17 朱雀の《印》と涙と

 ――結局、彼女をまた部屋へ戻すことになってしまった。

 階段の下に立ち二階を見上げて、シグリィは少しばかりため息をついた。


(私の判断ミスだな)


 階下に来客があったことは気づいていたのに、あのタイミングで部屋から連れ出したのがいけなかったのだ。もう少し待てば彼女とダッドレイを鉢合わせさせることもなかったろうに。


 だが、一方で「会わせてよかったのだ」と思う気持ちもある。


(……彼女自身は『いい』と言っていた)


 傷ついた顔をしていた。

 けれど彼女は最後まで、後悔している気配を見せなかった。


(……『言葉を聞いてくれたから』、か)


 おそらく無意識にこぼれた言葉だったのだろう。それだけに気にかかる。

 そしてその直後に漏らしたつぶやきも。

 

『自分は、やっぱり不吉なのか』

 

 寂しそうなため息とともに床に落ちたその声を聞いたのは、きっとシグリィだけ。


 、と彼女は言った。それは――……


「シグリィ様。大丈夫ですか」


 マーサやハヤナとともに台所に行っていたカミルが戻ってくる。

 シグリィは苦笑した。


「ああ。……だが私には、彼女の世話は荷が重かったのかもしれない」


 そんなことはない、とカミルは言わなかった。代わりに、


「誰がやっても同じだったかと思いますよ。まあセレンは例外でしょうが」


 シグリィとともに階上を見上げる。


 あの少女に付き添うことになったのは、最終的にセレンだった。マーサは旅人たる彼らが傍にいる方がいいという考えであるらしく、そもそもマーサとハヤナはこれから昼食の準備に取りかからなくてはいけない。


 チェッタは「おれがやる!」と騒いでいたが、「お前は洗濯だ!」とハヤナに首根っこを押さえられてしまった。


 カミルは『ない!』とセレンが断言した。年頃の女の子の部屋に男が云々というのは、まあたしかにその通りなのだが。


 だったらなぜ今までシグリィだったのか。誰もその点には突っ込まないのが甚だ疑問だ。もっともシグリィ自身、自分が女の子にとって危険なオオカミだとは到底思えないのだが。


「これからどうなさいますか」


 視線を下ろし、カミルは問うてくる。「私は予定通りマーサさんたちの手伝いをしようと思いますが」


 私にも手伝えそうだったので、と彼は言った。台所で一通りの仕事内容を聞いたのだろう。

 そうだな、とシグリィはつぶやいた。


「私もそうするか……思えばガナシュでは、何の助けにもならなかったからな」


 “迷い子”の被害にあったあの港町を、結果的に見捨ててきたことになる。


 このエルヴァー島には、どうやら“迷い子”の気配はない。だからといって、こちらの様子を見に来たことを後悔するわけでは決してないが。


 意味もなく居間を見回してみる。


 平穏そのものの部屋には相変わらずの初春の陽光が穏やかに差し込み、カーテンが光の波紋を描いている。


 けれどダッドレイが座っていた椅子だけが妙に歪に、部屋から浮いていた。


 ――この先この村に何も問題が起きないわけじゃない。


 この時期に自分たちがこの村にいることを、“害”ではなく“益”に変えるためなら、惜しむ力などない。


「セレンは彼女から何か聞きだすことができるだろうか」

「どうでしょうか。セレンはあれで、強引に迫る相手を的確に選びますから」

「その台詞をセレンに聞かせてやりたいな」

「やめてください。確実に気持ち悪がられます」

「分からないぞ、まあ『嵐が来る!』とか言って部屋にこもりそうなのも確かだが――ああハヤナ」


 台所から玄関へ行こうと居間を横切ったハヤナが、シグリィの呼びかけに足を止めて振り向いた。


 ハヤナは籠を抱えていた。昼食の材料を集めにいくのだろう。この島では、多彩な草はむしろ主食に近い。村人の一部は畑も持っていて、姉弟は野菜や穀類を分けてもらってもいる。


 魚は、時々村人数人で釣りに出て確保するようだ。肉類と卵類だけは手に入れにくいらしい――元となる家畜をこの島に持ってくることが困難だからである。


 シグリィを見たハヤナは、つっけんどんに尋ね返してきた。


「なに?」

「聞きたかったんだが。あの子を最初に見つけたのは君だろう?」

「そうだけど」

「その時何かなかったか? 彼女の素性についてとっかかりになりそうなものは」


 浜辺で一人倒れていたという少女。

 おかしな現象が起こったり、妙なものが落ちていたり――何かしら、異常はなかっただろうか。それが気になっていたのだ。


 第一発見者であるハヤナなら、他の誰も知らない情報を持っているかもしれない。


「―――」


 ハヤナは沈黙した。

 あの夜を思い返しているのだろうか。シグリィは黙りこくった少年のような少女を見つめる。


 そのとき「ハヤナ」と台所からマーサが顔を出した。

 

