとドアが閉まる音が鳴る。
その瞬間だった。
僕はその音に対し、百メートル走のスタートホイッスルのように反応した。
僕の右手は彼女の左手をしっかりと掴み、次の瞬間ドアの内側へと飛び込んだ。
ガッチャっとドアの閉じた音が自分の後ろで響くのが聞こえた。
――あ? 乗っちゃった!
電車はガタンという大きな音と同時にゆっくりと動き始める。
モーターの回転音が徐々に高くなってスピードが上がっていくのが分かった。
彼女はびっくりした顔をしていたが、それ以上のびっくりしていたのは僕自身だった。
僕の右手は彼女の左手をまだしっかりと握っていた。
男声のアナウンスが車内に流れる。
『発車間際の駆け込み乗車は、まことに危険ですのでご遠慮願います』
「ダメじゃん。怒られてるよ」
彼女はそう言いながら僕を見た。
しばらくぼくらは顔を見合わせた。
僕は思わずプッとふき出したあと、堪え切れず大笑いをした。
でも彼女は笑わずに、そんな僕をじっと見つめていた。
「えっ? 何?」
僕はそんな彼女に思わず尋ねた。
「名倉くん、初めて私の前で笑ってくれたね」
「え? そうだっけ?」
「そうだよ」
そんなこと僕は全然意識したことはなかった。
「ごめんね」
「だから謝んなくていいって」
彼女もようやく笑い出した。
「どこ行く?」
僕は笑いながら問いかけた。
「んー、海!」
「え?」
「海、見たいなあ」
「海?」
「そう、海!」
「海か・・・いいね!」
僕は今、学校の授業を抜け出して、女の子と二人で電車に乗っている。
ずっとルールを守るのが当たり前だった僕には考えられないシチュエーションだ。
僕の心は不思議な気分で満ちていた。
学校をサボっているという罪悪感、不安感。
そしてそれを払しょくするような高揚感。
それは生まれて初めて感じる感覚だった。
「なにボーっとしてるの? あー、今更後悔してるとか」
「違うよ。いや、なんか自分じゃないような気がしてさ。僕、授業をサボるなんて生まれて初めてだから。鈴鹿さんと違って」
「私だって初めてだよ」
「え? 鈴鹿さんはいつもやってるんだとばかり・・・」
「前から言いたかったんだけど、君は私のこと、どういう風に見てるわけ?」
怪訝な顔で僕を睨んだ。
僕は彼女の元彼が言っていた、彼女は中学の時にグレてて留年した、という噂話を思い出していた。
「誤解されてると嫌だから言っとくけど、私はそんな不良少女じゃないからね」
彼女はそう言いながら頬を膨らませた。
そうだ。あんなのはただの噂に過ぎない。
僕は気にしない。
そう思うことに僕は決めた。
僕らはターミナル駅で降り、湘南方面行きの電車に乗り換えた。
平日の午前中のためか家族連れは少なく、買い物客とサラリーマン風の人がパラパラいる程度で、電車はわりと空いていた。
一時間ほどでその電車は終着駅に着いた。
駅の改札口を抜けると、すぐ目の前に大きな海が広がっていた。
そこから小さな島へと橋で陸続きになっている。
「うわー海だ、海だ! 潮の香りがするぅー! 気持ちいいー。ねえ、あっち行ってみよう」
彼女は子供のようにはしゃぎながら島に向かって伸びる橋のほうへと僕の手を引っ張る。
相変わらずのマイペースだ。
平日ということもあるのか、思いの他に人は疎らだった。
学生のカップルも多かったが、老夫婦の人たちがけっこういるのに驚いた。
「あんな歳になるまで仲良くできるなんていいね」
仲が良さそうに歩いている老夫婦を見て彼女が呟いた。
ちょっと驚いた。僕も全く同じことを思っていたから。
彼女はいつも僕を不思議な気分にさせた。
海は壮大だ。
ありきたりな表現だけど、やっぱりそう思う。
岸に打ち寄せる波の音が心地いい。
小さい悩みなんか全て消し飛んでいってしまいそうだ。
長い橋を渡ると、島の奥に向かって路地が続いている。
そこには多くのお店が連なっていた。
僕たちはゆったりとした坂道を登っていく。
土産店や海の幸の食堂などが細い坂道沿いに所狭しと並んでいた。
「わー見て見て! 何あれ?」
彼女がある店の前に並ぶ人の行列を見つけた。
ここの名物なのだろうか。
とても大きい下敷きのようなせんべいが売っていた。
「ねえ、おいしそうだよ。これ買っていこ!」
「え? これに並ぶの?」
「これだけ並んでるから美味しいんでしょ!」
彼女に逆らう力など無かった。
素直に僕は一緒に行列の最後尾に付いた。
結局、その行列に十五分ほど並んだだろうか。
やっとのことで買った下敷きのようなせんべいをかじりながら、僕たちはさらに島を上へと登っていく。
徐々に標高が上がっていくにつれ、だんだんと見晴しが良くなってくる。
一面に広がっている春の花がとても綺麗だ。
僕はその花の美しさを噛みしめていたが、彼女はせんべいの味を噛みしめているようだ。
「美味しいねこれ。並んで買って正解だね!」
――幸せそうだな・・・彼女は。
思わず心の中で呟いた。
「あ! 神社があるよ。お参りしていこうか」
僕らは島の中腹にあった神社に立ち寄ることにした。
「見て見て! 絵馬がいっぱい掛かってるよ。『二人が結ばれますように』だってさ! きゃーはずかしー!」
一緒にいるこっちが恥ずかしかった。
そこには男女それぞれの想い想い恋の成就の願いが所狭しと並んで描かれていた。
「ここって縁結びの神様みたいだね」
彼女は何か言いたげそうに僕の顔を見つめた。
「あ、そうみたいだね・・・」
そう言いながら僕はなぜか恥ずかしくなり、思わず目を背けてしまった。
島の頂上に着くと、そこには展望台があり、正面には一面に青い海が広がっていた。
空には雲ひとつ無く、見事に真っ青に染まっていた。
「うーん絶景だね! 来てよかったあ!」
彼女が叫んだ。
「うん。すごい気持ちいいね!」
素直に僕は答えた。
春の潮風が本当に気持ちよかった。
「ここね、中学の時に一度家族で来たことがあるんだ。その時、またいつかここに来たいってずっと思ってたんだ。好きな人と・・・」
「ごめんね・・・相手が僕でよかったの?」
そう答えると彼女は僕を睨んだ。
「何でそんなこと訊くの?」
――え?
