32 巨鳥の再来
外でセレンの魔力が急激に膨れ上がった。
直後、揺れた地面に体が緊張する。
そしてそれに対応する間もなく次の変化。
――セレンの気配が、消えた。
「―――!」
シグリィは脇腹の痛みをこらえて立ち上がった。
眼前では、ラナーニャを包んでいた白い煙が晴れようとしている。朧気だった輪郭がはっきりと見えてくる。
彼女の目は虚空を見ていた。その目が大きく見開かれたあと、ふっと光が消える。
そして、まるで糸が切れたかのように、その場にくずおれた。
煙で隔たれていた間、まるで手の届かないほどに遠くにいるかのようだった少女の体を、シグリィは手を伸ばして受け止めた。
「ラナーニャ! しっかりしろ!」
ぬくもりはある――
呼吸もある。正常だ。ただ、目だけが開かない。彼の声に反応しない。
洞穴の外で再びの爆発音。しかしセレンの気配はない。シグリィは音がした方向を鋭く一瞥する。洞穴の外から感じる存在感に覚えがある――あの黒い鳥たちと
ジオが外に飛び出そうとした。即座にそれを制止して、早口に言葉を継ぐ。
「カミル、ラナーニャを頼む。ジオさん、カミルと一緒にここで彼女を護ってください。あなたは白虎ですね――武器の扱いは?」
「いや、ガナシュに来た弱っちい犬の〝迷い子〟とくらいなら格闘したけどよ。棍棒だの斧だのくらいしか使ったことねぇな」
「結構!」
シグリィは洞穴の壁の中から適当な一部に視線を走らせ、そちらに片手を突き出した。
「英雄の鉄槌もちて
詠唱とともに、突き出していた片手を拳に握って、空を殴りつけるように振り下ろす。
ぎょっとするジオの前で、シグリィが狙った壁は突然砕け落ちた。
壁の各部の厚みなら、洞穴を見回ったときにある程度予測できていた。貫通はさせない程度の威力だ。ガラガラと音を立てて、いくつもの大きな砕けた岩が転がった。
シグリィはカミルにラナーニャを任せて壁に走り寄り、散らばった岩石の中から手掴みできる大きさのものを取ると、口の中で素早く次の詠唱をした。
パン、と乾いた音を立てて、掴んだ石の表面が幾分か砕け落ちた。
石はより長細くなり、振り回しやすい形状になった。
「即席ですが。気をつけて使ってくださいね!」
棍棒となった石をジオに放り投げ、「私は外に出ます。いざというときには彼女を頼みます!」
ジオが何か言うより早く洞穴の外へと滑り出た。
最後の一瞬に、カミルが意識のないラナーニャを抱き上げるのが見えた。
外に一歩踏み出すと同時、場を確認するより前に入口に結界を張った。それこそ即席の簡単すぎるものだ――だが一度は何かを防ぐことができる。
シグリィは視線で辺りを見渡した。
外は皮肉なほどに晴れ渡り、魔力の光に慣れた目に眩しく差し込んでくる。抜けるような空を行き交っているのは、三羽の巨鳥だった。間違いない、昨夜の鳥だ。闇色の鳥たちがその漆黒の翼を誇示しながら旋回し――
シグリィの姿を見つけるなり、
(
「慈母の
編み上げた不可視の防護術がふわりと視界いっぱいに広がり、嘴から吐き出される熱線を受け止める。
熱量の幾分かが壁を通して伝わり、じっとりと肌に汗が滲んだ。
脇腹が鈍く痛む。下半身が鉛のように重くなる。その隙に別の一個体が襲いかかってくる。半歩後ろへ無理やり地面を蹴りながら、取り出した鋼糸を閃かせた。狙いたがわず襲い来る鳥へと。
しかし、
「―――っ?」
鋼糸が漆黒の表面に達することはなかった。まるで高熱に放り込まれたかのように、その先端はどろりと溶け落ちた。
怪鳥は何ら動きを阻害された様子もなく、速度を緩めずに突っ込んでくる。
シグリィは体を横に投げ出した。一瞬前まで彼がいた場所に、黒い弾丸と化した鳥が嘴から直撃した。
地面を抉る音が炸裂し、土煙がもうもうと立ち昇る。
シグリィが態勢を立て直すより前に、最後の一羽が彼の横を通り過ぎた。洞穴の入口へ――
バチリと火花を散らして、鳥が結界に弾かれた。勢いを
「――
シグリィは強引に跳ね起き、短縮した詠唱と共に片手を
熱線がほとばしった。丁度洞穴に突撃しようとした鳥の頭を呑み込み、嘴もろとも炎上させる。前回対峙した黒鳥たちならば十分に致命的な威力の術だ。だが、
鳥は頭を焼かれながらも地面に落ちることはなかった。ましてや塵となって消えることもない。