 びく、とハヤナの肩が跳ねた。


「チェッタの様子を見ていってね」


 マーサはそれだけ告げるとまた顔を引っこめた。

 ハヤナは緊張を解いたように、小さくため息をついた。


 ――もしもハヤナとマーサとの距離がもう少し近ければ、聡明な姉が妹の様子に気づかなかったはずはない。


 だが今、彼女を近くで見ていたのはシグリィとカミルだけ。


 機嫌を悪くしたかのような縦線を眉間に刻む、ほんの一瞬。けれど瞬きする間にそれも消えて、何事もなかったかのようにハヤナはシグリィたちに向き直った。


「何もなかったと思う。正直よく覚えてない」


 暗かったし、あの子以外をまともに見ていなかった――と、淡々とした説明した内容に、不自然なところはない。


「マーサの妹として情けない話だけど。ぼく、パニックになってたから。あんな風にこの島に来た子初めてだったし」

「………」

「もういい? 悪いけど、早く採取に行かなきゃ」


 そう言ってハヤナは身を翻す。


 シグリィは軽く目を細める。――足早に出て行こうとする、痩せた娘の後ろ姿。それが視界から消える直前に、言葉は口をついて出た。


「気がかりなことがあったのか? ハヤナ」


 ……ハヤナは正直な娘だ。これ以上なく。


 振り向くことはない。だが、聞こえないふりもしなかった。足を止めて立ちすくむ、その背中に緊張が張りつめる。


 かすかに上下するその細い肩に、シグリィは穏やかに話しかけた。


「何かあったなら教えてくれないか。どんなささいなことでもいいから――」

「――知らないってば!」


 弾け出たのは噛みつくような声。


「ハヤナ?」


 驚いた顔を覗かせるマーサの声にも振り向くことなく、少年のように身軽な少女は玄関へと姿を消した。


「………」


 シグリィは人差し指でこめかみを掻いて、小首をかしげた。


「あの……ハヤナが何か?」


 マーサが心配そうにこちらへ来ようとするのを手で制して、「何でもないです」とできるだけ軽い口調で答える。


 腑に落ちない表情のまま、けれどそれ以上何も言わずマーサは顔を引っこめる。本当に不思議な話だが、マーサはシグリィをずい分と信用してくれているに違いなかった。


「追いかけますか?」

「……どうかな。今は私たちには話してくれないような気がする」


 姉と違ってハヤナは自分らを好いていない。《印》持ちへの不信感は、そう簡単に拭えるものではないのだろう。


「ではマーサさんに?」

「いや。それはしない」


 二つ目の問いには即答する。


 たしかにマーサならばハヤナから聞きだすことも可能に違いない。

 だが、きっと強引に聞きだすことになる。簡単に打ち明けられる内容ならば、最初から姉に報告しているだろうから。


 マーサが台所で作業をしている音がする。漂ってくる家庭的なその気配の穏やかさは、彼女ら姉弟が培ってきた絆の副産品だ。


「……あの姉妹に、そんなやりとりをさせたくないんだ」


 空気に紛れるような声で、シグリィはそうつぶやいた。

 こちらの勝手な押しつけでしかないけれど。そう思って苦笑したあと、


「そもそも、マーサさんはあの子の素性を特別知ろうとは思っていないんだと思う。ここはそういう村なんだろう」

「そうですね」

「ハヤナが自分から言ってくれるのを待つか……もしくは」


 彼女に信用されるように、自分たちが働きかけるか。


「難題だな」


 そんな風に言いながら、シグリィは笑った。


 ――どれだけ大変であろうとも、それは力を尽くす甲斐のある“難題”に違いなかったから。



*****



「あなた本当にきれいな子よね~」


 セレンという名の女性は、しみじみとそんなことを言った。


 そして、どう反応していいか分からず曖昧な表情をするこちらに向かって手を伸ばし、髪にさらさらと指を通す。


「でも髪が傷んじゃってる。もったいないわね、いい色してるのに……んー、手入れの仕方知ってる?」

「あ、ええと、多分」

「そう? 分からなかったら何でも聞いてね。この島には髪にいい草もたくさんあるだろうし」

「そう――なのか?」


 そうよ、と答える女性はにこにこと上機嫌そうだ。


 結局部屋に戻されて(当然だけれど)、今は旅人の一人であるセレンと二人きり。彼女はベッドまで軽やかに、でも丁寧にエスコートしてくれたあと、自分は椅子を陣取って楽しそうにしている。


 ――『きれい』と言ってくれる彼女のほうが、よほどきれいだ。


 腰まである長い髪は、濡れたように艶がかかっている。透けるような白い肌には、健康的な張りもあってますます美しい。常に光が入っている猫のような目。何より瞳の色が――


 鮮やかなその碧色に、ふと広大な海を思い出した。


 自分が訳も分からず目指した海岸。あの果ての見えない水平線をずっと見つめて、脳裏に延々と響いていた歌を、意味も分からず唄った。


 あのとき隣にいてくれたのはシグリィだった……


「………」


 目の前の女性はシグリィの連れだという。シグリィ様、と呼んでいた。

 そのことについて尋ねると、年上の女性はカラカラと笑って、


「そーよーご主人様よ。って言っても、シグリィ様は別にそんなつもりでいないし、私だって別に家来とか部下とか従者とかって気はないわ。カミルはそんな感じでいるみたいだけど」


