21 幼心

 村の目覚めは早い。太陽があがるのと同じ時刻にはもう、子どもたちの大半は目を覚ましている。


 朝一、水汲みに行くために村長宅を出る。東の空は白み始めていた。夜間に居座っていた闇を下から光が押しのけていくさまは、だんだんと空が眼を開いていくかのようだ。


 さわさわと肌を撫でる風は、まだ少しだけ冷たい。


(でも……“春”の気配だ。どことなくふくらみがある)


 春。

 ――始まりの季節。


 彼女は空を振り仰いで目を細めた。


 自分はこの春を知っている、と感じた。ということは、自分が元いた場所での“春”は、ここと似ていたのだろう。

 記憶はないのに、この肌が憶えている――。

 そんなことを思い不思議な心地に包まれながら、足早に目的地へと急ぐ。



 村長宅から一番近い小川の水かさが、いつもより増えていた。昨晩雨が降ったのだ。ここまで歩いてくるための道もやや湿気を残したままで、足跡の付き方がいつもと違う。


 両手にひとつずつ持っていた桶を川に沈め、持ち上げる。

 水面が跳ねて、彼女の顔や首筋まで飛んでくる。


 ここ数日の彼女の朝は、水汲みから始まっていた。


 病み上がりの人間が水汲みをするのは体に障ると誰もが反対した。だが、何かをせずにはいられなかった。


 ――エルヴァー島で目覚めて、もうすぐで一週間。


 記憶は取り戻せないままだったが、体は著しく快復していた。三日も経つとじっとしていられなくなり、何かをさせてくれとマーサに頼みこんだ。


 同時期に島に来たシグリィたちは毎日村のあちこちに出向いて仕事を手伝っている。それを尻目に自分だけ横になっているのはいやだった。部屋の中にいては、閉塞感に押し潰されそうなのだ。


 最初は家事を手伝おうとしたのだが、どうやら自分は炊事にも掃除にも馴れていないらしい。マーサやハヤナに比べると手際が悪すぎる。チェッタの洗濯を手伝おうとしたときも同じだった。


『まあ、元の場所でそういうことやってた人に見えないもんね』


 呆れたハヤナがそんなことをつぶやいた。


 無言でうつむいていると、たまたま聞いていたシグリィが口を挟んだ。家事にもいずれ慣れるだろうが、と前置きして、


『ひょっとしたらもっと外向きの、体を使う仕事のほうが性に合うのかもしれないな』


 ――で、それからは家事を教えてもらいながらも、積極的に体を動かしている。


 ふしぎなもので、体を動かせば動かすほど、元気が満ちていく気がした。


 外に出れば人に会う。

 人に会うのは恐い。恐いけれど、部屋にこもっているのはもっと恐ろしい。横になり続けていると、生きている心地がしないから。


 幸いこの数日で、できる限り人に会わない――あるいは、会っても大丈夫な人しかいない――場所は把握できるようになっていた。


 川辺にかがみ、両手で水を掬う。


 さらさらと手の端からこぼれ落ちる水。全部がなくなる前に顔を洗う。ひんやりとした感触が心地よい。


 顔をあげると、春の息吹漂う視界が広がっている。ぼんやりそれを眺めていると、そのうち自分が風景画の点景ででもあるかのように思えてくる。


「おい、だいじょーぶかっ」


 背後から声がして、彼女は振り向いた。


 今日も朝から洗濯物を抱えたチェッタが、ふんぞり返ってそこに立っていた。口調はぞんざいだが、常に自分を心配してくれている。


「大丈夫。すぐに帰るよ。……洗濯、手伝ってもいい?」

「い、いーけどよっ。むりすんなよ」

「平気だから」


 どちらかというとチェッタの洗濯のほうが心配だ。何しろ彼は昨日、結局まるっと一日洗濯という仕事を遂行できなかったのだ。


 こんなときのために、村長姉弟の着替えはそこそこ数があるらしい。そのためにユドクリフという人に古着の仕入れを頼み、またマーサも暇があれば裁縫をしている。


「これを運んだらすぐに戻るよ」


 言って、水を張った桶を両手に持ち上げる。

 しげしげとこちらを見ていたチェッタは、やがて唸るようにつぶやいた。


「ほそっこいのに力もちなんだな……」


 ハヤナと似たような体型なのにな、とそんなことを言うチェッタに、彼女は曖昧に微笑み返した。


 