逆質問された上、何で睨まれるのか僕は理解に苦しんだ。
質問したのは僕なんだけど・・・
そう言いたかったのだが、結局僕が謝まることになるんだ。
「ごめんね・・・」
「何でそこで謝るのかなあ・・・」
彼女はそう言いながら今度は笑っていた。
「わー見て見て! すっごい綺麗!」
確かにキラキラと輝く海面は綺麗だった。
でも、それを見ながら無邪気にはしゃぐ彼女の笑顔のほうが僕には輝いて見えた。
――あれ? 彼女ってこんなに可愛かったっけ?
そう思う自分に僕はびっくりしていた。
「あっれー、何? もしかして今、私に見惚れてたあ?」
――えっ?
あまりにもタイミングよく突っ込まれたため、僕は何も言えずに固まった。
「ちょっとお、何か言い返してよ。言ったこっちのほうが恥ずかしいじゃん」
彼女はめずらしく照れながら反対のほうに顔を背けた。
頂上は学生や外国の観光客で多く賑わっていた。
「すいません。シャッター押してもらっていいですか?」
突然、大学生らしき女の人から声を掛けられた。
学生同士のカップルだろう。
彼氏はサングラスをかけ、彼女らしき女性はブロンズ色に染めた長い髪を靡かせていた。
「はーい、いいですよ!」
彼女が快く引き受ける。
「いきますよお。ハイ、ポーズ!」
スマホのシャッター音が軽やかに響いた。
「ありがとう。あ、君たちも撮ってあげようか?」
「え?」
その女性の気遣いに僕と彼女は思わず顔を見合わせた。
「えへっ! せっかくだから二人で撮ってもらおうよ」
「あ・・・うん」
僕は写真を撮ってもらうのにちょっと戸惑った。
というのも、実は僕は写真が苦手だった。
うん・・・苦手というか、慣れていないというか、要は僕は写真を撮るときに笑えないのだ。
僕は写真を撮られる時、無茶苦茶構えてしまってロボットのような顔になる。
―――どうしよう・・・ちゃんと笑えるかな?
僕の心配をよそに彼女は僕の手を引っ張った。
海をバックに二人で並んで立った。。
明るい笑顔のピースサインをする彼女の横で、僕は明らかに顔が引きつっているのが自分でも分かった。
――うわあ、だめだ。やっぱり笑えない・・・。
「行くよー、はい笑って!」
・・・って言われるほど僕の顔は引きつっていく。
「んーカレシい、なにその顔? 無茶苦茶暗いじゃん。お腹痛いの?」
――うん。痛くなりそう・・・。
彼女がそんな僕を横目で見てクスッと笑った。
「ほらあ、カレシ笑って! それにもっとくっつかないと映んないよ!」
彼女さんの口調がだんだんと怖くなってくる。
――何で僕が怒られなきゃいけないんろう?
その時、彼女の手が僕の肘をグイと引っ張るように引き寄せた。
「ほらあ、真面目くん、笑うぞ!」
彼女が僕に微笑みかける。
すぐ真横にある眩しい笑顔に僕はドキリとした。
「え?」
「おっいいね! はーい、いくよ!」
僕があっけにとられているうちにシャッター音が響いた。
「あは、どうかな?」
撮ってもらったばかりの写真をスマホの画面で確認する。
彼女は相変わらずの眩しい笑顔で映っていた。
が、驚いたのはその横にある見覚えのない顔だ。
僕が・・・笑ってる。
――え? これ、僕?
とても不思議だった。
自分なのに自分ではないようだった。
「きゃー、すっごくいい感じに撮れたね」
お礼を言ったあと、その大学生とは反対の方向に歩き出した。
「仲良くねー、かわいいカップル君たち!」
大学生は大きく手を振っていた。
「ありがとー!」
彼女もお返しに大きく両手を振った。
――そうか。僕たちもやっぱりカップルなのか。
慣れないその言葉の響きはとても心地いい良かった。
でもカップルと言っても、僕たちは付き合っているわけではないのだ。
その事実に、僕はちょっと寂しさを感じている自分に気づいた。
島の帰りの坂道を下りながら沿道にある土産店をブラついた。
「わー見て見て。これ可愛い!」
彼女が手に取ったのは小さなペンギンのストラップだ。
「鈴鹿さん、ペンギン本当に好きなんだね」
「フフ、大好き」
彼女はそのペンギンを頬ずりながら笑った。
「実はさ、明日、私の誕生日なんだ」
「え! そうなの?」
僕は素直にびっくりした。
「あの・・・それは、おめでとう・・・」
「んふ、ありがとう。はい!」
彼女はお礼を言いながら手を伸ばし、そのストラップを僕に渡してきた。
「え? 何?」
「買ってくれる? 誕生日プレゼントに・・・」
「いや、別にいいけど・・・これくらい」
突然でちょっと戸惑ったが、これくらいのもので喜んでくれるならと思った。
「でも、こんなものでいいの?」
「これがいいの」
そして彼女は、なぜか同じストラップをもうひとつ手に取った。
「じゃあ、こっちのは私が君に買ってあげるね・・・記念に」
そう言いながらクスっと笑った。
「記念?・・・なんの?」
「んー・・・何でもいいじゃん!」
そう言うと彼女はレジに並んだ。
僕も別のレジに並び、同じストラップを別々に買った。
そして自分の買った包みを彼女に渡した。
「あの・・・誕生日おめでとう」
「フフ、ありがとう。大切にするね。じゃあ、これは私から君に。大切にしてね」
彼女は自分の買った包みを僕にくれた。
これって意味があることなのだろうか?
