Side:Sigrye 01
「シグリィ様?」
少し離れたところから、青年の声がする。寝るのではなかったのですか、と。
少年はじっと空を見上げていた。
小さな岩に片足をかけ、天上を仰いでいた彼はつぶやく。
「セレンはもう眠ってしまっているか?」
「ええ、ぐっすりと」
「そうか……なら私たち二人は、今夜は、眠らない方がいい。危険だ」
「え?」
「見ろ」
指を指す先――
青年が、はっと息を呑む。なぜ気づかなかったのだと悔やむような顔。同時にその顔には深い疲労の色がどっと出た。
「……もう、五年も経ちましたか」
「そうだ。丸五年の、春だ」
青年の吐息が、今夜という夜の憂鬱を示していた。
暖かい春の……夜。
それが、こんなにも息苦しい。
少年――シグリィと呼ばれる彼は、そっと目を閉じる。
「……聞こえる。魂たちの声だ。……何度聴いても、重苦しい」
それは叫び声のような、
唸り声のような、
笑い声のような、
泣き声のような、
そしてすべてを超越した、声ではない声のような、
……生まれたばかりの赤ん坊の、産声の、ような……
まるでそれに導かれるかのように、声が流れ出る。
「生まれる……また、人間に害なす存在が」
傍らまでやってきた青年の、静かな息づかい。ほとんど消えてしまったかというほどにかすかに聞こえるそれが、とても心強い。
今ここにいるのが、自分ひとりではないということの実感――。
シグリィは瞼を上げる。
「五年に一度繰り返してきたこれが……千年。まったく、人間はよく絶滅しなかったものだ」
「この大陸から、ですか」
「そう、この大陸から」
初めて顔を青年に向けて苦笑をみせると、それから真顔になり、
「カミル」
と彼の名を呼んだ。「大丈夫だな? 徹夜に耐えられるな」
「少なくとも私たち三人の中では、一番体力があると自負していますが」
「それはそうだな」
少し笑ってシグリィは岩から足を下ろした。
再度、天を仰ぐ。
大陸を包むかのようにある闇が、黒い天幕に覆われたかのように感じさせる。とても圧迫感がある。出口はどこだと、探したくなる。
今、この空に――
唯一ある光。
月。
いつもならば何の変哲もないはずの月が、今は中央から穴が開き、まるで黄金のリングのような形になっている。
少年の唇が、吐息のような言葉をもらした。
「……“月闇の扉 開く時 世界は絶望に包まれる”……」
月の中央に開いたのは、扉。
きらきらと光る外側の円。まぶしいほどに目に焼きつく輝き。
反対に中央の闇は、目にしてはいけないゾーンのような――そこをのぞけばもう永遠に、他のものは見えなくなってしまいそうな危うさ――……。
彼は目を細める。
腕組みをし、ひたすら天を眺めていた。
その動作は、彼が考えごとをするときの癖で――
邪魔をすまいと思ったのだろう。カミルの方はシグリィには話しかけずに、その場にいるもう一人の存在、寝袋ですーすーと眠っている女の様子をたしかめている。
彼らを取り巻く空気は、不気味なほど清浄だ。
夜空にぽっかりと浮かぶ金のリングを見つめている内に、世界がどんどんと狭まっていくような気がする。
気が遠くなりそうなほどの、静寂の時間。
シグリィは眉根を寄せる。
「……なんだか……」
誰に聞かせるでもなく、自分が声に出した自覚さえなく、こぼれる言葉。
「……扉の様子が、おかしい、ような……」
それを聞いて、カミルがふっと上を見て目をすがめた。
「――例年より少し暗いでしょうか? 輝きが……」
「それもあるんだが」
なんだろうか、この違和感は。
景色というパズルの中に、ほんの針の先ほどの、違ったピースが混じっているかのような。
それがどこにあるのか分からない。分からないが、そのままでは全体が完成しない。
そんな不快感は焦りさえ呼ぶ。そこから全て壊れていってしまうような――
シグリィは視線を下ろして、頭を振った。
「とにかく、行くしかないな」
つぶやいて、足元にあった小石を蹴とばした。
小石が転がっていく先。
延々と続く道なき道。
シグリィ。
――十六歳になって初めて迎える、春の夜。
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