元々闇色をしたその鳥は、焦げた痕跡さえはっきりと分からない。
幸い動きを止めることには成功したらしい。翼持つ黒塊は火の粉を振り払いながら頭をもたげて大きく旋回し、空に戻って行く。羽ばたきとともに散る赤い花は、薄青い空を背景にしてまるで鮮血を散らすようだ。
もう一度洞穴前を陣取ったシグリィは、三体の一挙一動を注視した。
(前の鳥よりも強い)
それは確実だ。姿かたちに差はまったくないというのに。
(何より――この鳥たちは朱雀の気配が強すぎる。もはや〝迷い子〟とは呼べない)
元々背後に人間の術者の気配をさせていた鳥たち。
前回も薄々気づいていたが、これで確定だ。あの鳥たちを操っているのは、朱雀の≪印≫を持つ誰かだということ。
(誰だ?)
脳裏に蘇るのは、洞穴の中で見た光景。噴き出した白い力と、それに包まれ意識を失くしたラナーニャ。
彼女に関しても確実に分かることがある。過去の言動や反応から導き出せば。
(ラナーニャはシレジアの人間だ。十中八九間違いない)
南国の島国シレジア。
女神イリスの加護を受けし、朱雀の楽園。
ハヤナが黒鳥に奪われたという青い石のことが脳裏をかすめる。シレジア名産のブルーパールとおぼしきそれを、黒鳥は狙っていた。さらにラナーニャのことも。
狙われているのがラナーニャだというのなら、
狙っているのもおそらくは、シレジアの人間。
(そして……朱雀の術者)
セレンはどこに行ったのか。巨鳥たちの威圧の隙間を縫ってその気配を探しても見つからない。
ただ、彼女が魔力を行使したその残留力だけがかすかに漂っている。
(今ここにいないというなら、転移をしたのか。それとも、
揺れの直前に、彼女の詠唱を聞いた。その詠唱からすると、彼女は転移の魔術を使っていない。
だとしたら敵の転移に巻き込まれたか、連れ去られたか――
「………」
シグリィは目を細めた。
三羽の鳥を順繰りに睨み据える。威圧する。体に宿した魔力を高め、滲ませ、それを誇示する。相手が朱雀の術者ならそれが通じる。
巨鳥たちから決して視線を外さないまま、忙しく思考を働かせた。
セレンが転移してしまった理由。考えられるものはもうひとつある。
(――敵の魔力がセレンと同程度だった場合。相殺の威力で稀に転移術が作動することがある――)
それはできることなら打ち消しておきたい考えだった。
単純な術の最大威力でセレンに勝る術者を、シグリィは今まで見たことがなかった。想像することさえ難しいのだ。
人間には脆弱な肉体に耐えうる許容量というものがある。セレンはその限界ぎりぎりの熱量を抱える極めて稀な術者だ。そんな力を抱えて生まれたら、制御することを知る年齢になる前に、内側の力に負けて死に至るのが普通だからである。
そのセレンと同程度だというのなら。
転移術が発動するほどに、相殺の魔力が高かったとしたら。
「……何にせよ。今度こそ逃すわけにはいかないな。どうもこの島に来てから私はへま続きだ」
声に出して呟いた。
脇腹の痛みは全身にまで広がるようだ。それを打ち消すために、強い口調で。
〝迷い子〟の域を超えた『何か』を見据えながら。
背後には洞穴の入口があり――そしてその内部にはカミルもジオも、何よりラナーニャもいるということを、克明に意識に刻みつけながら。
はらり、と空から黒い羽根が舞い落ちる。
闇の色をした巨鳥は、空を塗りつぶさんとするかのようにはばたく。
――敵が誰であろうとも――
「これ以上、失態を重ねるわけにはいかない。――来い」
まるで言葉が通じるかのように。
黒鳥たちは一声、つんざくような音で鳴き、三羽一斉にシグリィ目指して滑空した。
*
遠く、草原の方向に立ち昇る煙が見える。
「なんだ……?」
ダッドレイは険しい目つきでそれを見つめた。
自宅の窓からの眺めは広い。村はずれに近い位置にある彼の家は、北東の方向に一切の木がない。この家を構えるときに彼自身が切り倒すことを望んだのだ。
先代の村長とその弟は、当初村を木々で囲ってしまおうと考えていた。そのため言い争いも起こり、特にユドクリフはいまだにダッドレイを許していないふしがある。
――あの姉弟に恨みはない。だが、俺には俺のやり方がある。
窓を開け、軽く身を乗り出して目をこらした。眼鏡を通して見える風景には、その煙以外には異変がない。
いや。
(あれは……鳥か?)
