23 君の名は
夜、とはふしぎな空間だ。
昼間とまったく同じ場所。ただ太陽が沈み、空に浮かぶ模様が変わるだけなのに、何もかもが違う世界に見える。
――そんな夜が少し、こわい、と。
青い星とともにこの島にやってきた少女はそう言った。
だからシグリィは彼女を連れていく先を、あの海岸ではなく、そことはまるで違う風景の場所にしたのだ。
エルヴァー島は孤島。その四方を海に囲まれ、東西南北どこへ進んでも先には水平線がある。
だが、この島に住む人々がことさら海を意識することはないに違いない。
それほどに、この島は種々の色鮮やかな植物が生い茂る、豊かな大地だったから。
島には穏やかな丘陵がそこかしこにある。
村から少し足を延ばしたところにある草原へと、二人はやってきた。
昼間なら若い草色に満ちているだろうその場所も、今は夜の
シグリィに手を取られ導かれた少女は、靴の裏に感じる草の感触にくすぐったげな顔をしていた。
「まだ……春というには早い時期なのに。ここは緑に溢れているんだな」
少女が足下を見下ろしながら、顔をほころばせる。
いくら月明かりがあるとはいえ、踏みつける草々が鮮明に見えるわけではない。それでも彼女は明確にそれらの存在を感じているようだ。
まだ春本番ではないけど、とシグリィは言った。
「その証拠にこの島もさすがに花はついていないものが大半だから――あと十日もしたら、緑も深い色になるし、もっと違う色も増える。まあ見た限りそれほど派手な草花も木も見当たらないが、さぞ見ごたえがあるだろうと思う」
「詳しいな、シグリィは」
少女は顔をあげてシグリィを眩しそうに見た。
「旅をしていれば自然とある程度は身についてくるさ」
「旅……か」
わずかに目を細めてつぶやいた彼女は、視線を空へ投げやり、吐息をこぼす。
「……シグリィの見ている世界は、私が見ている世界よりずっと広そうだ」
「………」
そんなことはないよ、とシグリィは軽く小首をかしげてそう言った。
「見てはいても、受け入れているかどうかは別問題だから」
「受け入れる……?」
「世の中には実際に見たはずの光景も、なかったものとしてしまう人もいる。――なかったことにするしかない人も」
靴の裏にやわらかい大地の感触を感じながら、シグリィは空を仰いだ。
彼の言葉に、横に立つ少女がぴくりと反応する。だが彼は、彼女に視線をやらないまま言葉を続ける。
「同じ景色を見ても、時と場合でまったく違うものに見えるのが世の常だ。例えばあの月を見て、あんな月は偽物だ、あんな月は実際には存在しない、夢か幻――なんてことを考える人もいるんだが」
「……それは、どういう……意味?」
理解できなかったのだろう、きょとんと彼女が訊き返してきた。
シグリィは笑いながら視線を彼女に移した。
「≪月闇の扉≫の研究者だよ。扉が開くようになって以来、古く〝月〟と呼ばれていたものは――
少女が目を見開いた。
「そんな説があるのか?」
「あるんだ。実際に言っている人と直接会ったこともある。だけど、まあ」
シグリィは悪戯っぽく片目をつぶって、言葉を継いだ。
「結局のところ、その人と私が見ていた景色はまったく同じものだったんだけどな。今だってそうだ。私が見ているものと君が見ているものはまったく同じだよ――そこに広いも狭いもない」
音のない風が吹いた。
ほの寒い空気が揺れて、草が戯れるように身じろぎする。
彼女はうつむいて考え込んでいるようだった。唇が動いている辺り、言いたいことはあるのに中々まとまらないらしい――あるいは、言いたいことを簡単に口にできない性格なのか。どちらもありそうだ。
やがて彼女は、情けない顔で眉尻を下げた。溜息を形にしたような表情が、ふと大きくまばたきする。視線は足元にあった。
「あ……っ、今、虫が……っ」
一瞬で興味が切り替わったらしい。ためらいもせず地に膝をついて、両手で草をかきわける。
暗闇の中、彼女は熱心にそれを探し続けた。術で火を灯そうか――と一瞬考えたシグリィは、それを口にすることのないまま、彼女の横に片膝をついた。
「あれのことか? ほら」
