18 宝箱の中の青

 カミルにとって、シグリィという少年は紛れもなく“主”である。


 だが、シグリィ自身が主人となりたがっていたわけでは決してない。まだ幼かった少年をセレンと二人で教育していたのも事実なので、どちらかと言うとこの関係は『家族』に近い。それは『主従』とは決して相容れないものだ。


 もっとも、カミルにとってそんなことは、矛盾だと苦しむ要因にはなりえなかったのだが。


(……シグリィ様は、こういう家庭がお好きなんだろう)


 火を入れているわけではないのに、暖かな空気が漂う台所。ハヤナが集めてくる予定の材料を待ちながら、マーサはあれこれと器具を用意している。


 カミルの主たる少年も手伝おうとしていたのだが、いずれハヤナも戻ってくることを考えると、台所にはそう何人も入れない。では何をしようか悩んでいたとき、マーサが「前村長が書き残していた村の出来事の記録がある」というので、結局少年はそれを居間で読みふけっている。彼は器用だが、家事となるとカミルの方が得意なのだからこれはしょうがない。


「料理道具が豊富ですね」


 カミルは感心していた。

 マーサは肩ごしに振り向いて、笑った。


「ええ。ユードはこういうものを重要視する人だから」

「ユードさんというと……」

「ユドクリフです。前村長ユキナの弟の」


 まだお会いになってらっしゃらないですよね――とマーサは、困ったように眉根を寄せながらも、口元から愛想のいい笑みを絶やさない。


「あの子、滅多に島にいないんです。でも誰よりも島のことを大切にしてくれています」


 だが、彼がどこでどうやって金策しているのかをマーサも知らない。不穏なその事実を、今持ち出すつもりはないが。


(……『ユドクリフ』。名前だけなら、西部生まれの可能性が高い)


 綴りの長い男性名は、西の大国グランウォルグに多く見られるものだ。


 もっともグランウォルグは国が名前の文字数に制限を設けているので、大陸一長い名前なんていうものがあるのなら、それはきっとグランウォルグ以外のところで生まれるだろう。


 私は何を手伝いましょうか。カミルがそう尋ねると、マーサは思い出したようにくるりと体ごと振り向いて、


「では外で洗濯をしているチェッタに今日はポトフだと伝えてもらえますか。あの子の好物なので……多分今ごろ洗濯との格闘に疲れ始めているところなので、これを伝えればちょっとは元気になるはずです」

「分かりました」


 おそらく、これは彼女の気づかいだ。チェッタと自分たち旅人の接点を少しずつ増やしていくための。


「お願いします」


 しっかり者の長姉はにこりと微笑んだ。



 外は快晴だった。もうすぐ中天に昇ろうという太陽は、春独特のふくらみある熱を降り注いでいる。


 目を細めて、チェッタの姿をさがした。


 洗濯は近くの小川で行い、家の側で干すのだという。日当たりのいい場所に回ってみたが、物干し竿があるばかりで少年の姿はなかった。まだ小川にいるらしい。


 マーサから聞いたその場所へと足を向ける。目当ての少年は、ほどなく見つかった。


 ぽちゃん。ちょうど少年が投げ入れた小石が、小川にのどかな波紋を広げる。


 チェッタは小川のほとりに座りこんでいた。膝を立ててそれに肘をつき、ふてくされてせせらぎを眺めている。傍らには洗濯物の入った籠があった。まだまったく洗っていないようだ。