立ち昇る煙の周囲に、幾つかの黒い点がまとわりついている。よくよく見ると、それは黒い鳥たちに見えた。
そうだ。昨夜村人たちの数人を襲った、あの鳥の群れ。
(また来たのか)
しかし村からは遠い。同じ場所を何度も旋回しているように見える。あの煙の元に何かがあるのだろうか?
あれは〝迷い子〟だ。〝迷い子〟が狙うものは、いつだってひとつきり。
「―――」
ダッドレイは窓を閉め、足早に物置へと向かう。
物置と呼ばれながらもほとんど何も置かれていない場所。そこの隅に置いてあった、子猫ほどの大きさの革袋を手に取り、肩にかつぐ。
家を出る前に一度振り返った。
ずっと一人で暮らしてきた家。時々自分でもぞっとするほど、生活臭に欠けた家。
唇の端にわずかに自嘲の笑みが浮かぶ。
この家はきっと、彼がいようがいまいが関係ないだろう。彼が出ていくことに無関心なら、彼が帰ってくることにも無関心であるはずだ。そうだ――
(それでいい)
ダッドレイは淡々と家のドアを閉めた。
それきり彼は、自宅を振り返らなかった。
*
「あっ……つう……」
もうもうと上がる煙の中央で、セレンはのっそりと体を起こした。
「あーもう……飛ばされちゃったのねー。どこかしらここ」
転移の術が強引に発動したときの、あの体から魂がすっぽり抜けるかのような感覚を覚えている。
その後、地面に投げ出された。相当上空から落ちたような気がする。咄嗟に風の魔術で自分を受け止めなければ体がもたなかっただろう。
洞穴の前に黒い鳥たちが発生した。あの時に使った術は、敵の力を受け止め威力を殺ぐものだった。万が一にも敵の力を見誤ることがないよう、目一杯の魔力で術を展開したのだけれど。
「相殺された、かあ。しかも転移が発生するとか。大人になってからは初めてよーもー」
ぶつぶつ言いながら体勢を整える。
杖を両手で持ち、辺りを見渡した。辺りを包んでいた土煙が徐々に薄らいでいく。
上空からは常にバサバサとはためく音が聞こえた。――黒鳥、全部で六羽。セレンからかなり離れた空の上を絶えず旋回している。
(
しまったなと彼女は顔をしかめた。
うまくやれば、転移するにしても全部を連れてくることができたはずだ。今、洞穴には怪我人である少年と、遠距離武具を身に着けていない彼女のパートナーしかいない。ラナーニャとジオの力は未知数すぎる。
「……まあ、ちょっと予想外すぎるんだけどね。私の力をまともに相殺してくれる人間が相手だなんて――思わなかったもの!」
背後に振り向きざま、杖を振りかざした。
詠唱なしの熱衝撃波がほとばしり、後ろから狙いを定めてきた黒鳥の一羽を呑み込んだ。だが――
燃え尽きない。火の粉に巻かれた羽根を周囲に飛散させながら、黒鳥はそのまま突っ込んでくる。
「………っ!」
セレンはすんでのところで身をかわした。
ざり、と靴が砂の上を滑る。
乾いた地面だ。ちらほらと薄く草が生えてはいるのだが、全体的に質素な感のある荒れ地である。人があまり来ないのだろう、明らかに踏まれた様子のない石があちこちに転がっている。
太陽の位置。海の気配。遠目に見える景色――ありとあらゆる視覚的な情報を頭に叩き込み、今自分がいる場所の予測を立てた。こんなときのために彼女はあちこち歩き回っているのだ。いや、第一の目的はただ単に散策が楽しいからなのだが。