 水汲みを終えたあと、約束通りチェッタの元へと返った。


 チェッタは珍しくすでに洗濯だらいに水を張り、わしわしと洗い物を始めていた。洗剤として使う粉をまぶし、何度も揉みこみ、水を替えてすすぐ。


 チェッタがそれを繰り返している間に、彼女は先にすすぎ終わったものを村長宅の物干し竿まで運び、丁寧に干していった。最初こそ水分を含んだ布の重さに苦労したものの、だんだん戸惑わなくなってくる。


 チェッタの身長に作られた物干し竿は低い。洗濯物が地面についてしまわないように注意する。


 ぱん、ぱん、と軽くしわを伸ばすたび、わずかに跳ね散る水気。

 同時に風が吹いて、爽やかな空気が辺りに満ちた。


 すっと胸がすく。一通り干し終わると、空になった籠を抱えて再び小川へと駆けた。足が軽やかに草地を踏んでいく。


 役割があることは幸せなことだと彼女は思う。――それをやっている間は、他のことを考えなくてもいい。



 洗濯場に着くと、チェッタの横にはいつの間にかもう一人いた。


 チェッタよりさらに小さい女の子だ。こちらに気づき、慌てたようにチェッタの背後へと隠れる。


「なにやってんだよメリィ。かくれなくても大丈夫だって」


 チェッタはその少女を前に押し出そうとした。いやいやと幼い顔がかぶりを振る。見たところ十歳に届かないくらいだろうか。

 落ちつきのある黒髪に反して、瞳は明るい橙色をしている。視線を合わそうとするとうつむくその目には、怯えより恥じらいの色が見て取れる。初めて見る子だ。


「はじめまして」


 しゃがんで、視線の高さを同じにした。

 幼い少女はますます恥じらって、胸に抱いていた紙を持ち上げ顔を隠した。


 その動作にふと引っ掛かりを覚えて、思わず少女を見つめる。


 違和感の正体はすぐに分かった。少女はその紙を左手だけで持っていた。そしてもう一方の手――右の肩から下の袖は、風に吹かれてゆらゆらと揺れている。


 そこにあるべき腕がないのだ。


「こいつメリィってんだ。えっと、ロイックって分かるか? あいつの妹。血はつながってないけどさ」


 ロイック。人懐っこい顔と大柄な体がアンバランスな少年のことだ。海岸で倒れていた自分を家に運んでくれたのは彼だと聞いて、お礼を言いに行ったのは数日前のこと。


 そう言えば彼はしきりに「妹が、妹が」と口にしていたような気がする。肝心のその妹には、そのとき会えなかったのだが――どうやら今目の前にいる子が、噂の妹らしい。


 チェッタに紹介されて、メリィはおずおずと紙の上辺から目だけをのぞかせた。


「め、メリィ、です」


 目が合うと、ぱっと隠れてしまう。その仕種が愛らしい。自然と笑みがこぼれてくる。


「かわいい名前だね。私の名前は――」


 言いかけて、彼女は詰まった。すかさずチェッタが「ねーちゃんって呼べ。いいな、メリィ」と助け舟を出してくれた。


 メリィは再び目だけを見せた。

 恥じらいの瞳が、どことなく輝きを増した。紙の向こうから控えめな声が聞こえてくる。


「……ほし……の、おねえさん……」


 ぎょっとチェッタがメリィを見る。

 メリィは夢見るような顔で、こちらを見つめていた。


「……ほし、の、おねえさん……きれい……」

「メリィ、おまえ」

「……この、え……」


 チェッタの声が聞こえなかったかのように、小さな女の子は手にしていた紙を差し出してくる。


「……かいたの……おねえさんのおほしさま……」


 混ざりものの多そうな、あまり上等とはいえない紙。

 その上にたどたどしい線で描かれていたのは、暗闇の中に浮かぶ満天の星。そして、


 ――中央にひとつだけ、流れ尾のついた青い光。


「星が……青い?」


 つぶやく。


『流れ星が落ちた。青い星だ』


 そうだ。ダッドレイもそう言っていたのだ。青い星なんてかつて聞いたこともない。だから、その夜に現れた彼女を不吉だと言い切ったあの青年。


 この絵は、自分がこの島に来た夜の光景なのだ。


「……メリィも、その星を見た?」


 視線をメリィに戻して問う。


 メリィは嬉しそうに顔をほころばせて、うん、とうなずいた。


「あおのおほしさま、おっきかった。とおくから。いちばん、おっきくてきれい」


 肩を弾ませて次々と言葉を紡ぐ。そのたびに少女が持っている紙がぱたぱた揺れる。


 言葉は簡単なものばかりだったが、メリィは力いっぱいその星の美しさを表現しようとしていた。少なくとも――