「あっ、ほんとだ……!」
灯りのないまま、月明かりだけを頼りに、二人は虫追いに興じた。
「一部の虫はこの島では大切な栄養なんだそうだ」
「そうなのか? でもここ数日あの家では出なかったけど――」
「ああ。なんでも彼らの知っている虫とは……つまり大陸の虫とは違う種類ばかりだから、軽はずみに口にしないようにと決めているらしい。そういうことを積極的に調べていた前村長が亡くなってから慎重になっていると言っていたな」
マーサに聞いたことを説明しながら、シグリィは足下ではなく彼女の表情をうかがう。少女の、
――奇妙な女の子だ、と思う。
彼女が着ていたあの破れた衣装、その生地の高級さ。あるいは彼女の言葉づかい。家事ができないということ。生まれ育ちがそれなりの階級であることは間違いないだろうに、一方ではこうして、手足を汚すことをまったく厭わない。
シグリィの視線を感じたのか、ふと顔を上げた少女は、はにかむように表情を緩めた。
「私はこういうものが好きなのかもしれない。虫とか、動物とか。……多分、植物も」
「そうなんだろうな」
夜間に活動している虫は限られている。それらも早々に二人の気配から逃げてしまったのか、間もなく一匹も見えなくなった。
二人はその場に腰を下ろした。
――土の冷たさは、草の柔らかさが和らげてくれる。
並んで空を見上げる。月はわずかに移動したようだ。
(カミルたちは、もう私たちがいないことに気づいているかな)
黙って出てきた二人だったが、書き置きと共に、とある術を部屋に残してきた。あれがあれば、カミルもセレンも心配はしないだろう。
見上げる空。流れてきた雲が、取り澄ました月の顔を何度も隠しながら通り過ぎてゆく。
二人の間にはごく自然な沈黙が落ちていた。
ただ星の瞬きを数えているだけで、満ち足りた心でいられる。そんな時間が、柔らかい地面に馴染むようにして広がっている。
知らず知らずのうちに、シグリィは探していた。――夜空のどこかに青い星はないかと。
(星……か)
ジオの舟で海を渡ったあの夜、自分も見た。夜空を流れた一条の青い光。
まず間違いなく、ダッドレイたち島の人間が言う〝青い星〟はあれだ。彼らはシグリィと同じものを見たのだろう。
だがシグリィは今でも確信している。
――あれは星ではない。
「シグリィ」
ふと名を呼ばれて、彼は視線を隣に向けた。
いつの間にかシグリィの顔を見つめていた少女は、確かめるようにもう一度彼の名を呼んだ。
「シグリィ。ふしぎな名だな」
「ん。そうかな?」
どんな意味があるんだ? と少女は尋ねてくる。
「言葉自体に意味はない。私の名づけ親が、古い知り合いの名前から取ったと聞いてる。……大切な人だったらしい」
「そっか」
子どものような声で少女はつぶやき、微笑みを広げた。「やっぱりいい名前だと思う」
「そうかな」
君の名前も。そう言おうとしてシグリィは口をつぐんだ。
そのためらいが通じてしまったのだろう、少女は目を伏せた。
「私の名前は――どんなものだったのかな」
「………」
「ずっとそれを考えているんだ。思い出せないし――呼ばれるのが恐いと思っていた。でも」
立てた両膝を腕で抱える。まるで隙間風の吹く心を温めようとするかのように、小さく縮こまって。
「毎晩夢を見る。夢の中のあの人の言葉を、何も覚えていない。きっと――私を呼んでくれているのに」
ぼそぼそとつぶやかれた言葉の欠片が、何かを訴えようとシグリィの耳に届いてくる。
心細そうな声は、まるで助けを求めているように聞こえた。
だから、
「……名前、知りたいか?」
シグリィは言った。
ぴくりと、少女が反応した。
「名前ならわかるよ。君が今身に着けてるその布に」
言いながら、彼女の腰あたりを示してみせる。
「――その布に、書かれてる」
今日、この時に。
彼女がその腰布を身に着けていたのは、きっと偶然ではなかったのだろう――
初めに着ていた彼女の衣装の一部。ここしばらく畳まれたままだったその布。たまたま今日与えられた服は腰を締める必要があった、ただそれだけのことだったのに。
