34 正体

 ジオにユキナと呼ばれた娘はゆっくり歩み寄ってくると、いまだこんこんと眠り続けるラナーニャに手を伸ばした。


 カミルにとっては見知らぬ相手だ。だが伝え聞くユキナという人物のことと、ジオの様子、何より今、自分の目で見る娘のまとう空気が、カミルに危機感を与えなかった。


 ユキナはラナーニャの頬を撫でて、くすりと笑った。


『マーサは本当に期待を裏切らない。ううん、むしろ期待以上だね』


 その声。確かに聞こえるのに、どこかふわふわと掴みどころのない響きがある。


 現実感がない音――とでも言うのだろうか。

 まるで、夢の中で聞く声のような。


「お、おいユキナ。何の話だ?」


 うろたえるばかりのジオに、悪戯っ子のような顔を向ける。


『だから、この子を待っていたんだよ。わたしと、わたしの両親。まあ、正しく言えば』


 ――と、少女は愉快そうに肩を揺らした。


『本当は、わたしたちの待ち人本人を待ってた。でも、来たのは本人じゃなかったね。きっとあの子の大切な人なんだろう』


「意味わかんねーぞ???」


『いいんだよ、すぐにわかる』


 すっくと立ち上がる。


 着ている白いワンピースの裾が、空気をはらんでふわりと舞う。


 立ち上がると、かがんでいるカミルより少しだけ目線が高い。そんなユキナを見上げて、カミルはいた。


「……あなたは≪印≫がないと聞いていたんですが」


 そうだよ、と軽い返答があった。


「そのわりには……今あなたがまとっている気配は完全に朱雀のそれだ。どういうことですか?」


『これはわたしの親の力だよ』


 ユキナはその細い指先を、地面に向けた。『この下で眠ってる、わたしの両親。れっきとした南生まれの朱雀の術者だ』


「親……」


『と言っても、父さんも母さんも長年の逃亡生活で疲弊しきっててね。この島に着いたころには満身創痍でろくな力も出せなかったんだ。無茶な戦いばかりしてきてたから、寿命も縮んじゃったみたいでね。でも死ぬ前に、なんとしてもやりたいことがひとつあった――』


 そりゃあ何なんだとジオが強張こわばった声で問う。

 うん、とユキナはうなずいた。


『もう一人、護りたい人がいたんだ。助けたい、って言ってもいい。けどその人は遠く……遠くシレジアにいて、直接は何もしてやれない。その代わり、彼女がわたしたちを探そうとしたときには――すぐにわたしたちのところへ辿り着けるように、しるべを作ることにした』


 かの人が迷わぬように。

 違わず再会できるように、しるしを。


『そのために必要だったのが、まず大地の力を借りること。四神の力はこの大陸が増幅してくれるから――。そして都合のいいことに、がいたから。わたしを利用してと言ったのはわたし自身。そして、父さんと母さんはそれを決めた』


 胸を開いて、娘はにっこりと微笑んだ。おおらかな、果てを知らない笑顔で。


『つまり、わたしは父さんと母さんの力を受ける〝器〟であり、作りたかった〝標〟そのもの。朱雀の魔力の結晶――』


 朗々とした声は、確かな強さをもって鼓膜を打った。


『今のわたしの体はそれこそ幻の産物だよ。役目を果たせば、そこで消える』




 ――高らかな魔術の詠唱が外で放たれ――


 継いで、人外の奇声が空気を割るように轟いた。


「―――っ!」


 カミルは洞穴の入口へと鋭く視線を走らせた。


「おい――あのボウズは無事か?」


 轟音に慌てふためいて、ジオが棍棒を握り直す。

 今にも外へ飛び出しそうな彼を、カミルは制した。


「大丈夫です。シグリィ様の気配はまだ健在だ」

「つっても、やつぁ怪我人――」

「もしも危険なら私を呼びます。呼ばない以上、我々に外に出るなとシグリィ様が命じているのと同じです。出てはいけない」


 腕の中の少女の呼吸に変化がないことを確かめる。


 昨夜現れたのは〝黒い鳥〟だという。翼持つ敵はカミルの不得手だ。弓があればいいのだが、長旅の都合で持ち歩いていない。


 昨夜敵を知った時に、簡易なものを作ることを考えたのだが。あいにくそんな暇がなかった。


(……一番の予想外はセレンがどこかへ消えたことですが)


 現状、ここから出るべきではない。

 そうは言っても、ただ時が過ぎるのを待っていればいいわけでもない。


「ユキナさん」


 カミルは顔を上げた。

 己を〝幻だ〟と言い切った少女のまとう、淡い空気を見つめて。


「もう少し聞かせてください。あなたのご両親が行った術について」


 〝役目を果たせばそこで消える〟というのなら、なぜ今この瞬間、まだ形を残しているのか――?