・・・あるんだろうな、きっと。
「ねえねえ、下の岩場のほうに行ってみようよ」
彼女はそう言うと同時に僕の手を引っ張って歩き出した。
島の下方はゴツゴツとした岩場が広がっていた。
小さいカニや小魚、あとはタニシにような貝もたくさんいる。
「きゃーカニさんかわいいー!」
無邪気にはしゃぐ彼女は、悔しいがやはり可愛いかった。
僕は彼女を見つめながらそう思った。
そして何よりも彼女といると、自然な自分でいられるということに気がついた。
「なあに?」
「いや、ごめんね。別に・・・」
ボーッとしていた僕は思わず言葉に詰まった。
彼女は笑いながらまたカニを追っかけていた。
岩場をちょっと奥に行くと平らな大きい岩が連なっており、僕らはその岩の上に空を見上げながら寝ころんだ。
快晴の空には雲ひとつ無かった。
仰向けになった体で空を見上げる。
視界に映るのは、一面の真っ青な空。
まさしく青一色のみだった。
こんな光景は生まれて初めてかもしれない。
――なんて綺麗なんだろう。空ってこんなに綺麗だったんだ・・・。
「あー、気持ちいい!」
僕は思わず叫んだ。
学校をサボってしまったという罪悪感はどこかへすっ飛んでいた。
気持ち良すぎて、気がつくと僕は岩の上でウトウトと眠ってしまった。
しばらくすると、周りに何か嫌な違和感を感じた。
――あれ?
さっきまで周りあった岩が見えない。
あたりを見回すと、僕たちがいる岩場は水に囲まれていた。
「ヤバい!満ち潮だ!」
僕は叫んだ。
そう。僕たちは岩場に取り残されてしまっていた。
「どうしよう?・・・名倉くん」
彼女は今にも泣きそうな顔になった。
でも落ち着いて海面をよく見ると、まだ水面の奥に岩が透き通って見える。
「大丈夫、まだ浅そうだ。行けるよ」
僕は制服のズボンをヒザまでまくり、海の中に入って深さを確認する。
――うん、オッケー! 水はまだヒザ下までだ。
「大丈夫、靴と靴下を脱いで」
「うん・・・」
僕は彼女が脱いだ靴と靴下を受け取り、彼女の手を引く。
「ゆっくり下に降りて・・・滑らないように気をつけてね・・・大丈夫」
――よし、行ける! 行ける!
ゆっくり、ゆっくりと足場を確認しながら渡っていく。
ようやく最後の陸続きの岩まで来たところで彼女を先に岩の上に上げた。
――よし、よかった。彼女はもう大丈夫だ。
「ありがとう。名倉くんも気をつけて」
彼女そう言って僕を引き上げようと手を差し伸べたその瞬間だった。
僕の視界に映る彼女の顔がだんだんと小さくなっていく。
僕は自分に何が起きているのか、すぐに理解ができなかった。
――あれ? 僕、どうしたんだ?
交通事故で車がぶつかる瞬間は、人間の脳の回路が高速回転して周りがスローモーションにようにゆっくり動いて見えるそうだ。
まさしく僕はそのスローモーションの映像を体験していた。
彼女の姿がだんだんと遠くなり、背中が後ろへと吸い込まれていく。
そして次の瞬間、視界が大きくぼやけたと同時に水のギュルギュルギュルという濁音が激しく耳を襲った。
僕は足が滑って海の中に落ちたんだということを自覚した。
「名倉くん!」
彼女の悲鳴が響いた。
幸い満ち潮はまだ浅く、僕はすぐに立ち上がることができた。
「大丈夫? 名倉くん!」
遠くの向こう岸にいた釣り人は特に驚いた素振りも見せず、呆れた顔でちらっとこちらを見たあと、また釣りに没頭していた。
「バカな奴がいる」と、そんな顔をしている。
確かに客観的に見てもかっこ悪い。
こんな僕を見て、彼女もさぞ大笑いするだろうと思っていたが、彼女の反応は意外なものだった。
「名倉くん、名倉くん大丈夫?」
海に落ちたことにはもちろん驚いたが、それ以上に驚いたのは彼女が泣くような顔で僕を心配して叫んでいたことだ。
彼女のこんな顔は初めて見た。
まあこんなところで溺れ死ぬことはないと思うのだが。
「名倉くん、ごめんね、ごめんね」
「いや・・・大丈夫だよ。それに鈴鹿さん、全然悪くないし・・・」
「ごめんね、ごめんね」
彼女は謝り続けた。
いつも自分がしていたことなのだが、相手が何も悪くないのに謝られるってことがどんな気分なのかを実感した。
――ああ、でも参ったな。どうしよう・・・。
そう思いながら僕たちは歩き出した。
海水でズブ濡れになった服は予想以上に重く、冷たかった。
服を着たままだったら本当に溺れるだろうと実感した。
今度、どこかで着衣水泳教室があれば絶対に参加しよう、そう思った。
「どうしよう・・・全然乾かないね・・・」
一向に乾かない僕の濡れた服を見ながら彼女が心配そうに言った。
「歩いていれば、きっとそのうち乾くよ」
僕は半ば強がりを言いながら、しばらく道を歩いていたが、それが甘い考えであったことを徐々に痛感し始める。
三月になったとはいえ、濡れた体にはまだまだ寒さは厳しかった。
十分ほど歩いただろうか。水は滴らなくなったものの、服はまだまだ濡れていた。
海水がぐっしょりと浸み込んだ僕の下着は体にビッタリと張り付き、気持ち悪いという感覚を超えていた。
そして、それは徐々に僕の体温を奪っていった。
「ハックショイ!」
――あ、マジちょっとヤバイかも。
そう思った時、ひとつの洋風の建物の前で彼女が足を止めた。
これは僕の貧困な社会知識でも分かった。
いわゆるファッションホテルというやつだ。
「ねえ、ここに入ってシャワー浴びさせてもらおうよ」
「ええ??」
思いがけない彼女の提案に僕は驚き、そして戸惑った。
もちろん僕はこんなホテルに入った経験はなかった。
彼女はあるのだろうか?
