22 攻防

 エルヴァー島へ渡ってからの数日。

 村の天気は時おり雨が降りながらも、概ね穏やかだ。風がひとつ吹くたび、冬の名残が春の香りに流されていく。


 ――海岸で見つかった記憶喪失の彼女も、彼女なりの行動を始めた。


 そして、シグリィたちも、また。




「帰れ」


 相変わらず、ダッドレイは取りつく島もなかった。


 彼のシグリィを見る目は、この数日まったく変わらない。警戒。不信。そして拒絶。

 即座に閉められかけた戸を反射的に止めて、シグリィは言い返す。


「帰りません。今日こそ何がなんでも何かしら手伝わせてもらいます」


 もはや謙虚な姿勢など消え去っている。


 下手したてに出ても無駄だということは、数日でよく分かった。だからと言ってすごすご引き下がるわけにはいかない。目下この村で、ここまで完全にシグリィたちの手を拒否するのはダッドレイだけなのだ。――打ち解けるための糸口を、少しも見せようとしないのは。


 ジオに『自分から動け』と言われて以降、シグリィたちが選んだ行動は、村人たちにあれこれ質問するのを控え、とにかく手伝いをすることだった。


 労働力の足りない村のことを考えるなら必然の結論だ。そうでなくとも、どこか町や村に世話になるときは何かしら労働をするのは、彼らの旅人としてのルールでもあった。


 子どもたちはみな、シグリィたち三人の手をこわごわと借りた。

 できるだけ離れようとする彼らのことを、シグリィたちはむやみに気にしたりはしなかった。


 幸いなことに、長く旅人という変わった肩書きを背負ってきたおかげで、人々に距離を取られることには慣れている。奇異を通り越して恐怖の目で見られたことも初めてではない――まさかそれがこんなところで役に立つとは思わなかったが。


 危うい均衡を保てているのは、マーサとジオのおかげだろう。

 おかげで数日の内に、会話が進む相手も出てきたのだ。


 そんな中、最初から一貫して態度が変わらない、近づく隙もないのがダッドレイだった。シグリィは彼に尋ねたことがあった。


『なぜ? 労働力は必要でしょう、利用できるなら利用しておけばいい』


 ダッドレイは鼻で笑った。


『いずれ追い出す相手に心を傾けるのはただの馬鹿だ』


 ――、と彼は言った。


 つまり彼は、利用するだけ利用して追い出すような真似をしたくないということなのだろう。

 危険な相手を傍に置いておきたくないというのも、たしかな本音だとしても。


 ダッドレイが戸を閉めようと力をこめ、シグリィは閉めさせまいと力をこめる。力は拮抗していた。ぎりぎりと腕に変な圧力がかかるのを感じながら、シグリィは半ば睨むようにダッドレイを見見据えた。弱い戸板がきしんでいるが、構ってはいられない。


「頑固な人間にはこちらも頑固に対応します。帰りません」

「は。無駄な労力だな」

「こっちにとっては無駄じゃない。掃除でも洗濯でも荷物持ちでも何でもいいから任せろと言ってるんです」

「腕力もないガキが何を言いやがる」

「その腕力のないガキ相手に戸も閉められないあなたに言われたくない」


 手だけではなく足も戸板に引っかけて、シグリィはさらに前に乗り出した。


「今日、こそ、は。マーサさんにいい報告をしたいので。さっさと折れてください」


 マーサの名前を出した途端、ダッドレイの眉間の皺が深くなった。戸を引く力がさらに強くなる。このままでは本当に戸が壊れるかもしれない。


「だったら今日もマーサに『何もできませんでした』と言いにいくんだな」

「毎度毎度彼女をがっかりさせたくないんですよ」

「知るか」

「マーサさんのあなたに対する評価も下がる一方だ」


 青年の唇の端が、皮肉気に吊り上がった。


「そもそも下がるような評価もないだろうよ」


 地面にでも吐きかけるような声。シグリィは目を細めてダッドレイを見つめる。


「マーサさんが本当にそんな人だとでも?」

「たかだか付き合い数日の人間がつまらんことを。マーサが聖人だとでも思っているのか?」

「マーサさんが言っていたんですよ。“レイ”は家族だと」


 一瞬の間があった。


 次に紡がれたのは、北に吹く風のように冷たい声。


「……家族だって後生仲良くできると決まっているわけじゃない」

「―――」

「分かったら帰れ」


 我知らず戸にかけていた力が抜けてしまったらしい。その隙に、戸はバタンと派手な音を立てて閉まってしまった。


 すんでのところで足を引いたおかげで、挟まれずに済んだ。シグリィは一歩退いて戸を見上げる。


 彼を拒んでいるのは戸自体ではない。その内側から溢れ出ている何かだ。


 ふむ、と片手をあごにやり、その肘をもう片方の手で支えながら、シグリィは胸中でつぶやいた。


(今日はいつもよりは長く話せたかな)


 内容は平行線だったが。多少は反応らしきものを見られたように思う。


 ダッドレイという青年が、いったいどんな話題に反応するのかを見つけ出したかった。たとえそれが和解する鍵とはならなくても、彼という人間を知りたいのだ。


(明日はユキナさんの話でもしてみるか)


 そんなことを考えながら、拒絶に包まれた家に背を向けた。


 ダッドレイの家に来るのは、毎日必ず最後にしている。どれだけ時間をかけても大丈夫なようにと考えてだ。現状は、むしろ一番短い時間で追い返されてしまうのだが。


 丘の家への道は、すでに夕焼けで赤く染まっていた。


 砂利道の脇にはやわらかな春草が、風に吹かれてそよそよと揺れている。

 効能はささやかながら、それらも薬草の一種だった。シグリィは歩きながら、持ち歩いていた紙に、目に映る草の名前を書き留めていく。


 村長宅に戻ったら、それらの薬草の情報を一覧にしてまとめる。マーサに頼まれた仕事だった。すでに効能の分かっている草はいいが、いまだに把握できていない草も多いらしい。