 カミルの問いに、ジオが息を呑む。


 ユキナは自身の両手を見下ろした。


『そうなんだよね。本当はその子と会ったことでもうお役御免のはずなんだけど……どうもその子、わたしを拒絶したみたいだ』


 ――あなたはだれ、と


『その子はわたしに、そう言った。わたしたちの待ち人本人が代わりにここへ飛ばすくらい大切な相手なら、多分わたしのことが分かるだろうと思ったんだけど』


「ラナーニャは今、記憶喪失です。そのことが関係しているのでは?」


『記憶喪失?』


 そのことは想定外であったらしい、ユキナは目を見開いた。


 その瞳にみるみる理解の色が広がっていく。


 そう、と少女は吐息のように呟いた。


『つまり記憶を喪うほどの何かがあった――ってこと、だね。わたしの姿を見て、戸惑うっていうより、そう……怯えているように見えた。だとしたらひょっとして』


 そこまで言って、口をつぐむ。


 ずっと朗らかだった表情に、初めて哀しみの影が差した。


『そうか』


 もう一度、小さく呟いて。


 見守るカミルとジオの視線の前で、娘は決然と顔を上げた。カミルに向き直り、早口に尋ねる。


『今、外にいる彼。外で戦っている彼。あれはあなたの仲間?』


「ええ」


『とても特殊な力の持ち主に見えるけど』


「そうかもしれません」


 目線でひそかにジオの存在を示しながら、曖昧に返答をする。

 ユキナはうなずいた。


『マーサがこの女の子だけじゃなくあの男の子も一緒にこの洞穴に導いてくれたのは本当に幸いだった。彼なら、わたしの両親の術を発展させられるかもしれない。彼にここに戻ってきてもらおう』


 外の方向を見やる。


 叫声きょうせいはすでに止んでいた。かすかに、少年の声が聞こえる。話し声のような口調だ――だが、いったい誰と会話しているというのか?


 カミルの背筋に、汗が伝って落ちる。


 今までなかった気配が、外にもうひとつ生まれていた。こごった〝力〟の塊。規模は大きく感じないというのに、その中心部にある熱量が凶暴なほど大きい。


『わたしが呼んでくる。あなたたちはここにいて。その子に怪我をさせないように』


 そう言って、ユキナはひらりとスカートの裾をひるがえした。軽やかな足取りで、洞穴の出口へと。




 魔力の最大量に彼我ひがの差があるときは――こちらの方が威力の弱いことが予想できるときは、

 魔術合戦をするのは避けた方がいい。それが鉄則だ。


 だが、シグリィはあえて魔術戦を選んだ。


 小規模の術を間を置かずに展開する。揺さぶりをかける。詠唱なしの術も隙間なく織り込み、鳥たちを追い込んでいく。


 大半の術は、三体の黒塊にダメージを与えることもできなかった。漆黒の羽毛の表面で消滅するものも多い。


(想定内だ)


 自分の体力を慎重にはかりながら、シグリィは迷うことなくそれを続ける。


 動きを確認したかった。


 今、目の前にいる三体。昨夜の鳥たちと同じ姿かたちでありながら、強さが違う。

 だが違いはそれだけじゃない――


。中心となっている存在が)


 最初こそ、どれも差のない動きを繰り返しているように見えていた黒鳥たち。それが揺さぶりをかけるうちに、違いをあらわにし始めている。

 一見同じ目的のために突撃する兵隊のように似た行動パターンを続けていたものが、だんだんとはっきりとした差を見せてきたのだ。


(人間が操っている〝迷い子〟は今まで見たことがないが……もしも存在するなら)


 それには二種類の場合が考えられる。一つ目は、術者だけが別の場所にいる場合。操り人形にあらかじめ命令を仕込んで、自分は高めの見物を決め込むか、遠隔操作のみに終始する――


 最初にシグリィが考えたのはそれだった。このエルヴァー島が大陸から離れた孤島であることを思えば、それが自然だったのだ。


 だがここに来て、彼はその予想が誤りであったことを認めた。


(術者本人がここに来ている、とは、やはり考えにくいが――)


 それに近い状態にはできる。

 すなわち、となる存在を現場に送り込んでいる場合だ。


 ――それが今、目の前の三体の中にいる。


(ということは……セレンに匹敵する力を発揮した存在が、この三体の中に留まっているということだ)


 思考の片隅で苦笑する。本当に厄介な状況だ。朱雀の術の相殺で転移術が作動した場合、転移の対象になるのは当然術者本人たちである。


 実際に、セレンは姿を消してしまった。

 それなのに、その相手はここに残っているのだ。


 地面のあちこちにクレーターができていく。草も石も爆ぜ、散り乱れていく。そこかしこで砂煙が舞っていた。


 何度目か分からない防御術が、敵の攻撃を受け止め、消滅する。

 そろそろ反撃に転じる頃合いだ。


(まずは他の二体。〝迷い子〟を魔力で操っている。なら――まずはその繰糸くりいとを、切る!)


