Side:Ranarnya 07

 城の前庭は、不気味なほどに静まり返っていた。

 氷漬けとなった人間たちの隙間を、風がひゅうひゅうと吹き抜ける。驚くほど寒いのは、氷柱の放つ青白い光のせいかもしれない。

 それとも、自分の心が冷えているのだろうか? 分からない――


 唇が切れるほどに強く噛みしめ、ラナーニャはただそこに立っていた。


「ねえお姉様……」


 背後から現れた妹がゆっくり歩みよってくる、その足音がする。

 姉姫のすぐ傍まで来て止まったクローディアは、くすぐるような声で囁いた。


「……お姉様もわたくしたちの仲間になればいいのよ? お疲れでしょう。とっても楽になれるわよ?」

「……うるさい……」

「お姉様、お苦しいのでしょう? お父様のことで」

「……うるさい」

「だって、お姉様がしてしまったことはこの国においては死者を冒涜ぼうとくすること、その上国王陛下の魂、それはひいては国民全体を裏切る――」


 うるさい!

 怒鳴ったつもりが、声にならなかった。

 からからに渇いた喉が、焼け付くように痛い。

 クローディアの告げた言葉が、体中を熱して冷やして滅茶苦茶にする。

 クローディアは、軽快な足取りでラナーニャの前に回った。

 そして妹は、ふふ、と蕩けるような微笑みを浮かべた。


「罪滅ぼしはしましょうね、お姉様。もうあなたはイリス神の申し子ではない――」


 妹の手が、

 さらっと、自分の髪の毛に触れていった。

 とたんに、すとんと何かが抜け落ちたような気がした。

 目の前で、不思議な現象が起こり始める。


 クローディアの黒真珠のように美しかった髪が、赤く……紅く染まっていく。まるでラナーニャ自身の髪の、よう、に、


 自分の……?


 はっと自分の髪を一房取って凝視し、ラナーニャは瞠目どうもくした。

 この暗がりの中でも、はっきりと分かる変化。

 ――色がない。

 一瞬、そう感じてしまうほど暗闇になじむ――漆黒の色。

 自分の髪に……あの紅色がない。


 くすくすとクローディアが笑った。紅色に染まった己の髪を、愛おしそうに撫でて。

 そして、


「こちらももらわなくてはね……お姉様、交換しましょ」


 顔を引き寄せられる。

 その黒い瞳に吸い込まれそうになる。だんだんと桃色に変わっていく妹の瞳は、夜の闇の中で妖艶な光を帯びた。


「お姉様。……これは、罪滅ぼしよ」


 囁かれる、悪魔の声。

 いや、それとも神の声だろうか。


 しかし、ちりちりと痛む意識の底が――

 ほんの少しの違和感をもって、うずいている。


 なぜ?

 なぜクローディアは、を知っている?


 オーディやヴァディシスの言葉を信じるなら、それはリーディナが裏切り者だったからだということになる。

 たしかにリーディナは、神殿にまで入ってきた。自分が――イリス神像の前で告げたことを、聞いていた可能性は、ある。

 そこまで考えて、ラナーニャは頭を振る。自分はリーディナを信じると決めた。仮にリーディナがあれを知っていても、他人に告げ口をするはずがない。


 では他に誰が?

 他に……誰かがいたか?


 そう考えたその刹那、彼女の心を一気に浮上させる声が、暗い世界に一条の光のように差し込んだ。


「姫様。ご無事……ですか」


 クローディアが形相を変えて、ばっと振り向いた。


「お前! どうして――!」


 ラナーニャは体が震えて動けなかった。

 喜びで体が震えて、動けなかった。

 乾いていた口を何度もぱくぱくさせて、ようやく紡いだ名前――


「リー……ディナ」

「私は無事です、我が姫」


 凛と前庭を通った声。

 この凍りついた世界に、まるで奇跡が降ったかのような鮮やかな色を伴って。


 ラナーニャの体が動いた。まるで導かれるように自然に。振り向くと同時、地面を蹴っていた。その人に向かって。

 リーディナ、リーディナ、リーディナ……!