どんな場所に行こうと、地理情報には自信がある。だてにしょっちゅうはぐれては「フラフラ歩き回るな!」とカミルに叱られまくってはいない。
この島での数日間も、同様のこと。
黒鳥は次々と攻撃をしかけてくる。
身をかわし、小さめの術を連発することでいなしながら、セレンは思考を広げた。
(島の……北東のどこか、ってトコかしら。となると、シグリィ様たちの居場所からはだいぶ離れた――戦いの巻き添えにしなくて良かった……って言いたいところだけど、残念ながら六羽しかいないし。しかも何か強くなってるし。シグリィ様なら大丈夫と思いたいけど、撃退はできても怪我を悪化させるわね絶対)
カミルは今回アテになんないのよね――と、これはわざわざ口に出してため息。
(でも
靴底が出っ張った石に引っ掛かり、動きが止まった。
その隙を狙って、黒鳥の鋭い嘴が唸りを上げた。
「
杖の先端をそちらに向ける。膨れ上がった魔力が鋭い光の矢となり、真正面から鳥を貫いた。
否――貫く直前、光は二つに裂けた。まるで黒鳥の嘴が
幸い衝撃だけは伝わったらしい、黒鳥の軌道は大きく歪んだ。余裕をもってかわしながらも、セレンは「もーっ」とわめいた。
「何なのよーっ。あんまり火力上げると、相殺されたときまた転移しかねないでしょーっ。誰なのよ、ほんとに!」
戦うことにやぶさかではないが、敵の正体が見えない。その状態で全力を出すのは危険をはらんでいる。
少なくとも、ただ〝迷い子〟を全滅させることを考えるだけでは駄目だ。敵は――人間だ。
六羽の攻撃をひたすら避け続ける。
新しい発見もなく、行動を決めかねていたその時。
視界の端で、キラリと何かが光った。
「っ!?」
セレンはさっと身を伏せた。
刹那、閃光と爆音が場を埋め尽くした。
黒鳥たちが様々に奇声を上げ、突然の攻撃に対抗しようとする。セレンは光を見ないよう目を閉じたまま、戦況を感覚だけで読み取ろうとした。時折混じる音は、黒鳥同士がぶつかった音に違いない――
(攻撃……? 違うわ、
うっすらと目を開けて確認すると、光はすでに消えていた。
(今のは)
飛んできた方向に視線を滑らせる。彼女のやや後方――
いつの間にかそこには一人の人間がいた。抱えた革袋につっこんでいた手を抜くと、大きく振りかぶり、
「―――!」
再び飛んできた球状の物はセレンの斜め前に落ちた。そして、着弾と同時に爆ぜた。
反射的に防御壁を構成しようとしたセレンはすぐにとどまった。小さい規模の破裂の後、球から噴き出したのは濁った煙だった。間欠泉のような勢いで噴き出したそれは、強烈な臭いを伴っていた。瞬く間に辺りに充満し、囚われた黒鳥たちがいっそう奇声を上げて暴れ回る。
(み、南で作られてる子ども用の〝迷い子〟対策道具……っ。た、助かるは助かるんだけど……鼻が曲がるっ!)
鼻と口を手で覆いながら、セレンはついつい顔辺りの空気を杖で払う動作をする。ほとんど効果はなかったが。
目にも染みて、じわりと涙が出た。散々な顔つきになりながら、後方にいた人影をもう一度見る。――彼がそこにいることが意外なような、やっぱり意外ではないような。思わず笑みがこぼれた。
革袋から取り出した球状のものを二、三個片手にわしづかみ、ダッドレイはそこに立っていた。
風が吹いて、灰色の髪がかすかに乱れた。気難しさを目一杯作ったしかめっ面のまま――
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