33 “待ち続けた人”

 嬢ちゃんはどうだ、とジオが尋ねてくる。


 絶えず洞穴の外を気にしている彼は、外から物騒な音が聞こえるたびに反応している。


 怯えているのではない。多くの白虎の者たちがそうであるように、ジオも戦い自体をいとう人間ではないのだ。


「気を失っているだけのようです」


 地面に膝をついたまま、カミルはそう答えた。


 抱き上げたラナーニャの体には、ちゃんと生きた人間のぬくもりがある。呼吸も正常だった。

 ただ意識だけが戻らず――その理由も分からない。


 ジオはカミルの腕の中の少女を見下ろし、それから改めて地面に視線を移した。

 あの白い煙のような力が噴き出した場所に、今は何もない。それを見て、海の男は渋面を作る。


「お前さん、朱雀の力には詳しいか?」


 俺にはさっぱり分からんと言う彼に、カミルは首を振った。


「長年シグリィ様とセレンと共にいますのである程度は。それでも、こんな現象はあまり見たことがない」

「あー、ボウズにも分からなかったみたいだしなァ」


 ますますいかつい顔をしながら、ジオは両腕を組み――器用にも片手には棍棒を掴んだままだったが――虚空を見やった。


 何かを考えこむような気配。カミルはかがんだまま、彼を見上げる。


「何か思うところでもありますか」

「あー……実はな。俺ァなーんか気になんだよ。この俺がこんな話をすんのも似合わねえけどよ」


 夢を見たんだ、と。

 カミルに視線を合わせて、彼は真顔で言った。


「さっきまで、寝てただろ? 正直俺は普段夢なんざ滅多に見ねェよ。だがさっきは見た。そんで」


 そこでふと口をつぐむ。


 強い色の目に、躊躇ためらうような陰りがあった。


 セレンと少年、二人が残していった魔力の灯は、時間とともに徐々に暗くなっている。


 外で振動が起き、空気の流れが灯を揺らした。ゆらりとカミルたちの影が揺れ、形が一瞬不明確になる。


 主たる少年は無事か。そう思って思考が分散したそのときに、ジオは句を継いだ。


「出て来やがったんだよ。夢に、アイツがな。――ユキナが」


 。その名が、空気に落ちたその刹那。


 カミルの全身が緊張した。来る、異質な何かが――!