「いや大丈夫だよ。もう少し歩いてれば乾くよ」
恥ずかしさなのか、罪悪感なのか、自分でも理解できない複合的な感情が僕の中に充満していた。
彼女は僕の顔をじっと見つめたあと、何か決心したかように僕の手首をぎゅっと掴んだ。
「行くよ!」
「え?」
彼女がぐいぐいと僕の手を引っ張り、ホテルの入口をくぐった。
僕は引きずられるように彼女のあとをついて行く。
何だろう、この罪悪感は。
別に悪いことをしているわけではないのに。
でもこういう所って高校生は入っちゃダメなのかな?
そうすると、やっぱり悪いことなのか・・・しかも二人とも制服だし・・。
不安感、罪悪感、緊張感、いろいろな気持ちが交錯しながら、僕の心臓はバクバクと大きな鼓動を上げ始めた。
薄暗い狭い通路から奥に入ると、フロントらしき所に出た。
その横の壁には部屋の写真が表示されている大きなパネルがあった。
どうやらこれで好きな部屋を選ぶようだ。
ランプは全て消えていた。
もしかして、これって満室ということなのだろうか?
勝手が分からない僕たちは二人でフロントの前でオロオロしていた。
すると、フロントの脇にあるドアから中年の怖そうなおばさんが出てきた。
そのおばさんは、僕たちをじろっと睨むように見まわした。
――まずい。怒られるのかな。
僕は誤って窓ガラスを割ってしまった時の子供のような気持ちで怯えていた。
「すいません。この人、海に落っこちちゃって。シャワーと、あと服を着替えたいんです。入れてもらえませんか?」
彼女は今にも泣きそうな顔で懸命に事情を話した。
その彼女の気持ちが通じたのだろうか。
そのおばさんから出てきたのは予想外の優しい顔と言葉だった。
「ごめんなさい。今日は週末で混んでてね。今は満室なのよ。でも一番大きい部屋でよければ準備させるけど、いいかしら?」
「はい、入れていただけたらどこでもいいです」
「じゃあ、清掃を急がせるわね。もう少し待っててくれる?」
おばさんは制服姿の僕達を親切に待合室まで案内してくれた。
待合室といっても小さなソファがあるだけの狭いコーナーだった。
僕たちはそのソファに並んで座った。
ソファといってもとても小さく、いやでも体が密着した。
すぐ横にいる彼女の吐息が聞こえるようだ。
僕の鼓動はだんだんと抑えが利かなくなっていく。
――まずい! 落ち着け、僕の心臓!
しばらく辛い沈黙が続いた。
「やさしいおばさんでよかったね」
彼女がぽつりと呟いた。
「・・・そうだね」
「普通こういうところって高校生は入れないんでしょ?」
――僕に訊かないで欲しい・・・。
またしばらく沈黙が続いあと、フロントのおばさんがやってきた。
「ごめんさないね、お待たせしてしまって。どうぞ、準備ができたわ」
おばさんはそっと僕にカード式のキーが渡してくれた。
「ふふ・・・ごゆっくりね・・・」
おばさんは何か言いたげそうな顔でニタリと笑いながら去っていった。
「あのおばさん、何かやらしい顔してなかった?」
「うん。今の君の顔ほどじゃないけどね」
彼女は悪戯っぽい顔で微笑んだ。
――何だよ! やらしいことなんで考えてないよ僕は。多分・・・。
フロントの横にあるエレベーターに二人で乗る。
また狭い空間に二人きり、さっきまで多少落ち着いていた僕の鼓動がまた再起動を始める。
――やばい! またバクバクしてきた・・・。
心臓が再び高鳴る。
エレベーターで二階に上がるまでの時間が異様に長く感じた。
エレベーターを降りると、廊下の向こうにランプの点滅している部屋があった。
「あ、あそこ・・・かな?」
僕は彼女の顔を伺うが、彼女も下を俯いたままで返事は無かった。
――あれ? もしかして彼女も緊張してる?
やっぱりいいのかな?
いくら着替えのためとはいえ、女の子とこんなところに入って・・・。
今更ながら怖気づく自分が情けなくなる。
部屋に入ると同時に、僕は圧倒された。
そこは僕が描いていたファッションホテルのイメージとは全く違った空間が広がっていた。
大きなシャンデリア、プロジェクター、ビリヤード、ダーツなど普通のホテルでは見られないものが並んでいる。
もっと狭くて汚いイメージを持っていた僕は、ぽっかりと口を開けたまま茫然としていた。
――いったい何なんだここは?