 小さな体の長姫を、抱きとめた真実の家臣。


「姫。我が姫。よくぞ……ご無事で」


 抱きしめてくれた腕に力がある。ああ、やっぱり私のリーディナは強い――

 そう思ったラナーニャは、不意にリーディナの背中に回した手にねっとりとした感触を覚え、ぎくりとする。


「リーディナ、け、が、を」

「……さすがにあの数は辛かった。それに」


 まさか――とリーディナはなぜか微笑みながら、ラナーニャを見下ろした。


「いるとは思っていなかったのです。……玄武の者が、クローディア様以外に」

「なんだって……?」


 リーディナの表情が険しくなる。その鋭い目つきは、ラナーニャではなくその肩越しに先を見ている。


「まさかあのような者を抱えているとは。抜け目がないことですね。申し訳ありませんが、彼には“迷い子”の餌食となって頂きました」


 クローディアのつまらなそうな声が聞こえる。


「……あの男もやられてしまったの。神殿での失敗といい、弱いことね」


 “誰のこと”

 問おうとしたラナーニャに、ふと一人の人物の記憶がかぶさってくる。

 いや、それは記憶とも呼べないほどの――小さな人影。

 なぜならその人物とラナーニャは、一緒にいた時間こそそれなりであっても、一言も言葉を交わしていない。


 あの神殿に向かう小舟に、共に乗っていた

 ――船頭。

 顔さえろくに見なかったその男の印象。小男。無口。まるで印象がない不思議な男。


 あれが玄武の者? 神殿での失敗?

 混乱がやがてひとつの考えに行き着いたとき、ラナーニャは目を大きく見開いた。


 ――聖水をくぐりなさい。

 ――そうすればあなたの罪は赦される。


 あの声。あの声は――!