 カミルの足音に気づいて、少年は振り向き、ぎょっと目をむいた。跳ね上がるように立ち上がり、警戒態勢になる。


 カミルはそれに気づかないふりをした。


「マーサさんが、今日はポトフだと言っていましたよ」

「あっ。うえっ? そ、そーか」


 肩すかしをくらったように、やたらと動揺する。この得体のしれない旅人が口を開くことは、攻撃してくることと同義だとでも思っているのかもしれない。


「そっか、ポトフか」


 そう言って表情を明るくしたチェッタは、しかしすぐに目を伏せた。喜びと気がかりがないまぜになったような、複雑な顔だ。


「君の好物だと聞きましたが」


 努めて穏やかに尋ねる。そーだよ、とチェッタはぶっきらぼうに答えた。


「……草じゃなくて野菜をたくさん使うんだよ。そんなのなかなかできないんだぞ」


 ああ。カミルは納得してうなずいた。穀物も野菜畑もある、とは言っても、この土地と人数ではそう多くは採れないに違いない。


「お前らがいるしなっ」


 ぷいと顔を背ける。


 たしかに、自分ら旅人がいればその分食料が減る。そのことはカミルの主も気にかけていた。


「いずれ世話になった分、この島に食料か何かを持ちこもうとシグリィ様は仰っていましたよ。もらいっぱなしにはしませんから、安心してください」


 そう言うと、チェッタは虚を突かれたようにきょとんとした。そしてしばらくして意味を理解したのか、みるみる顔を赤くした。


「ちがっ――メシがへってメーワクとか、そーゆー話じゃねえよ! きゃ、きゃくはもてなすのがあたりまえだって、マーサもユキナもいってたし!」


 おや。カミルは驚いて軽く眉を上げた。こちらが勘ぐりすぎたらしい。


「すみません。ありがとうございます」


 微笑んで言い直した。


 う、とチェッタが言葉をつまらせる。「べ、別に」


 意味もなく腕を振りうーとかあーとか言うのを、カミルは目を細めて見つめた。マーサはああ言っていたが、思ったより元気だ。その内側には色々溜め込んでいるのかもしれないが、さしあたりそれを聞く場面には思えない。そもそも自分は聞き役が苦手でもある。


「洗濯を手伝いましょうか?」


 少し歩み寄り、洗濯物の山に手を伸ばした。

 しかし、一瞬早くチェッタがその籠を奪い去った。


「おれのしごとだっ!」


 カミルはつい、チェッタの目を見た。故郷ではよくやった癖のようなものだ――年下を叱ったりたしなめたりするときの前準備の一瞬。


 ただ、チェッタは故郷の家族とは違う。目の前の少年と自分との距離感を心の中でたしかめるように転がし、「でも全然進んでないじゃないですか」という一言を呑みこむ。これで相手がセレン辺りだったなら怒涛の説教コースだが。


 しかしチェッタは、ことのほか理解が早い子供だった。


 いや、洞察力があるとでもいうのだろうか。あるいは単に自分が悪い自覚があるからかもしれない。こちらが何も言っていないのに「うるせーな」と目をそらし、むっつりとする。


「……ちょっと……ちょっとだけ、ニガテなだけだし」

「そんなに苦手なら、役割を変えてもらっては?」


 人には向き不向きがある。たかが洗濯とはいうが、誰にでもできるわけではない。例えばセレンなんかは、洗濯役を嫌がったりはしないが、服は好きなくせになぜああなるのか理解不能な畳み方をしたりする。