中にある部屋は三つに分かれていて、それぞれがみんなムチャ広い。
大勢でパーティもできそうだ。
一番大きい部屋だと言っていたので、ここだけ特別な部屋なのかもしれない。
――あれ? 彼女は?
彼女のほうに目をやると、さっきまでの緊張感はどこへ行ったのか、はしゃぎながらあちらこちら見ては叫んでいる。
「見て見て! お風呂すっごーい! ジャグジーになってるよ。わあー見て見て! こっちにはでっかいベッドがあるよ!」
この切替えの速さとテンションの高さに付いていくのは難しそうだ。
「あ、はしゃいじゃってごめんね。名倉くんは早くお風呂に入って。私は何か着替えを買ってくるから」
そう言うと彼女は足早に部屋を出て行った。
――あれ? 行っちゃった。
部屋に一人残った僕は、ひとまず冷静を取り戻した。
何にしてもこの濡れた体を何とかしないと。
僕は彼女の言葉に甘え、お風呂に入らせてもらうことにした。
海水でズブ濡れになり、冷えきった体がどっぷりと熱い湯に浸される。
「うー最高お!」
思わず大声で叫んだ。
天国という所が本当にあったら、きっとこういう所なのだろう。
なんて気持ちがいいんだろう。
人、いや生物の起源は四十度のお湯の中から誕生したのかもしれない。
大型の円形風呂はゆうに三人くらいは入れるくらいの大きさで、僕は足を広げてゆっくりと大きく背伸びをした。
僕はバスタブの脇にあるボタンを見つけ、興味本位にそれを押す。
大量の泡が一斉に飛び出た。
勢いよく吹き出した泡は火山の爆発のごとく容赦なく僕の顔まで降りかかった。
僕は不覚にも大声で笑った。
一人で風呂に入りながら笑ったのは生まれて初めてだろう。
まさしく体の芯の芯まで十分に温まった僕は、覗き込むようにして浴室のドアを開けた。
彼女はまだ帰ってきてないようだ。
僕は取りあえず、何か羽織るものを探した。
さすがに彼女の前でバスタオル一丁というわけにはいかない。
おあつらえ向きのバスローブが備えつけてあるのを見つけた。
外国の映画ではよく見るものだったが、実際に見るのは初めてだった。
バスローブを羽織った自分の姿を鏡で見る。
そこには違和感満載の変態っぽい男が立っていた。
――うーん・・・。
思わず僕は唸った。
映画とかで見る俳優がスマートに着ている姿と何か違う。
いや、全然違う。
どちらかというと安っぽいドラマに出てくるスケベおやじを連想させた。
バスローブというのは典型的な日本人の体形には合わないようだ。
呼び鈴が部屋の中に響いた。
どうやら彼女が帰ってきたようだ。
僕はそそくさと入口のドアを開ける。
「ごめんねー、遅くなって。なかなか洋服のお店が見つかんなくてさー」
息を切らしながらそう言って、彼女はこちらを見た。
すると、彼女は僕のバスローブ姿を見たとたん、砕け散ったように笑い出した。
「何だよ、急に!」
「いやー、どこのスケベ親父かと思ったよ。部屋、間違えちゃったかなーって」
「ふん。確かにカッコよくはないのは分かってるけど、そこまで笑わなくてもいいんじゃない」
「ごめん、ごめん。あ、スエットでよかったかな? フリーサイズなんだけど大丈夫だよね。ちょっと着てみて。あとあったかい肉まんとスープ買ってきたよ」
僕は買ってきてもらったスエットを受け取った。
風呂場で着替えると、彼女の買ってきてくれたスエットは思いのほかピッタリだった。
「うん、似合うよ!」
「そう?」
「あのバスローブを着続けられたら私、笑い過ぎで呼吸困難で死んじゃうから」
僕はムスっとしながら彼女の買ってきてくれた肉マンを頬張った。
彼女はこの部屋の番号を見て、何かに気づいた。
「ねえねえ。この部屋229号室だって。なんか運命感じない?」
いきなりの話の振りに僕は戸惑った。
はっきり言って全く意味が分からなかった。
「229?・・・何だっけ?」
「えー、まさか分かんないの君? 酷いね。私たちが最初に学校の屋上で出逢った日だよ。二月二十九日は」
見事に微塵にも予想しなかった答えだった。
「鈴鹿さん、よく覚えてるね」
「うん。閏日だったからね。だって四年に一度の特別な日だよ。何かいいこと起きないかなって思ったりして」
「へえ・・・でも閏日なんて暦と地球の公転自転ズレのためのただの調整日だよ」
「君って、ほんっとにロマンチック度マイナスにひゃくぱーせんとだね」
彼女は僕を睨みながら叫んだ。
「ああ、ごめんね。でも何かいい事ってあった?」
彼女はなぜかしら、さらに僕を睨んだ。
なぜ睨まれたかは分からなかった。
「そういえばさ、二月二十九日に生まれた人って誕生日は四年に一回しか来ないのかな?とすると四年に一回しか歳を取んないってこと?」
また彼女の突拍子もない疑問が始まった。
こういう発想はいったいどこから来るのだろうか・・・。
「あのね、そんな訳ないでしょ。二月二十九日生まれの人だってもちろん毎年きちんと歳は取るよ」
「でもさ、その人は誕生日が毎年来ないよね?」
「うん。歳をとるのは誕生日じゃないんだ」
「どういうこと?」
「年齢がひとつ上がるのは誕生日ではなくて、誕生日の前日という決まりなんだよ。だから二月二十九日生まれの人は、その前日の二月二十八日にひとつ歳を取るんだよ。もう少し正確に言うと誕生日の前日が終わる瞬間なんだけどね。そうすることで閏日生まれの人でもちゃんと毎年歳を取れるって仕組みになってるんだ」