 クローディアの方を振り返りたかった。

 けれどできなかった。全身はもう限界を突破したように、震えるのをやめていた。

 震えない。動けない。もう何も、できなくなったように。


 そんな姉の後姿を、クローディアは見たのだろう――

 うふふふ、といつもの貴婦人の笑みをこぼす気配が、あった。


「そうよお姉様。お姉様の考えている通りよ。私たち玄武は、相手の心を操ることを得手としているんだもの」


 リーディナが自分を抱いてくれる手に力がこもる。まるで言葉から守るように。


「でもやっぱり私が行えばよかったわ。私なら絶対に失敗しなかったのに――これも全部、オーディのせいよ」


 不満そうな声は、双子の弟へと向かう。

 対するオーディは、妹相手のときはいつもそうであるように、やれやれと肩をすくめたような声で。


「仕方ないだろう? あの舟に巫女以外の王族は乗ってはいけない決まりなんだ」

「面倒な慣習だこと。ねえオーディ、これからはそんなつまらない決まりは壊してしまいましょうよ」

「ちゃんとした理由がある。あの舟が転覆した時に、一度に二人も三人も王族が死んでは困る」


 ぞく、とラナーニャの背筋に悪寒が走った。

 オーディの言葉はまさしくその通りで……けれど、年若い弟がそれを当たり前のように告げているその声音が、あまりにも恐ろしくて。

 しかしラナーニャの恐怖は弟妹の会話を止めることができない。話は続いていく。


「そもそもわたしは、姉上には一度帰城して頂こうと考えていたからな。あの男が失敗したところで困らない」

「それはどういう意味でございますか、オーディ様」


 リーディナが威嚇の声音で問う。弟たちのほうを振り向けないでいるラナーニャの体を、そのまま彼女の背後へと隠しながら。


 かたり、と奥歯が鳴る。

 だめだ。リーディナだけに戦わせてはいけない。

 ラナーニャは鉛のように重い足を、体を無理やり動かした。

 目の前に、リーディナの背中があった。


 ――リーディナの陰から出ることができない。身も心もすくんだまま、リーディナの肩越しに見つめる先に弟がいる。

 オーディはゆったりと唇に笑みを浮かべた。


「……わたしは、姉上が好きなんですよ」


 一歩、二歩と。

 歩み寄ってくる弟の背後に、大きな暗い影が見えたような気がした。

 リーディナとの間合いを詰めて、弟が腰の剣を抜く。正統な王族にのみ与えられる、紋章をあしらった剣――その先を、すっとこちらに向ける。


「大切な姉上。あなたの最期は、ちゃんとこの目で見届けたい」


 暗い闇の月光を剣先が弾いて、冷たい光を散らした。


「せっかくご無事だったんだ。わたしがこの手で送ってさしあげましょう――父上と同じ所ではないかもしれませんが」


 不気味なほどに優しく――

 弟は、笑った。


 その刹那だった。

 誰もがオーディの優勢を信じていたその場の呼吸の合間を縫って、リーディナの体に、弾けるような力がみなぎった。


「―――!」


 力が、前庭を満たした。

 魔術師が詠唱を使わない。それは全力を解放するということ。国でも有数と謳われた術師の鮮烈な魔力は、一切の迷いを見せることなく。


 地面がとてつもなく大きな拳を叩きつけられたかのように震えた。

 振動が彼らの足元の大量の砂を舞い上げる。

 湧き起こったかすかな風が、それをさらにかき回す。

 視界が一瞬で、砂埃に乱された。


「きゃっ――!」


 クローディアが悲鳴を上げ退いた。オーディとヴァディシスが腕で目を覆うのが見えた。

 しかし彼らのように自分の身を守る動きさえできずにいたラナーニャの手首を、誰かが――否、リーディナが力強く掴んだ。


 不意の浮遊感がラナーニャを襲う。

 ぐにゃりと神経がねじ曲がるような心地悪さの中で、手首を掴むリーディナの手の熱さだけが、妙に鮮明だった。


 すべてはほんの数瞬の出来事……

 次の瞬間には、ラナーニャの体は放り出され、地面に叩きつけられていた。


「姫様!」


 リーディナの呼ぶ声に、必死で体を起こす。体中がハンマーで殴られ続けるかのように痛む。けれどそのまま転がっていてはいけないと、脳の片隅が叫んでいる。


「申し訳ございません、術を安定させる余裕がなかったのです」


 リーディナはラナーニャの体を支えながら、早口にそう言った。ラナーニャの具合を確かめようとしたのだろう、その手が主の体の表面を滑る。

 大丈夫だ、とかすれた声で、ラナーニャは言った。

 頬に、冷たい風が触れた。

 城の前庭で感じた、底冷えする風ではない。潮の匂いが入り混じっている。


「ここは……?」


 周囲は暗かった。日が落ちた夜の色だ。

 痛みをこらえて緩慢に辺りを見渡すが、あの前庭の異常な明るさの後では、中々景色が見えてこなかった。


「どうやら海の近くまで来られたようです」


 リーディナはそう言った。

 魔術師の能力には、瞬間移動がある。

 ただし相当な術だ。まして詠唱も魔法陣もなしでは、どこに飛ばされるのかリーディナも分かっていなかったのだろう。

 何故そんな危険な賭けに出たのか?


 ……決まっている。


「……逃げ、られた、のか……?」

「一時的です」


 リーディナは立ち上がり、辺りを慎重に見渡した。

 同じように立ち上がろうとしたラナーニャは足に鈍痛を覚えて、ふらりとよろけた。転移術の影響ではない。城門での戦いで、“迷い子”から受けた傷が再び痛み出したのだ。

 よく見れば血が完全には止まっていない。衣装が赤に染まりつつある。


 リーディナの手が伸び、背中を支えてくれた。ラナーニャはようやくしっかり立ち上がった。


「姫様」

「すまない……」


 ラナーニャは奥歯をかみしめ、「大丈夫だ」とリーディナの体を押し放した。大きく呼吸をし、今度こそ辺りを確認する。

 ようやく目が慣れて真っ先に見えたものは、空にぽっかりと浮かぶ月だった。昨夜の黄金のリング――≪月闇の扉≫ではない。真ん丸の満月である。

 全てを見通すその光が、あまりにも遠い。


 《扉》が開くのはたった一夜のこと。だがその夜の前と後で、まるで別世界になる。

 そんなことは常識だった。けれど――ラナーニャの中で変わってしまった世界は、予想を遙かに上回っていた。もはや現実とは思えず、空に輝く静かな丸い輝きも、ただの幻影にしか見えない。


 月があまりに美しかった。だから思った。自分は光を求めて、夢に逃避したのではないのか?