 気がつくと周囲が白く染まっていた。地面から噴き出し、ラナーニャを包んだあの白さに似ている。


 ジオがすぐそばにいる。さすがにうろたえた声を出し、棍棒を軽く振り回して、霧のような何かを払おうとしている。


 だが、効き目はなかった。


 変化を捉えたときには、カミルの体もラナーニャを護るために動こうとしていた。しかしそれも無意味なことだった。――動けない。


 身構えるべき対象がない。敵意が、どこにも見えない。


 霧によく似たこの白さは、肌に何も感覚を与えない。ただ見える世界だけを変貌させる――元いた世界と断ち切られたかのように。


 ――大丈夫だよ、と声が聞こえた。


 ジオが動きを止めた。


 いかついその輪郭も薄ぼんやりしか見えない中、男が硬直したのが、カミルには分かった。


『ジオがいてくれて助かったよ。誰か、のための人が必要だったから。わたしが知っていて、わたしのことを知っている人が』


 声は朗らかだった。どことなく特徴のある音調だ。どこかの国のなまりのような、あるいは唄っているかのような抑揚をつけて、声は続けた。


 久しぶりだね、ジオ――と。


 白さが晴れていく。魔力の灯火は明度を落としながらもいまだ健在で、洞穴の中をゆったりと浮かび上がらせている。


「――なんで」


 ジオがしゃがれた声を絞り出した。

 声の聞こえた方向を凝視したまま、冗談だろ、と言外に呟くような表情で。


「なんでお前がここにいるんだ……


 彼らの前に娘はいた。長い檸檬レモン色の髪を背中に流し、その痩躯そうくが気にならないほど豊かな微笑みをたたえて。


『もちろん、やるべきことがあるからここにいるんだよ』


 夕焼け色の瞳が、いっそう深い輝きを帯びて彼らを見た。ジオを、カミルを、そして――カミルの腕の中の少女を。





 ユキナはとても不思議な人だった、とマーサは呟いた。


「………? どうしたの、いきなり?」


 一緒に台所に立ち、忙しく薬草をすりおろしていたハヤナが、怪訝な顔をする。


 その疑問に直接答えることなく、マーサは続けた。「時々思ったのよ」と。


「ユキナは本当に≪印≫を持っていないのかしら、って。根本的に、あの人は私たちと何かが違うような気がした。あのころの私は、その違和感を≪印≫があるかないかの違いから来ているのかもしれないと思っていたの。だから、直接聞いたわ――あなたは本当に≪印≫を持っていないのですか、って」


 ハヤナがぎょっとした顔をする。この妹が自分に対して持っているイメージを、マーサはよく理解していた。おそらく姉が誰かを疑い、しかもそれをぶつけて関係を緊張させるところなど、想像もできないはずだ。


 しかし、マーサは実際にそれを行った。

 恩人に最大の疑問をぶつけることを、迷いなく。


「ユキナは『よくそこを疑ったよ』と満足そうに笑ったわ。そして、私の前で全裸になって見せた」

「ぜんっ……!?」


 目を白黒させる妹にくすっと笑みがこぼれる。


 しばらく珍妙な顔で空をにらんでいたハヤナは、やがて、はああと大きなため息をついた。


「……まあユキナらしいけど。ユキナってヘンな人だったよね」

「そうね」


 変人、と言えばたしかにそうだったのだろう。ユキナはよく他人の口調を真似していた。村人の口真似をしては、村人を笑わせていた。ころころと口調を変えるので、機嫌が分かりづらかったりもしたものだ。


 それは彼女が両親と弟とともに、大陸を渡る生活をしていたころからの癖だったらしい。『しまいには自分自身の本当の口調が何だったのか分からなくなったよ』と、まるで何でもないことのように笑っていたのだ。


『最初はね、別に人の真似をすることに特別な意味はなかったんだよ。しいて言えば〝面白かったから〟だね。でも続けているうちにちょっとした目標が出来たんだ』


 人の口真似をしてみる。

 人の行動の真似をしてみる。


 それは他人を理解することへの、第一歩。真似をしながら、感じてみる。同じ言葉でも口調が違えば湧いてくる気持ちも違う。どんな心が、自分の内側に生まれるのか。


 ――他人の気持ちを理解しようだなんていう、どう考えても不可能なことに、挑戦してみたいと。


『不可能への挑戦だよ。そしてわたしはイリス様よりも強い女になりたい』


 小高い丘の上。村長宅として彼女たちの手で完成させたばかりの家の前で、ひらりと軽やかに身をひるがえして。


 夕焼けを背景に、ユキナは言った。


『イリス様は慈愛の女神。他人を受け入れる人。まずは、そういう人間になりたいんだ』


 ――≪印≫を持つ人々のことも? マーサは我知らずいていた。


 ユキナはにこりと、空と同じ夕焼け色の瞳を笑みの形にして。


『当然だよ。そもそもわたしは≪印≫持ちを憎めない。わたしを護ってくれたのは≪印≫持ちの両親だったし、それに――』


 そこでふと、遠くを見るような目をした。

 見ているのは夕焼けとは逆の方向。愛おしげな顔で。


 そして急に軽い口調になって、続けた。


『ま、わたしがそういう人間になったことは、結果的に両親には好都合だったらしい』


 好都合……?


 どことなく不穏な単語にマーサの表情が曇る。


 そんなマーサに向き直り、ユキナは言った。


『――この間見つけた洞穴には、。本当は最初にこの島に渡ってきたとき、わたしとユドクリフの二人きりじゃなかった』


『え……? でもあの洞穴に、人なんて――』


『地下に潜った。あの状態にするのにちょっと時間かかったみたい。一応二人とも、朱雀の術者としては結構上級者だからさ、難しいけどできないことじゃなかった』


 まあ、魂を削るような力の使い方だったけどね――と苦笑する。


『地下……?』


 なぜそんなことをしたのだろう。身を隠すために?