「へーそうなんだ。よく知ってるね。さすが勉強の虫」
「それってあんまり褒めてないよね」
「別に褒めてないもん」
彼女は悪気も無く、あっからかんと笑った。
「私も二月二十九日についてはひとつ知ってることがあるよ。昔ヨーロッパでは一般的に女性から男性に求婚できなかったらしいんだけど、二月二十九日だけは女性から男性に求婚できる特別な日だったんだって。これ、知ってた?」
「いや、それは知らなかったな」
「やったー! 名倉くんが知らないこと、私が知ってるなんて。なんか優越感!」
彼女は無邪気に喜んだ。
僕は思わず、その単純さが妙に可愛いと思った。
「あっー! 今、私のこと、単純でバカみたいって思ったでしょ!」
――ちょっと・・・彼女、まさかエスパー?・・・
「い、いや。バカみたい・・・とは思ってないよ」
「じゃあ、単純だとは思ったんだ!」
――思いました・・・。
何も言えなくなった僕を彼女は横目で睨んだ。
「あっ、そうそう。それでね、求婚された男性はそれを拒否することは許されなかったらしいよ」
「それは男にとっては下手な怪談より怖い話だね」
「だよねだよね。やっぱ怖いよね。女の私からみてもそう思うもん!」
彼女は怖いと言いながら、とても嬉しそうに話した。
「誕生日といえば、明日は鈴鹿さんの誕生日だったよね?」
「へー、よく覚えてたね!」
「さすがに今日聞いたことだからね」
「私、言ったっけ?」
「そのペンギンさんは誰からのプレゼントだっけ?」
彼女は舌をぺろっと出しておどけたように笑った。
「三月生まれで咲季・・・そうか、花の咲く季節という意味なんだね」
「うん、そうだよ。私、この名前好きなんだ」
「うん。とてもいい名前だね」
「フフッ、ありがと」
彼女はめずらしく照れた表情をした。
「ねえ、そういえば君の誕生日っていつ?」
「僕? 四月五日だよ」
「なんだあ! 私と二週間しか違わないじゃん!」
「ああ・・・そうだね」
「そっかあ。よかったあ、ほとんど離れてなくて・・・」
――離れてない?・・・
僕はその言葉と彼女の喜んでいる意味を、その時は分からなかった。
「実はね・・・」
彼女は何か思わせぶりの口調になった。
「うん?」
「私、明日で十八なんだ・・・」
「そう、もう十八か・・・・・え、十八?」
――あれ? 僕は今、
自分の歳をあらためて確認する。
そうだ、確か来月の四月の誕生日で十八だよな・・・あれ?
彼女は恥ずかしそうに上目使いで僕を見ていた。
「え? もしかして鈴鹿さんって?」
「うん。本当だったらもうひとつ上の学年・・・私、中学の時にいろいろあって、中学二年生を二回やってるんだ」
――やっぱり元彼の言ってた噂は本当のことだったんだ・・・。
「私の中学時代のことの噂って、何か訊いてる?」
探ってくるような言い方で僕に訊いてきた。
「ううん、別に、何も・・・」
僕は咄嗟に嘘をついて、そのまま平然を装った。
嘘をつくのが苦手な僕にしては上手く誤魔化せたと思う。
内心はやはりショックだった。
でも、僕は彼女の過去のことは気にしないと決めた。
僕はしばらく黙っていた。
「君ってやっぱりいい人だね。何も訊かないんだね」
「別に・・・。だって鈴鹿さんは今の鈴鹿さんだから。それ以上でもそれ以下でもないでしょ」
彼女はそれを聞くと優しく微笑んだ。
「ありがとう。でもよかった。思ったより君よりおばさんじゃなくて。二週間だったら、ほとんど変わらないもんね。四捨五入したら同じになるし」
「それを言うなら15捨16入でしょ」
「細かいねえ、真面目くんは・・・」
呆れたように彼女が言った。
「鈴鹿さんが大雑把過ぎるんだよ」
僕の拗ねた仕草に彼女はまた笑った。
「そう言えばさ、私、前から思ってたんだけど、君って分析するの好きだよね。
AB型でしょ」
やはり彼女の人を見る目は鋭い。
「当たりだよ。よく分かったね。AB型は日本人では十分の一の確率なのに」
「やっぱりね。AB型って変人多いしね」
あまり褒められてないなと思いながら、僕も彼女の血液型については自信があった。
「じゃあ鈴鹿さんの血液型も当てようか?」
「ううん、私はいい。血液型判断みたいの嫌いだし」
「ごめん。僕の記憶が正しければ血液型の話を振ってきたのそっちだよね」
彼女は黙ったまま笑っていた。
「でもめずらしいね。女の子って血液型占いみたいのけっこう好きじゃない?」
「友達は確かに好きな子多いよね。でも私は嫌いなの。偏見の目で見られるからさ」
たった今、人を偏見で見てたのは誰だよ、と思いながら、僕は偏見で彼女の血液型を当てにいった。
「鈴鹿さん、ズバリB型でしょ?」
「ほーら、やっぱりだ。私、いつもB型って言われてすごく傷付くんだ。どうせわがままで自分勝手な性格だからB型とか言いたいんでしょ? だから嫌なんだよ、血液型当てゲームみたいなの。それって偏見だよ! 偏見!」
「え、意外だな。ごめんね、B型じゃなかったんだ」
「ううん。B型だけど・・・何?」
「・・・」
あっさりとそう答えた彼女に対し、僕はリアクションに困った。