 もはや立つのに精一杯で、身じろぎするのも難しい。けれどそれをリーディナに知られたくない。それは曲がりなりにも主と呼ばれる者としての矜持きょうじなのか。それとも――

 今やたったひとりとなった味方に、情けないと見捨てられるのが恐かったのか。


 リーディナが月の位置を見て、何かを呟いた。


「リー……?」

「姫様」


 これをお持ち下さい――そう言って、リーディナは服の中から何かを取り出した。

 差し出された掌に載っていたのは、小さな丸い石。

 あの神殿で見つけた、ブルーパールだった。

 立つのに精いっぱいで身じろぎするのも難しいラナーニャの手に握らせ、にっこりと微笑む。


「お守りです」

「……お前だって危ないんだ。お守りなら、お前が持っていた方が――」

「姫様の身の方が大切です」

「そんな……!」

「私はもう長くもちません」


 リーディナが紡いだ言葉に、ラナーニャははっと自分の両手を見下ろした。剣はリーディナに駆け寄ったときに取り落としてしまっていた。手は剣よりずっと大切な人の体を抱きしめたはずで。


 空になった両手には、べったりと血がついていた。


 ラナーニャは思い出した。リーディナが自分を背中にかばってくれた時に、リーディナの背中が見えた。あの瞬間は、歩み寄ってくるオーディに気を取られて、見えているものの意味をはっきりと考えることができなかった。それが今、脳裏に蘇る。


 暗くてよく見えなかった。

 それでも、ひとつだけ分かる。その傷は、爪や牙でつけられたものとは違っていた。リーディナの背面全てを、黒く染めていた、痕。


「―――」


 クローディアは言った。リーディナは花火のように散ったの。


「ク――ロー、ディア、が、やったの……か」


 リーディナは答えなかった。だが、もはや疑いようがなかった。“迷い子”に人間を花火のように死なせる技を持っている者がいるとは聞いたことがない。牙や爪、物理的な方法での攻撃が基本なのだ。彼らは――人間を喰らうのだから。


 そうなのか。

 リーディナを傷つけたのは、妹なのか。

 『私はもう長くもちません』そう、言わせたのは。


「姫様!」


 リーディナは強く、ラナーニャの両腕を掴んだ。


「それ以上考えてはなりません。いいですか、今考えるべきなのは、逃げる方法だけです。ここから逃げて、生き延びるのです、姫様」


 ラナーニャはあえいだ。


「――けが、を、手当て――しな、きゃ、」


 途切れ途切れにようやく、それだけ言った。「リーディナ、怪我を」

 リーディナは首を振った。


「今からでは間に合いません。私に残されている力は、別のことに使います」


 ――では何に使う?

 ラナーニャは引きつった。


、ために……?」

「姫様」

「逃げる、のか。お前を犠牲にして、私だけが? どうして、」


 リーディナの顔が、よく見えない。

 肌が冷え切って、世界から隔離されていくような気がする。虚ろに視線をさまよわせてみても、目に映るもの何もかもが曖昧で、幻のようだと思った世界はますます幻想じみていて。

 確かに感じられるものは、自分の内側にある、焼け付くような痛みだけ。

 “迷い子”につけられた怪我でも、転移術で地面に放り出された衝撃によるものでも……なく。

 込み上げてくる、どうしようもなくやるせない痛みだけ。


「どうして今更――。父上が亡くなって、オーディも、クローディアも、叔父上も、みんな……」


 生き延びる?

 弟は言った。『わたしがこの手で送ってさしあげましょう』と。


 弟妹たちは、私に何を望んだ?