 魂を削るようなことをしてまで――?


 〝死期が近かったんじゃないのか〟


 唐突に横から割って入った声は、マーサをたいそう驚かせた。


『命を削ってでも惜しくないのは、どうせ死ぬと思っていたからだろう』


 建物の陰から、ゆっくり歩み寄ってきたのはダッドレイだった。眼鏡の奥の灰色の目が、険しいままユキナを見据えている。


『気づいてたんだね、レイ』

『その名で呼ぶなユキナ。そんなことよりもあんたの両親がやろうとしていることは、この島の害になることじゃないだろうな?』

『あはは、君らしいな』


 声を立てて笑ってから、ユキナはすっと目を細めた。


『――どうかな、約束はできないかもしれない。何しろうちの両親がやりたいことが実質どんな事態をもたらすのか、わたしにもちょっと予想がつかないから』


 ダッドレイの目がますます怒りの色を帯びた。

 しかしユキナは動じる様子もない。


 戸惑うマーサと、憤るダッドレイと。二人の前で彼女は朗々と唄うような言葉を紡ぐ。


『父さんも母さんも真剣な顔でわたしに謝ったよ。わたしとユドクリフのことは大切だし、この島に集まってくるだろう≪印≫なき子どものことも他人事じゃない。だけど死ぬしかないのなら、どうか最後は遠い場所にいるもう一人の大切な人のために、力をのこすことを許してほしい――って。わたしは即答した。〝じゃあついでにわたしのことも利用したらいい〟ってさ。あいにくユドクリフは怒ってたけどね、今のレイみたいに恐~い目をして」


 そう言って愉快そうに笑ったユキナ。


 ――思えばこの時、彼女自身も死期を悟っていたのかもしれない。

 その後わざわざ、『もちろんわたしは一緒に死ぬ気はない。まだまだこの村の子たちのために働くよ』と付け加えたのだから。


 近くの木ががさりと音を立て、そこから鳥が数羽飛び立った。

 高らかな鳥たちの鳴き声は、長く尾を引いた。


 その余韻がいつになく不安をあおった。マーサは一心にユキナを見つめた。それに気づいていたのかいなかったのか、ユキナは。


『でもね、わたしは何となく予感があるよ! うちの両親がやろうとしてることはあくまでも個人的なことなんだけど、それはきっとこの島にとっても意義のある結果を生む。うん、だからレイもマーサも心配しないで。あの洞穴を放っておいて大丈夫だよ、わたしを信じて』


 夕焼けを背後に従えたまま、力強く。


 ――彼女が死んだのはその二年後だ。十九歳を迎えたころから、日々弱っていったあげくのことだった。


 最期の床にマーサを呼びつけたユキナは、微笑んで『あとを頼むね』と言った。


 それから、マーサ以外の誰にも聞こえないよう、小さな声で囁いた。


『いつか……もしもこの島に、突然の来訪者があったら、それはきっとわたしとわたしの両親が待ち望んだ人だ。あの洞穴に、案内してあげて』


 それがたびたび島に押しかけてくる自称〝研究者〟のことではないことは、マーサにも分かった。


 それ以来、マーサも待ち続けたのだ。ユキナが言い遺した待ち人、〝突然の来訪者〟を。




(それがシグリィさんたちのことなのか、それともラナーニャのことなのかは分からない。でも、必ずどちらかだと感じたの。ううん、むしろ〝二人とも〟だと――)


「マーサ?」


 妹の声で想念から引っ張り出される。


 返事をしながら窓の外を見た。


 抜けるような春の空がある。この空は南東にあるあの洞穴をも、等しく抱いてくれているはずだ。


 あの洞穴まで続いているのなら、祈りを届けたかった。


 ――どうかユキナの最期の願いが、成就しますように。ただそれだけを。

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