 だったら、別の仕事を任せればいいだけの話だ。そうやって彼ら三人はやってきた。


 チェッタは長く、視線を小川に投げたままだった。小石と違って視線は川に影響を与えない。チェッタの意思に関係なく、さらさらと流れていってしまう。


 だが、その“流れる様子”は――人の心をも揺り動かしていく。チェッタはぽつりとつぶやいた。


「……おれがやるって、自分でいってんだ。いつも」

「―――」

「だ、だから、時間かかっても、おれがやる。マーサもハヤナも、『やれ』っていう。おれがそう頼んだんだ。おれが逃げたら……」


 むりやりにでも連れもどしてくれ、と。ちゃんとやりきるまで。


「でもっ。ちゃんとやれた日もあるんだからな! 毎日は――まだできてないけど」


 ぼそぼそとそこまで言って、ようやく気づいたかのようにハッとカミルに視線を戻す。


「お、お前なんかにはなすことじゃねーし! も、もういいだろお前マーサんとこもどれよ、マーサのこと手つだえよ!」


 “何か嫌なことがあったんですか”。

 そんな問いを、カミルは呑みこんだ。


「……そうですね」


 目を閉じ、少し沈黙する。


 チェッタが不安そうにこちらを見ている気配がする。この子は――言うほどこちらを嫌っていない。《印》持ちへの不信感はあるが、逆に言えばそれだけしかない。


 “《印》持ち”と一括りにしてはいけない時もあることを、多分感覚的に悟っているのだ。《印》があろうがなかろうが、好意を持てる相手はいることをすでに実感している。


「セレンが、あなたと話をしたがっていましたよ」


 その名を出すと、チェッタは不意打ちをくらったように表情を揺らした。


「だから、彼女に話すといいでしょう。彼女なら軽く笑って聞いてくれます」


 ――そこが、自分と彼女の決定的な違いだ。


 カミルはちらと辺りを一瞥した。


 離れたところに、一人の少女がたたずんでいた。じっとこちらの様子をうかがっている。チェッタは気づいていないようだが。


「では私はマーサさんのところに戻ります。もし力仕事の用があったら、いつでも私に声をかけてください――そういう力ならセレンよりもありますから」


 お、おう――と答えるチェッタのぎくしゃくした態度も、ただ微笑ましいだけ。


 カミルは少し笑って、村長の家に戻るために踵を返した。



 ハヤナは薬草の採取を終えたあと、チェッタがいるはずの小川に向かおうとしていた。洗濯をしているチェッタの様子を見に行くのは、マーサの言いつけでもあり、チェッタとの約束でもある。


 そして、弟を見つけたと同時に足を止めた。――チェッタの傍に誰かいる。

 背の高い青年。あれは、旅人の一人だ。《印》持ちの――


(どうしてチェッタのところに?)


 まさかチェッタに何かする気だろうかと思わず身構えた。息を呑み、たくさんの草の入った籠をしっかり抱きかかえて、遠くから様子をうかがう。


 長身の男に向かって、小さな弟が何かやっている。途中で青年が洗濯物に手を伸ばしたが、チェッタはそれを奪い取った。「おれがやるんだ」とか言っているに違いない。声はよく聞こえないが。


 充分会話が成り立っているようだ――弟の態度なら遠くからであろうと大体読める。今、チェッタは癇癪を起こして荒れてはいない。


 それがどうしようもなく苛立たしく思えて、ハヤナはぎゅっと唇を噛んだ。

 ――マーサといいチェッタといい。


 どうしてあの旅人たちにあんなに寛容なのか。ハヤナだって《印》持ち全員が悪者だと思っているわけではない――少なくとも、ジオはいいやつだと思っている。だがそれはジオが長年かけてこの島に通って培ってくれた信頼だ。一朝一夕で出来上がるものではない。


 まして得体のしれない旅人なんか。


 ジオが連れてきたのでなければ、ダッドレイが反対するまでもなく自分が村に入れなかったのに。

 ダッドレイのことはたしかに苦手だ。だが、彼の言い分が理解できないわけではない。少なくとも、《印》持ちに関しては同意できる。


 彼のように、村の害になる、と言い切ることはできないが。だったらジオも追い出さなくてはならなくなる。実際ダッドレイはジオに対してもいい態度は取っていないのだが、ハヤナはそこまでするつもりはない。


 それでも、簡単に信用していい相手とも思わない。


 小川の方では、青年がチェッタに軽く手をあげて挨拶してから歩き出していた。


 ハヤナたちの家に行く――正しくは“帰る”なのだが、ハヤナは認めたくなかった――のだ。そして彼が通る道筋に、自分はいる。


 思わず背中を向け、家とは別の方向に走り出した。


 このまま家に帰ったら鉢合わせする。とっさの回避行動だ。だが行く宛てがない。でも止まれない――振り切りたい一心に走る足は、知らず知らずの内に行き慣れた場所に向かっていた。


 ――村の一画にある、林立した木の群れ。


 ここは日当たりが悪いため滅多に人が来ない。妙に空気が湿気っていて、ひんやりとしている。雨が降ったときの水分を溜めこんでしまう林なのだと聞いたことがあったが、ハヤナにとってはどうでもいい。


 ここは居心地がよかった。

 適度に明るく、適度に暗く、適度に暖かく――適度に冷たい。


 林に踏みこみ、中ほどにある一本の木に足を向ける。細い木が多いこの林には珍しく、幹が太く、太い根っこは土を持ち上げている。苔むした雄々しい木だ。

 その幹にもたれて、ほうとため息をついた。目を閉じ、ぐちゃぐちゃになっていた心を鎮めようとする。


『何か気がかりなことがあったのか?』


 ふいに耳の奥からその声が蘇った。


 ハヤナは覚醒したように目を開けた。治まりかけていた疼きが再びぶり返す。きりきりと肺が痛みを訴える。


 眼前を見下ろした。 

 足元の地面に、掘り返した跡があった。


 それを目にするなり、ハヤナは憑りつかれたように行動を開始した。草の入った籠を置き、木の陰に隠してあったスコップを探り当て、地にすがりつくような体勢でその場所を掘り返す。