ただ僕の血液型判断は自信から確信に変わった。B型のみだけど。
僕は思ったより帰りが遅くなりそうになったので、家に連絡を入れようとスマホを手に取った。
その時、新たな問題が発覚した。
スマホの電源が入らない。
「そうだ、そういえばスマホは一緒に海に水没したんだった」
「えー大変! ごめんね」
「別に鈴鹿さんが謝ることじゃないよ。僕が勝手に滑って海に落ちたんだから」
スマホ以外もポケットに入っていた物はみんなズブ濡れになっていた。
「あーかわいそうー。この子もびしょびしょだ。今乾かしてあげるねー」
そう、さっき一緒に買ったペンギンのストラップもズブ濡れになっていた。
まあこのほうがペンギンらしい感じになった気がするけど。
彼女はその濡れたストラップを丁寧にドライヤーで乾かし始めた。
「君のも貸して。一緒に乾かすから」
「あっ、ごめん。僕がやるよ」
「いいよ、私がやるから」
「ダメだよ。海に落っこちて濡らしたの僕なんだから」
僕は半ば無理やりにドライヤーと濡れたストラップを受け取り、乾かし始めた。
部屋の中にドライヤーの轟音が響く。
「あ、あのさ・・・」
僕はドライヤーを持ちながら、今までずっと言いたかったことを思い切って話すことにした。
「うん?」
「ちょっと言いにくいことなんだけど」
「え? なあに、あらたまって・・・」
「あの申し訳ないけど・・その『君』って呼び方、実はちょっと苦手なんだ・・」
「え? どうして?」
「僕、『君』って呼ばれると、なんか先生とかに言われてる感じがして、萎縮しちゃうんだ」
「えーそうなの・・・私は親しみがあって好きなんだけど・・・」
彼女はきょとんとして顔をしかめた。
「まあ君が言うならしょうがないな。よし、じゃあこれからは名前で呼ぶことにしようか。ね、雄喜!」
――え、名前って下の方なの? しかも呼び捨てって・・・。
「そうだ。じゃあ雄喜も私を下の名前で呼んでよ。友達もみんなも名前で呼んでるし」
「な、名前って・・・何て呼べばいいのかな?」
「『名前で呼んで』ってお願いして『何て呼べばいいの』って聞かれたら、何て答えればいいの私・・・」
「したのなまえちゃん・・・」
そう言った瞬間、二人の間の空間がたとえようもない気まずい空気に覆われた。
「ごめん。それって、笑うところ?・・・」
彼女は恐る恐る僕に尋ねてきた。
――やっぱり、言うんじゃなかった・・・。
僕は言ったあとに猛烈な後悔の念に襲われた。
たまには冗談を言ってみようと懸命に考えたのだが、僕にはやはり根本的にジョークのセンスが無いのだろう。
「君、やっぱリ考えて喋んないほうがいいと思うよ。あ、ごめん。また『君』って言っちゃった」
彼女は呆れながら肉まんを頬張った。
「あー、じゃあ、さき・・・ちゃん」
僕は慣れない呼び方に恥ずかしい気持ちと照れくさい気持ちが交錯する。
「あ、ちゃん付けはやめて。同じクラスに『亜紀ちゃん』がいるからさ、紛らわしいの。『咲季』でいいよ」
「『亜紀ちゃん』は僕と知り合いではないから関係ないんじゃない?」
「ほーら! いいから!」
「え、何?」
「何じゃないでしょ! な・ま・え!」
彼女は容赦しない性格のようだ。
「ああ・・・さ・き・・・・」
僕は女の子の名前を呼び捨てで呼ぶなんてことは初めてだったため、猛烈に違和感が僕の心に走った。
「ええ? 聞こえないよ」
うん。彼女は容赦しない性格だった。
「さき・・・」
「もう一回」
「咲季!」
「フフ」
彼女はとても嬉しそうな顔をしていた。
・・・なんて思っている時だ。
何か焦げた臭いがまわりに充満していた。
「うあ! 雄喜ィ! 焦げてるよ!」
彼女が慌てた顔で叫んだ。
「ゲゲ!」
ドライヤーを近くで当て過ぎたのだろう。
乾かしていたペンギンのお腹が見事にこんがりとした黄金色に焦げていた。
「ああ、ごめんね! どうしよう・・・」
焦がしてしまったのは僕が彼女に渡したほうのストラップだ。
彼女はその焦げたペンギンのお腹を痛々しそうにさすっていた。
「ああ、痛そう。君、ペンちゃんを焼き鳥にするつもり? 動物虐待だよ!」
「あの、ごめんね。僕のと交換するよ」
「ううん、こっちのでいいよ」
彼女は笑いながらあっさりと答えた。
「だって焦がしちゃったし・・・」
「こっちがいいの! これは君が私に買ってくれたものだもん」
「え? だって・・・同じじゃない?」
「同じじゃないよ! そっちは私が君にあげたやつだからね。大切にしなきゃ怒るよ」
――そんなものなのかな・・・。
経験不足だからなのだろうか、僕はやはり女の子の気持ちが理解できない・・・。
その時、ベルの音が部屋に鳴り響いた。
突然の大きな音に二人ともビクっとなる。
ベッドの脇にある電話の呼び出し音だった。
受話器を取ると、さっきのフロントのおばさんの声がした。
「あと十五分でご宿泊料金になりますが、どうなさいますか?」
――え? ご宿泊?
「ど、どうしよう?」
電話口のおばさんの声がとても大きく、内容は彼女まで聞こえていたようだ。
彼女も困ったような複雑な顔をしていたが、何も喋らなかった。
――彼女、どうして何も言わないのかな? まさか・・・泊まる?