 この幼い少女には、その星を凶兆だと断じて恐れる心などないのだ。


「そう……か」


 口元がほころんだ。


 萎縮していた胸の奥底を、小さな手で優しく撫でられたような気がした。


「ありがとう、メリィ」


 メリィは目をぱちぱちとしばたいた。なぜ感謝されているのか分からなかったのだろう。戸惑っている小さな体を、両手で抱きしめた。


 腕の中でメリィがびっくりしているのが伝わってくる。けれど、嫌がられてはいない。それが分かる。


 ――今だけかもしれない。


 幼いから、まだ不穏な話は教えられていないのだろうと思う。そしてそれも時間の問題のはずだ。いずれこの子も、まわりの話を聞くうちに考えを変えるかもしれない。兄のロイックは天の異変を迷信だと笑い飛ばせる人間ではなかった。近しい人間がそうであれば、幼い子どもは簡単に染まる。


 それでも、メリィの素直な心に感謝していたかった。

 おねえさん、と呼ぶ無垢な声が、何よりも力強い礎となってくれる。そんな気がして。



 朝ごはんができましたよ、とカミル青年が呼びにきたころ、空はすっかり目を覚まし、まぶしいほどにその青を広げていた。


 メリィを加えて三人で会話をしながら洗濯を続けていた、そんな最中さなかのことだ。


「二人とも、そろそろ――」


 戻りましょう、と毎朝かけてくれる言葉が、ふいに途中で切れた。


 そのまま足を止める青年。何だろうと訝しく思うより先に、メリィが素早くチェッタの後ろに隠れる。

 先ほど恥じらいで隠れたときとは明らかに違う、縮こまる姿勢で。


 カミルはそれ以上近づこうとしなかった。


「早めに戻ってきてくださいね」


 と、それだけ言い置いてくるりと踵を返す。


 遠くなっていく背を見送り、それからチェッタの後ろのメリィを見た。メリィはまだ小さくなっていた。けれど顔半分だけ覗かせている――恐いけれど気にはなる、といった表情だ。


「どうしたんだよメリィ? そりゃあいつは《印》持ちだけどよ、とつぜんおそってきたりはしねーぞ?」


 チェッタがメリィに声をかける。

 メリィは目を伏せた。


「……あの、おにいさん……お兄ちゃんが、ちかづくな、って……」

「はあ? ロイックが?」


 あからさまに首をかしげたチェッタは、腕を組んで唸った。「あー。まあロイックは、メリィにだけはカジョーにうるさいしなあ。ふだんから『メリィだけはまもる!』とかなんとか」


「……でもロイックさん自身、《印》持ちをそんなに恐がっているようには見えなかったけれど……」


 数日前に挨拶したきりの少年を思い浮かべてつぶやくと、チェッタは肩をすくめた。


「あいつはさ、自分のことはやけにあきらめきってんだよ。だから自分があぶない目にあうことは、どうでもいいんだ。でもメリィもおそわれていいかって言ったらそれはちがうんだよな」


 言葉の最後に大仰なため息。それから慌てて、「――まっ、《印》持ちなんてかんたんにシンヨーするほうがおかしいんだけどなっ!」


 と取り繕うように付け足した。

 一応自分も、まだあの旅人たちを信用していないと主張したいのに違いない。


(……でもチェッタは、だいぶ打ち解けてきている)


 何と言っても、チェッタはセレンと仲がいい。今でもシグリィやカミルには何かと反発しているのだが、その反発の内容が“《印》持ち”という要素から逸れていっているように思える。


 そんな風に、たった数日で変わるものもある。けれど。


「……メリィは、あの人が恐い?」


 真顔でメリィを見つめて、問うた。

 小さな女の子は、哀しげな目をしていた。


「……お兄ちゃん、しんぱいするの……」

「―――」


 大切な家族。『護る』と言ってくれる家族。

 その人が心配する。怒る。迷惑をかける。悲しむ。――


 例え自分には、納得できないことであっても。


「そう……だね……」


 メリィから視線をはずし、目を伏せた。

 心のどこかが揺れ動いている。覚えのある感情が、霞の奥で頭をもたげている。



 ――それなのに自分は。


 ねーちゃん? と不安そうにチェッタが顔を窺う。


「大丈夫だよ」


 まるでそう自分に言い聞かせるように。

 この数日で何度目か分からない言葉を口にして、彼女は笑った。

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