 土の中から、赤黒く錆びた箱が現れた。手が汚れるのも構わず――昼食の材料採取でとっくに汚れていたので――箱を持ち上げ、土を払う。


 それはハヤナがこの島に来る前から持っていた宝箱だった。

 彼ら姉弟の親は、五歳になると子供に物を入れるための箱を贈ったのだ。


 マーサの箱は、故郷から逃亡する際に紛失した。


 チェッタに至っては、親から箱をもらいそびれた。『あれ』はチェッタの五歳の誕生日より前の出来事だったから。


 ハヤナだけがこれを持っている。そしてこの箱には、ハヤナの守りたいものが入っている。


 両手に載るような小さな箱の中に、小さな思い出たちが。


(……ここに入れておけば、とりあえず安全だと思ってたけど)


 考えながら、蓋をゆっくり開けた。


 こんなところに埋めてあれば、箱が錆びるのは当然だったが――頻繁に開けているから困ったことはない。


 クッションの敷かれた中に、子供のころの遊び道具が少し。チェッタがちっちゃいころに自作してハヤナにプレゼントしてくれた、粘土像がひとつ。母と一緒に描いた絵。マーサが描いてくれた似顔絵。マーサがくれたハンカチ。ユードがくれたきれいな石。


 そしてそれらの陰に埋まるように、もうひとつ。


 ――青い輝き。


 ハヤナはそれを指でつまんで、目の高さまで持ち上げた。木々の合間から差し込む昼の光に照らす――きらりと、丸い表面が煌めきを放つ。


(やっぱりきれい)


 それを初めて灯りの下で目にしたとき、ハヤナは息を呑むほど驚いた。

 こんなきれいな石を見たのは初めてだった。ユードがくれた石よりも。


 石なのにどこか濡れた光沢がある。透明度はないのに、不思議と澄みきって見える。


 ――絶対に高価なものだと思った。


 だから、誰にも気づかれる前に盗んだ。あの――


 服とつながる紐や金具はなかった。だから装飾品と思わず、最初は彼女の服に引っかかった石だと思っていた。あの夜の暗がりの中では持ち上げてもよく見えず、でも自然物とは思えないほど丸いのは分かったから、おぼろげに「彼女の持ち物かもしれない」と思った。持ち物なら、自分が持ち帰って後で彼女に返そう。そう思っていた。


 けれどいざ家に戻り、灯りの下でそれを見て。

 ……内側から囁きかけてくるもう一人の自分の声に、抗うことはできなかったのだ。


(これが宝石なら)


 宝石なら、大陸で高く売れるはずだ。ユードに渡せばきっと彼は分かってくれる。ユードは村のためなら何でもする人だから――何も言わずにお金や食料に変えてきてくれるはずだ。今の所この村は空腹には困っていないけれど、草ばかり食べていては健康を損なう。卵は体にいいし、男連中には肉だって必要だろう。お金さえあればユードはどこからか調達してきてくれるのだ――ハヤナはこれ以上、栄養が偏って体調や体格に変調をきたす仲間たちを見たくなかった。それに順応するしかないと言われても、いやだったのだ。


 第一、ユードばかりに頼っているのは。


 ……この石は彼女の望みの助けになってくれるかもしれない。


 なくすわけにはいかないし、マーサたちに見つかるわけにもいかない。だからこの箱に入れていたのだけれど。


 今――改めて見る箱の中で、その丸い輝きは奇妙に浮いていた。心なしか陰っているようにも思える。

 落ちつかない場所に押しこまれ、元気をなくしたかのように。


 箱の中に入れておくのはよそうか。ハヤナはそう思った。居心地悪そうにしているのを放っておけない。そもそもこの箱のことはマーサも知っているから――何かの拍子に見つかってしまうかもしれない。


 だったら、別の場所に移すか何かしなくては。


(とにかく家に持っていこう)


 そう決めて、箱の中に畳んであった白いハンカチを取り出し、青い石を丁寧に包んで服に隠した。

 箱の蓋を閉め、再び元の場所に埋める。辺りから落ち葉や枯れ枝を拾って土の上にほどよく撒けば終了だ。


 顔を上げたハヤナの目には、くらい炎が宿っていた。


 ――例えマーサに責められても、後悔はしない。絶対に。

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