第六章 其れは消えゆく幻―2
「森の刻が動き出した――」
ゆらり、と影を揺らしながら、アークはつぶやく。
「止まっていた刻が動き出した――」
その手に握った剣の柄に、血が、
大量の血がこびりついていた。
協会員たちを斬ったため、だけではない。
――人間の血を浴びた精霊は、妖となり、そして血の化け物となる。
「なぜ……」
――鼓動が強く打っていた。
あの日から、強く。
――森に住む少年を助けたあの日から、強く。
『あなたらしくない顔だ……』
覆面装束となった男が、含み笑いをする。
『そんな情けない顔を見ることができるとは思いませんでしたよ、精霊に愛されし子よ』
「――その呼び名で呼ぶな」
アークは静かにつぶやく。
そして剣の切っ先を、覆面の男につきつけた。
「森の均衡を崩したのは――貴様か?」
『めっそうも』
「………」
なぜだろう……この男ではないと、感覚が告げていた。
「森が……崩れていく……」
青年はつぶやく。
『これを見ることこそが……我らの長年の夢……!』
恍惚とした声は、しかし次の瞬間には沈黙に変わった。
「黙れ」
血に濡れた剣で、覆面を完全に切り裂いてアークはうなる。
覆面から現れた顔――灰色の髪に灰色の瞳。表情のないヨギ・エルディオスがその頬を引きつらせて笑っていた。
「無駄ですよ……! この悦びがあなたには分かるまい! 我々の長年の研究、長年の研究で分かったことが事実だと今証明される、その瞬間に立ち会える……!」
「黙れ……!」
ザン
アークの剣は、ヨギの黒装束を縦に裂いた。
血は流さずに、装束だけを裂いた。
アークは片手で顔を覆った。
震える声で、つぶやいた。
「森の刻が――」
「動き出したことを、嘆いてる場合じゃもうないんだ」
傍らから、声。
アークは振り向いた。
そこに、緑の髪の友人と――
彼に手を引かれた少年がいた。
少年は、この寒いのに簡易なシーツだけを身にまとい、アークの元へと歩いてくる。
「アークさん……」
「アリム」
「あり……がとう、ございます。森のために、泣いて、くださって……」
「―――」
「でも」
アリムはそっと、アークの顔を両手で包んだ。
「もう、いいんです。きっとこうなることが――」
「………」
「だから」
教えてください――と、茶色の髪の少年は言った。
迷いのない瞳で言った。
「知りたいんです……ぼくの正体を」
「お前の正体」
「この森の正体を」
「この森の正体」
「この森の……意味を」
「この森の……意味」
少年の淡い茶の瞳は、穏やかだった。とても。
ふわりと、少年の頬の傍らを、森の葉がかすめ落ちていった。
ふ、とアークは微笑む。そして、
「お前も……見た、な。妖精が、お前の母親の形を取ってお前の前に現れたのを……」
「……はい。覚えています」
「――この森には、精霊がたくさんいる」
アークはあたりを見渡した。
「何を言っておられる。どこにもいなくなったではありませんか」
黒装束を裂かれたヨギは、しかし何を気にしている様子もなくいまだに含み笑いをしてそう言った。
アークは微笑みで返した。
「全員……避難させたからな」
「な……っ!?」
「なあアリム」
お前は学んだだろう――と、青年の声はどこか寂しく。
「五属性の精霊のうち……光だけは……特別だと……」
「……はい」
――光。
それはたったひとつ。治癒の力を持つ精霊。
「それを精霊と呼ぶのかどうか、俺には分からないけれど」
アークは天を仰ぐ。
常緑樹の葉で見えない空を。
「光の精霊は……二つの、違う属性の精霊が……衝突するエネルギーで生まれる……」
「衝……と、つ……?」
「すなわち、二人の精霊が死ぬ代わりに生まれるんだ。光は」
「―――!」
あの日。
アリムを救ったあの日。
風の精霊と地の精霊が、己たちの意思でそれを行って、そしてアリムは毒から救われた。
そう告げると、ああ――とアリムは膝をついた。
「そう、か……だからあの日……誰かが、いなくなったような、気がして……」
自分は泣いた、んだ。
そうか。だから。
本当に――精霊はいて、自分を護ってくれたんだ。
「もう……否定しないか?」
青年が問う。
少年は……静かにうなずく。
否定など、もうしたりしない。
――自分の傍からいなくなったと認めるくらいなら、最初から傍にいないと思えばいいと思った、火精のとき。
ねえ、助けてくれた精霊たち。
今のぼくを許してくれる――?
今のぼくなら、許してくれる――?
「この森は」
アークは再び語り始めた。
「常緑なんかじゃない。ただの木々だ――光の精霊の力で、保ち続けられた」
「それは」
「……たくさんの精霊が、この森を護るために、死んでいた」
「―――」
なぜ、とアリムはつぶやいた。
どうして、自分は知らなかったのだろう。
どうして自分には見えない?
どうして自分には聞こえない?
「お前には、知らせたくなかったんだ……。この森が護られるために、精霊が死んでいくさまを、見せたくなかった。だから」
アークは薄いシーツをまとったアリムの背中に触れた。
「だから、刻印を刻んだ」
――すべての精霊の気配を、感知できぬよう。
「そうしたのは……お前の母親だろう」
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