 くちばしの一撃を飛びのいてかわし、

 操り人形である二体が近づく――その瞬間を狙って。


「―――!」


 少年の背中の≪印≫が瞬くように輝いた。


 シグリィの黒曜石の瞳が一瞬、星を呑み込んだように強く光を帯びる。


 位置の確定。空間の認識。そこだけ刻が止まったかのように景色が止まる。止まる、二体の鳥の動きも。


 ――≪虚無≫。全ての幻を無に還す――


 幻とは魔力そのもの。朱雀の術者たちの描いた幻想すべてを、それが玄武の力。


 ぷつり、と糸が切れたように。限定空間の中にいた二体の鳥が落下した。魔力という繰糸が切れて、体の制御を失ったのだろう――


 二つの黒塊は地面に落ちて、砂煙を巻き上げた。


 シグリィは続けざまに魔力をみなぎらせた。視界の端、最後の一体が突っ込んでくる――!


くらき力を焼き尽くせ!」


 炎の波が迎え撃った。しかし一度は呑み込まれた漆黒の塊が、数拍で波を突っ切り目の前に迫る。


 火の粉が散る。闇色の羽根が舞う。ずっとシグリィが観察していた、もっとも強力なる鳥。彼のどの術でもさほどのダメージを与えられず、動きを止めることも難しかった一羽。すべての術をその羽毛の表面で無効化しているかのように見えるそれが、


 肉薄する。鳥の瞳の混沌が眼前に迫り来る。


 ――真実の目よ


 敵の狙いはシグリィの首筋。鋭いくちばしは人間の急所をよく理解していて、

 黒鳥の巨体は何倍にも膨れ上がったように、その迫力で視界を支配する。そんな一瞬に。

 シグリィは――右手を突き出した。


 素手で、嘴の軌道を無理やり横へと逸らす。


 ほんの数ミリ動けばそれでよかった。


 くちばしに返り血が飛ぶ。構わず、鳥の動きに沿うように半身を逸らしていく。通り過ぎようとする闇色の鳥の体積が――


 彼が己の体を中心に編み上げていた術の空間に、はまった。


 ――うつろの王の 空言そらごとを 暴け!


 朱雀の術を解除する方法は。

 玄武の≪虚無≫と、もうひとつ。


 同じ朱雀の魔力で、術を破壊すること。時には壁に穿うがった穴に、水流を流し込むような形で。


 けたたましい叫びが――闇色の鳥の叫びが耳をつんざいた。悲鳴ともときの声ともつかぬ叫喚きょうかん――


 その喚声よびごえに応答するかのように、空に異変が起こった。どこからか濁った色の雲が発生し、抜けるような快晴だった天が瞬く間に暗がりに転じる。


 闇の鳥はシグリィの懐から逃げ出し、高い位置で苦悶にはばたく。


 ――しかしそれもわずかの間のこと。


 羽根の全てを撒き散らさんと暴れる狂乱の鳥が、動きを止めた。


 その姿が徐々に滲んで、別の輪郭へと変化していく。黒い羽毛を濡羽色のドレスに、翼をしなやかな両腕に、小さな鳥足を軽やかな人の足に、


 豊かな黒い髪が、ばさりと跳ねた。

 折り曲げられていた体が、ゆっくりと起こされる。


 漆黒に包まれた衣装と髪の中で、まったく色褪いろあせないなめらかな白い頬。その姿は意外なほど小さく、意外なほど若い――


 しかし虚空からシグリィを見下ろすその瞳は、あの黒鳥と同じ闇を内包していた。


『……ずいぶん器用な術だこと。鍵は複雑に作ったつもりだったのだけれど……その鍵に見事に合わせたように見せかけて、最後は力ずくで破壊するなんて、愉快だわ。うっかりまともに受けてしまったではないの』


 くすくす、くすくすと。


 先ほどの苦悶が嘘のように、鳥であったものは笑みをこぼした。


 その声は鈴の音のように美しい響きをしていた。背後におどろおどろしい灰色の空を従えながら、あまりに不釣合いな軽やかさを伴って。


「……完全に鍵穴の形を見出す暇はなかったからな」


 シグリィは両手を下ろした姿勢で、正体を現した鳥を見上げる。空に浮かんだままの、彼よりさらに年若く見える少女を。


 くちばしを無理やり逸らした彼の右手から、血が溢れていた。


 それと同じ赤い色が、少女の口元に一本の筋を作っている。


 少女はそれを、ちろりと舌で舐め取った。心の底から満足そうな、恍惚とした表情で――

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