それに刺繍されている文字を今まで見ずにいたのは、知らずに避けていたからなのだろうか。
――それとも、
(〝見ていても見えていない〟。そういう心境だったのかもしれないな)
その目で見たものを受け入れられない。そんなこともあるのかもしれない。
「これに?」
少女は驚いた様子で布を見下ろした。それが借り物ではなく自分の物であることは、彼女も分かっている。
シグリィはうなずいて見せた。
「それに名前らしきものが書かれていた。私たちはそれを見たよ。でも君がそうだと言わない限り、それは君の名前にはならないから」
「……私が、認める……?」
小さなつぶやきが零れた。
布に触れた手が動かない。月光が作る影の中で、その指先が震えているようにも見えた。
「南に、シレジアという国がある。その国の風習なんだ。身に着けるものに名前を入れる――魂の
たましいの。
何かが脳裏にひらめいたかのように、彼女の瞳が大きく見開かれる。
「――そうだ――≪
彼女の声は、水分を失ったかのようにかすれていた。
――数呼吸分の間が、あった。
やがて、ためらいを絡み付かせたままの指が、そろそろと布を外していく。
解けた布を両手で持ち、少女は奥歯を噛みしめたかのような顔をした。
「……無理はしなくていいと思う。今すぐ思い出す必要はないから」
言い添えたシグリィをもう一度見た目は、絞り出した強い気持ちでまたたいて。
――呼んでほしいんだ、と彼女は言った。
「シグリィたちにも呼んでほしいと、思うんだ。不安だけど、でも」
最後にひとつ、微笑みを置いて。
その指が布の中の刺繍を探り当てる。まるで月光を弾くかのように高潔な輝きをした、銀色の文字を。
ラ……ナー……ニャ……
「……ラ、ナ……」
その響きを何度も唇に乗せる。布の両端を握る手に、力がこもっていく。
「ラナ……ニャ。私の名前……私の……?」
「覚えはあるか? ラナーニャ」
シグリィはその名を呼んだ。
正しく言うならそれが彼女の名であるという証は今のところない。それでも――
ふしぎとその名は、目の前の少女に馴染むように思えるのだ。
「―――」
少女はきつく目を閉じ、布を握りこんだ両拳に額を押し当てた。
そうか、と呟きが聞こえた。
直後に落ちた長い溜息は、胸に凝っていたわだかまりを押し出すかのように。
やがて顔を上げた彼女は、
「シグリィ」
決然とした目で彼を見た。
「もう一度呼んでくれないか」
シグリィは微笑んだ。
辺りの闇が不意に濃くなった。渡り行く雲がちょうど月を隠したようだ。だが、彼は気にしなかった。声を届けるのに不都合は何もなかったから。
「ラナーニャ」
溶けるように少女が――ラナーニャが微笑む気配が、空気を揺らした。
――まるで春の花が。
萌え出ずる季節の花が、夜闇の中おずおずと頭をもたげたかのような――
闇がざわりと震えたのは、その瞬間だった。
「………!?」
肌が粟立ち危険を知らせる。シグリィは跳ねるように立ち上がり、上空に視線を走らせた。
月は見えない。星さえも大半が雲に隠れている。黒く塗り込められた天に、異質な何かが――紛れ込んでいる。
耳朶に触れたのは重い羽ばたきの異音。初めは遠かったその音が、瞬く間に近づいてくる。滑空を織り交ぜ矢のような速さで飛び込んでくる――ラナーニャの方へと。
ラナーニャは一拍遅れて立ち上がったところだった。彼女を腕に抱き入れ、シグリィはその場から飛びのいた。ざうっ! と土を抉る音が、彼の耳の奥を殴りつけた。土塊をいくつも飛び散らせながら目の前を通り過ぎた何かが、再び上空に戻っていく。
「
鋭い詠唱とともにシグリィの魔力が形を変え、周辺の照らす灯火となる。
下から闇を押し上げるように、ほの白い光源が辺りを埋め尽くす。
絶えず位置を変える鈍い羽ばたきの音。上空を旋回する複数の気配。静謐な魔力の光に照らされ、それらの正体が見えた。シグリィは頭上を睨みすえた。
同じように上空を仰いだラナーニャが、呆然と声を上げる――
「〝迷い子〟……? そんな、いつの間に……!?」
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