 元々出来損ないの自分だ。何のために王族に生まれたのか、何のために城にいるのか、さっぱり分からなかった自分だ。その上リーディナが今目の前で死を決意して、自分はその心を少しも揺るがすこともできない。彼女の決心を止められない。主と、呼ばれ続けてきたのに。


 力がない。


 それなのにどうして、どうしてこの上生き延びろなどと――


「――どうして私が生きていなくてはいけない!」


 慟哭どうこくは潮の漂う空気を力なく震わせる。

 リーディナは、

 ――ラナーニャが弱音を吐くたび、厳しく優しく支えてくれた人は今、


 ただ、ラナーニャを抱きしめて。


「ごめんなさい、姫様……」


 リーディナの頬を、一筋の涙が伝って落ちた。

 ラナーニャの肩口へと。

 その一滴が、ラナーニャの心を打った。彼女の言葉と共に。


「ごめんなさい。あなたを苦しめることになる。あなたをたった一人で過酷な道へ放り出すことになる。だけど私は」


 次に顔を上げた時、リーディナはもう、泣いてはいなかった。


「……私には、どうしても耐えられない。あなたの未来が消えてしまうことが」


 リーディナは、そっと微笑んだ。


「“生きていてほしい”と私はあなたに望みます。私を生涯恨んでくれても構わないのです。それでも、どうか死なないで……私の姫様」


「―――」


 ひたむきな目が、ラナーニャの心を掴んで放さなくなる。

 それでも抵抗せずにいられない。リーディナがラナーニャの死を恐れるのなら。

 同じ気持ちが、こちらにだってあるのだから。


「私だって、お前に死んでほしくなどないのに……! それが叶わないのなら、私の願いには、心には、一体何の意味がある!」


 力の限り吠えた。

 老婆のようにしゃがれて、獣のように獰猛な声が、夜闇に響いて霧散する。

 暴れようとするラナーニャの腕を、リーディナはしっかりと抑えていた。

 彼女は目を逸らさなかった。壊れそうな彼女の主をただ見つめいた。やがて、その唇が、何かを言おうと静かに開いた。

 しかし、それが声になる前に。


 


 横から新しい声が割り込んで、にわかに空気が騒がしくなった。

 リーディナがはっと身構えた。二人からさほど離れていない位置の地面に、金色の魔法陣が発生し、そして次の瞬間にはそこに二人の人物が姿を現していた。


 ラナーニャの、弟妹たち。弟妹……だったはずの。


「……姉上、こんなところにいらしたんですか」


 オーディは迷子になった子供を叱るような声で言った。


「お願いですから、もうわたしたちを困らせないでください。城を放っておくわけにはいかないんです。これからたくさんやることが」


 そこで言葉を切った弟は、リーディナの手に掴まれる姉の姿に、眉をひそめた。

 その心を代弁するかのように、隣でクローディアが大仰に「お姉様ったら」と扇でもあれば口元を隠しそうな仕種で姉を見た。


「見苦しいこと、そんな顔をなさって! オーディ、これではわたくしたち自慢のお姉様の美しさが台無しだわ」

「……そうだな」


 返すオーディの声が冷えていた。

 まるで何かを凍らせたかのような。

 ――何を?


 声に宿るのは、心。


 オーディは軽く剣を握り直した。


「姉上、あなたをそれ以上醜くするわけにはいかない。シレジアは美と豊穣の国。その国のえある長姫として、美しいまま死んで下さい」

「………」


 ラナーニャの体から、全ての力が消えようとしていた。

 リーディナの支えがなければ立っていられなかった体が、揺れた。

 しかしリーディナは、そのまま彼女の主が崩れ落ちるのを許さなかった。


「……姫様」


 そっと、ラナーニャの髪を撫でて。

 そしてなぜか――

 高らかに。


 歌いだした。


  それは昔のものがたり

  小さな島に うつくしき女神おりたって

  太陽の光あびながら やさしい声で ことばをつむぐ

  聴いていたのは島の花々 そして動物


  それはうつくしき女神の

  小さなひととき 秘密のひととき

  太陽の光あびながら やさしい声は 平和をつむぐ

  なびくは紅の髪 輝く桃色の瞳


  ある日その島の ひとりの若者が

  女神に恋し その名を呼んだ

  ふりむいた女神 若者の心にふれて

  はじめての想い 胸の奥をこがす

  