そうぐちゃぐちゃと考えている間に、僕は気持ちとは裏腹に反射的に返事をしていた。
「はい、あの・・・もう出ます」
彼女はホッとしたような、がっかりしたような、どちらでもとれる顔をしていた。
「うん、もう帰らなきゃ・・・ね」
彼女は下を向いたまま呟いた。
僕も黙って頷いた。
名残惜しいというのが正直な気持ちだったが、高校生がこんなところに泊まるのはもちろん許されるわけがない。
僕たちはゆっくりと帰り支度を始めた。
忘れ物が無いかと部屋の中を確認する。
すると、彼女が床に這って何かを探していた。
「何か落としたの?」
僕がそう尋ねたが、彼女の返事は無かった。
「何か捜してるの?」
また返事が無い。
――どうしたのかな?
僕は探し物を一緒に探そうかと彼女に近づいた。
すると、彼女の体が小刻みに震えていた。
「え?」
――違う!
僕は彼女の体に何か異変があることに気づいた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「ごめんね。ちょっと・・・・苦しくなっちゃって・・・・」
明らかに様子が変だった。
「大丈夫・・・すぐ治まると・・・思う」
彼女は苦しそうな声で呟いた。
――どうしよう・・・こんなところで・・・。
僕はどうしたらいいのか分からず、ただ茫然としていた。
徐々に彼女の息遣いが荒くなってくる。
僕は焦った。
胸のあたりがかなり苦しそうだった。
「ドジだな私。薬・・・学校のカバンの中だ・・・」
――え? 薬って、まさか心臓?
「・・・・・」
目の前で人が苦しんでいるなんて生まれて初めてのことで、僕は頭の中が真っ白になった。
――どうしよう・・・どうしよう・・・。
頭の中で同じ言葉が繰り返えされた。
もう彼女は喋ることができないくらい苦しい状態だった。。
――もうだめだ。何とかしないと。そうだ救急車だ!
僕はスマホを慌てて掴んだ。
――あ、そうだ。スマホは海に落として壊しちゃったんだ、どうしよう。
僕はさらに頭の中がさらにパニックになる。
――そうだ、部屋の電話だ!
僕はベッドの脇にある電話の受話器を取った。
――この電話って直接119番に繋がるのかな? そうだ、取り敢えずフロントに連絡・・・何番だ?
焦って気が動転する。
正面に『フロント0番』の文字が目に入った。
僕はすぐにボタンを押した。
フロントの人に事情を話し、救急車のお願いをした。
僕はもう何がなんだか分からなくなっていた。
――彼女の身にいったい何が起きたのだろう?
このあとの出来事については、僕は気が動転していて、断片的にしか記憶が無い。
憶えているのは、救急車が来た時、ホテルの前に人だかりができていたこと。
僕も一緒に救急車に乗り、病院まで行ったこと。
救命士さんから彼女の保護者への連絡先を聞かれたが、僕は答えられなかったこと。
彼女が苦しみながらも自宅の連絡先を伝えたこと。
一緒に病院に入ったあと。
彼女が集中治療室へ入れられたこと。
そのあと、彼女のご両親が病院に来たこと。
気がつくと、僕は病院の集中治療室の前にいた。
僕の横には彼女の両親が黙ったまま、心配そうに座っている。
誰も喋ることは無く、静寂が続いていた。
しばらくすると集中治療室から医師が出てきて、彼女の容態がなんとか落ちついたということを伝えられた。
僕は安堵の気持ちを抑えられなかった。
ホテル内でのことだったので事件性を懸念したのか、僕はこのあと警察の事情聴取を受けた。
恐らくホテルのフロントのおばさんが連絡したのだろう。
事件性は無いと分かり、警察からの尋問は形式的なものだけで、僕はすぐに解放された。
ただ、このあとの彼女の両親からの尋問がすごかった。
学校をサボり、挙句の果てにホテルに一緒に入り、そこで倒れただなんて・・・。
何か言い訳ができるわけがなかった。
誰が学校をサボろうと言い出したのか?
どっちがホテルへ誘ったのか?
特に父親からの質問の責めがキツかった。
僕は自分から彼女を誘ったと話した。
別にカッコをつけた訳ではない。
彼女がこのことで両親から怒られるのが嫌だったし、何より彼女が僕を誘ったようなウワサがたつのがもっと嫌だったからだ。
実際に最終的に電車に引っ張ったのは僕だし、ホテルに入らなければならない原因を作ったのも僕だ。
そう。僕がはっきりと授業をサボるのをやめようと言えばよかったんだ。
僕の優柔不断さが、彼女をこんな危険な目に遭わせてしまった。
これは紛れもない事実だった。
僕自身がそれに納得していた。
彼女の父親は激怒し、もう彼女には絶対に会うなと言われた。
父親として当然のことだろう。
僕もそう言われることは覚悟していた。
でも、彼女が倒れた理由については何も教えてくれなかった。
「ごめんね。鈴鹿さん・・・」
僕はひとりで病院をあとにした。
このことは当然のこととして僕の両親や学校にも報告が行くことになり、かなりの大事になると覚悟していた。
学校もサボってしまった。
ただでは済まないと僕は覚悟していた。
しかし、帰ってから親から何も言われることは無かった。
その後の学校からの呼び出しや連絡も無かった。
彼女の両親はどこにも報告や連絡をしなかったようだ。
僕に気遣ったのか、彼女を気遣ったのか。
どちらにしても、僕がもう彼女に会えないということには変わりないだろう。
水没したスマホには、今日交換したばかりの彼女のアドレスと電話番号をメモリしていたが、恐らく修復不能だろう。
神様が彼女との関係をリセットしなさい、とでも言っているようだった。
心の中からだんだんと切なさが込み上げてきた。
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