 大陸に出回っている薬草図鑑は、貴重すぎて今のところ手に入っていない。だからそれに近いものをシグリィが作ることにしたのである。


『先代のユキナはもっと積極的に薬草の効能を調べようとしていたのですが……。いずれ世界の価値観が変わって大陸と交流するときが来たら、この薬草は何よりも価値がありますから』


 そう言って、マーサは悩ましげに笑った。


『ユキナは自分自身を実験台にしていました。ユキナが死んで、ユドクリフが私たちに効能を調べるのを禁じたのです。ユキナの死因は不明だったのですが』


(毒草は今のところ見当たらないんだがな)


 時折かがんで草の細部を観察する。

 万が一にも間違った情報を残してはいけない。


 知識の点ならば、シグリィは絶対の自信を持っている。だが、何しろこの島は特異な土地すぎた。育った環境の違いで大陸と差異が出ているかもしれない。


(確かめられるものは確かめたほうがいいな。実験台は私がやればいい)


 基本的に体力がないシグリィは、薬が効きやすい体質でもあった。だからこそ普段は滅多に薬の類を用いないのだが。


 連れは必ず反対するだろうが、他に方法がないこともたしかだ。カミルもセレンも薬には強く、実験台になれない。

 薬というものは完成するまでにどうしてもある程度の犠牲が要る。そのことはあの二人もよく知っているから、説き伏せる自信はある。


(……?)


 ふと足を止めた。

 口の中にあるその単語を転がす。その形を確かめて。

 それから、苦笑した。


(――何かを成すための犠牲、か)


 ユキナという女性も、今のシグリィとさほど変わらない考えで自ら実験台になっていたのだろう。そのことを決して間違っているとは思わない。

 だがこれは、


 ――島の子どもたちを“研究対象”として見る大陸の学者たちと、どれほど違うものだろう?




「お帰り、シグリィ」


 村長宅に戻ったシグリィを出迎えたのは、名無しの少女だった。


 名前がなくとも直接の会話に困ることはない。だが、他人同士が彼女の話題を持ち出すときには必要なこともある。

 シグリィはこの数日の間に、村でひそかに生まれていた彼女の呼び名を思い出した。


(“青星の子”……か)


 彼女自身が直接この名で呼ばれたことはないはずだ。なぜなら“青星”は、決して好意的な意味でつけられたわけではなかったから。


 ダッドレイほど明確ではなくとも、正体の分からない不安は誰の心にも巣食ったまま。


 彼女自身も村人を避けているから、今のところ衝突はしていない。だがそれは、ひどく不安定な綱渡りの平穏。


「ただいま。今日は大丈夫だったか?」

「うん。何も問題なかった。今日はずっとチェッタといて――あの海岸にも採取に行ったんだ。だけど」


 少女はぎこちなく笑った。


「何だか身の置き所がなくて。もたもたしていたらチェッタが気をつかってくれて。結局すぐあの場所を離れてしまって」

「そうか」


 軽い口調で、シグリィはそれだけ言った。

 それからふと、彼女の顔を眺める。


「……あまり顔色がよくない。休んだほうがいい」

「あ。ああ、いや」


 慌てた様子で、彼女は手を横に振った。


「別に疲れてるとかじゃ、ないんだ。こき使われてるわけじゃないし。ただ」

「ただ?」

「――あまり、眠れていなくて」


 小さな小さな声で、ぽつりと。


 シグリィは驚いた。ここ数日、彼女がそういったことを告白するのは初めてだった。


 夢見が悪くて、と言って、少女は目を伏せた。


「すごく……あいまいな夢。私が誰かとしゃべっている夢を、何度も。相手の人はいつも一緒……だと思う。たくさんのことを、私に話しかけてくれる。でも目が覚めると、その人の顔も声も、話していた内容も何も思い出せない。それがすごく、すごく不安で」


 それが三晩続いた、と。


 四日目からは、眠るのが恐くなった。彼女はそう言った。語尾がだんだんと尻すぼみになり、やがて言葉そのものが途切れてしまった。泣きそうな顔を隠すように両手で覆う――指の隙間から、吐息がこぼれ落ちて霧散した。


「ただの夢に思えない。きっとあれは私の過去に通じてる。でも――“忘れる”って、こういうことかな」


 今にも消えそうな声が、そう呟いた。


 シグリィは――

 両手を彼女の両肩に添え、軽く身を寄せた。


 掌以外は触れない、けれど呼吸は伝わる、そんな距離で。


「……違う。それは“思い出したい”っていうんだ」


 囁くような声でそう言うと、少女はふっと息を詰めた。


 言葉のない一瞬が二人の間を通り過ぎる。


 シグリィは目を閉じて思う。記憶を失ったことのない自分が、この少女に何をしてやれるのだろう。


 彼女はいつも、どこか儚い。村の子どもたちにするように、ただ辛抱強く付き合おう、という姿勢だけでは、何かが足りない気がする。


 理由の分からない夢に追われる彼女に、今必要なものは何なのか。


「……そうだな」


 呟く。

 同時に少女の肩から手を離して、口調を軽くした。


「よし。眠れないなら今夜は約束を果たそうか」

「約束?」


 少女は驚いた顔でシグリィを見上げた。

 シグリィは微笑み返した。


「ああ。――二人で外を歩こう。眠くなるまで」

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