  うつくしき女神と ひとりの若者

  恋に落ちた二人は けれど結ばれることかなわず


  悲しみの中で

  女神は彼に背を向けた

  彼の必死に呼ぶ声が

  彼女の紅色の髪を引いていたのに


  女神のこぼした涙 真珠のように輝く青

  女神は島のまわりに散りばめた


  それは昔のものがたり

  女神の思し召し すべてを忘れた男

  小さな島に人々を集め

  一国を築き 王となった


  小さな島を囲む青

  女神は今でも男をまもってる 消えない愛はそこにあるから


 それはシレジアの民謡フォルクスリート。リーディナがラナーニャによく謡って聴かせたものだった。

 あまりにも場違いな行動に、さしもの弟妹も呆気に取られた。


 夜陰にうたを締めくくり、リーディナは囁く。

 とても優しい声で。


「この歌から……ブルーパールという言葉が生まれました。我が姫、あなたは生まれたとき、イリス神の特別な加護を受けた者であるようにと、お父上が……陛下が名づけられたそうですよ」

「リー……」

「さあ」


 とん


 リーディナが軽く押しただけで、風に吹かれた草のように簡単に、ラナーニャの体は離れ行く。

 ぬくもりがなくなっていく。支えがなくなっていく。そのまま倒れるかと思ったラナーニャの体を、

 代わりに包み込んだのは、浮力。

 クローディアが形相を変えた。


「お前、今のうたは――!」


 リーディナがは微笑んだ。全てを終わらせた顔で。

 ラナーニャはその微笑かおを、信じられない思いで見ていた。

 

 足元がふわふわと浮いている。瞬間移動の浮力とはまた違う。現実味のない感覚に混乱するラナーニャは、ふと手が熱いことに気が付いて、視線を自分の手に落とす。

 無意識に強く握っていた拳から、光が溢れていた。青い、あおい――海の光。

 拳の中に何を握っていたのか、ラナーニャは思い出した。先ほどリーディナから手渡されたばかりだった、それはこの国シレジアの、


「お止めなさい!」

 クローディアが叫んだ。

「そんなこと、できるわけがないでしょう! この国自体の力場がどれほどのものか忘れたの!」


 何を言っているんだ? 何を――

 ラナーニャ口を動かした。けれど声が出ない。彼女自身の耳まで届かない。


「姫様」

 代わりに聞こえたリーディナの声は、不思議なほど落ち着いていた。

「あなたは、いずれ一度は外に出た方がよいと、思っておりました。そのための方法を私はたくさん探したのです。もちろん本当は、普通に国を出るのが一番なのですが……」


 この方法は最後の手段だったのです、と彼女は言った。


「この術を使わずに済むことを祈っていたのですが。そして願わくば、私も共に参りたいと――」


 リーディナ、リーディナ

 何度も名を呼ぶのに。唇がかたどっていることに、気づいているだろうに。

 リーディナは微笑んだまま。残酷なほど優しく。


「よい王になれと、言いました。けれど本当は、本当はそんなことはどうでもよかった。ただ私は、あなたが幸せに生きていてくれれば、それで」


 ラナーニャさま――

 最後に囁くようにそう呼んで、


 ―――!


 全身で叫んだ。の人の名を。

 大切で大切で大切すぎる人の名を。

 体を絶対的な力が包み込む。視界がぶれる。揺れている。激しい振動――揺れているのは自分なのか、それとも世界なのか。

 視界からあの人の姿が、あの人の姿が、ああ視界から視界から世界から


 最後の――

 瞬間に。


 ……見えた、のは。


 クローディアの放った炎の中、永遠に微笑むたったひとりの、


 ――たったひとりの。



      ラナーニャの目尻から

      一筋の、ブルー



 ――その日、青い光が飛んだ――

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