 まああの人はそういうタイプだから――と旅の連れを思い出したのか、セレンは楽しそうにまた笑う。


 あの、優しさと精悍さが入り混じったような顔立ちの青年のことだ。思えば目の前の女性とはずっと口喧嘩をしていたような気がするけれど。


 今、その青年について語る彼女に悪意は全く感じられない。もちろんシグリィのことを語るときにも。


 それがなんだかとても嬉しくて、顔がほころんだ。


「あ、かわいい顔」


 すかさずそう言って、彼女はそのきれいな指でつんつんと頬をつっついてきた。

 やめてほしいような、ほしくないような。くすぐったくて、口元も緩む。


 けれどどこか居心地が悪いのは、からだ。


「――なんでそんなに優しい……?」


 心の中だけに留めるつもりだった思いが、なぜか唇から零れ落ちてしまった。


 一階で眼鏡の青年と対面し終わった直後、一気に力が抜けてから、どうにも歯止めが利かない。このままでは誰かを傷つけてしまうかもしれない。また誰かに迷惑をかけてしまうかもしれない――


 焦りを覚えるこちらをよそに、女性は「んー?」と大きく首をかしげた。


「理由なんかいるの?」


 ただそれだけ。


 ――唇を噛んだ。なぜうなずけないのだろうか。とても心に優しい言葉だと、たしかに思うのに。

 望んでいるのはそんな答じゃないと、心のどこかが思っているのだ。


 でもそんなこと言えない。ようやく自制が利いたのか、声にはならなかった――それがありがたいような、でも言ってしまえればよかったような、相反する思いばかりが胸の中を渦巻いて圧迫する。


 セレンはしばらくこちらを見つめていた。

 そして、ふわりと笑った。


「理由がほしいのね? 納得できる理由が」


 それまでの彼女とは別人のように落ちついた声。どこか子供っぽくもある態度ばかり取っていた人が、まるで空気ごと纏い替えたかのように。


 豊潤な笑みをたたえたまま、彼女は言った。


「ちょっとだけ気になるところはあるのよ。あなたからはシレジアの気配がするから」

「シレジア……?」


 ずきん、とこめかみがうずいた。

 シレジア。

 その単語に、たしかに聞き覚えがある。だが何だっただろう。思い、出せない――


「唯一の島国シレジア。南の女神イリスが愛した国。そして私は朱雀の術者」


 唄うように女性は言葉を紡いでいく。


「生まれは北だけれど、私を護ってくれているのはイリス神よ。シレジアはイリス神の土地。気にならないわけがないわ」

「イリス神……朱雀の《印》」


 知っている言葉。だけど輪郭がぼやけている言葉。それらが目の前で渦巻いて形を変えていく。胸の奥底に落ちてくる。


 それにつられて、自分も心の中を見た。改めて見る自分の内側は、まるで途方もなく大きなパズルのようにばらばらで。


 ――怖い。


 ふるりと身震いして両腕で己を抱く。それに気づいていても、セレンは言葉を止めない。


「ここ」


 と、右の上腕から肩の辺りに左手を置き、


「――私の《印》は、ここ」


 そして。


「見てみる?」


 胸の奥がとくんと。

 切ないような疼きを訴えて。


 ――パズルが完成するのが怖い。

 けれど目を背けても、全身がそれだけを見つめてしまう。


(何も見えないのに)


 心の奥底、霧のかかった場所に何がある?

 思い出せない。

 思い出したくない。

 

  ――この旋律は、自分のことを忘れてしまった愛する人に向けて紡がれたもの……

 

 遠くから声がする。

 思い出せない声。けれどこの声を知っている。

 泣きたいくらいに愛おしい声。

 

  ――貴女はだれ?

 

「私は」


 その人のことを、忘れてもよかったのだろうか。

 

 目の前の女性を見つめる。海のような微笑みをたたえる朱雀の女性。その、右肩。

 セレンがゆっくりとその部分を露わにする。覗いた白い肌に刻まれていたのは、赤みがかった鳥の文様。

 空高く舞い上がる赤い鳥の――


 夕焼けに染まった世界が目の前に広がった。


 何度も見た景色だ。自分はたしかに、


 空を見つめる自分と、寄り添うように隣にいる誰か。気配はあるのに、その姿が見えない――


 輪郭を思い出せない虚像は掴むことができず。

 伸ばした手も、空をさまようだけ。


 津波のように押し寄せた寂しさに呑まれ、彼女は嗚咽をもらすことしかできなかった。まるで胸にぽっかり空いた穴を、涙で埋めようとするかのように。

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