第六章 其れは消えゆく幻―3

「お母さん……」

 する、と青年の指先が背中の中央を、あざを撫でる。

「お前の母親はな……アリム。この森の精霊たちにとって一番意味のある存在だった。すなわち――」


 この森、自身。


「実体ある精霊たる地の、最上級さ。……お前の母親は、森の精霊だ。地の精霊に属する。森をつかさどる精霊だ」

「………」

「そしてお前の父親は人間。……人間が触れられる地精だからこそ可能だった――奇跡の命の誕生だった」

「ぼくが……」

 アリムは両手を見下ろした。

 小さすぎる両手。十七歳の手というには小さすぎる手。

「精霊と人間の……」

 ぼくは生まれてはいけない存在だった?

 アリムは問う。

 そんなことは、精霊たちの行動を見れば分かるだろう?

 アークは答える。

「精霊たちはお前が大切で……大切で大切で大切すぎて、人間には渡したくなかった。……人間に正体が知られたら面白半分に何をされるか分かったものじゃないしな。だから……この森に永遠にいるように、しむけた」

「そう、なんだ……」

 護ってくれていたんだ。

 どこまでも、護ってくれようとしてくれていたんだ。

 そう――母が言っていたとおり。


 ――精霊があなたを護ってくれる――


 そうなんだ。

「今なら分かる……精霊たちが、お母さんを救えなかった理由」

 ひょっとしたら……光の精霊を生み出せば、母をも救われたのかもしれないけれど、母はきっとそれを望まなかった。

 代わりに、息子のためにそれを望んだのだ――森に棲む精霊たちとともに。

 お母さん。

 そこまでして……護る価値がぼくにはあった?

 ぼくは、何をすればいい?

 ヨギが、

「精霊たちを避難させた……!? どこへ、まさか――!」

「ここからなら……見えている」

 見える。たった一箇所だけ……森ではない場所。

「黒曜石……」

 アリムはつぶやいた。よく勉強したな、とアークがその髪を撫でる。

 視線の先に、小屋があった。

「正しく言えば、あのアミュレットは黒曜石じゃない。黒曜石から作り出した晶光珠リトス・ポース……だ。お前の……持っていた赤い石も晶光珠だった。本来火の傍にしかいられない火精を……お前の傍にいさせるために」

「今なら分かります」

 強くうなずく。あの石はただの石ではなかったと。

 母の力のこもった……大切な石。

「残っている精霊は全員、お前の小屋の中にいる」

 ――アークの残した晶光珠の力で護られた小屋。

 その中ならば、この異変に影響されないから。

 ヨギが小屋の存在に気づき、走り出そうとした。

 ひゅっ――

 人工的に生み出された風がヨギの足を取る。

「お前、さっきから邪魔」

 冷たい声で、トリバーが倒れたヨギにもう一度風の塊を叩きつけ悶絶させると、その懐をさぐった。

 取り出したのは、ひとつの光珠――“縛”。

 それを大切に手に握ったまま、トリバーはヨギを踏みつける。

「いつぞやはどうも。……今日は簡単にやられやしない。もう火精はいないからな」

「……くそ……っ」

 ヨギが口惜しそうにどんと地を叩く。

 みずみずしい土。落ちた葉。

 けれどそれは、偽りの――止まった刻。

「アリム……お前は今、どうしたい?」

 亜麻色の髪の青年が問うてくる。

「どうしたい?」

「――……」

 アリムは立ち上がり、そっと言葉を紡いだ。

 長い間夢だったことを。

 長い、長い間夢だったことを。

 その唇に乗せた。


 ――精霊に、会いたい。


 ふ、とアークが優しく微笑んだ。

 アリムの背に片手で優しく触れながら。

「よすんだ、アリムくん……!」

 街から走ってきたのだろうか。それとも別の方法だろうか。

 支部長エルレクが、森まで――森だった場所まで駆けてくる。

「よすんだ! 今ならまだ間に合う――! 精霊たちが光を再び生み続ければ、森は永続する! 君の大切な森は!」

 それは精霊たちの望みなのだ――! とエルレクは叫んだ。

「精霊たちは長年、それだけを望んできたんだ! だからこそ光を生み続けた! 森を護り続けた! 森の中で君を護り続けた! 君がそれを壊してはいかん、精霊たちの意志を無視することになるのだぞ……!」

「………」

 ――精霊たちの意志?

 ――森を永続させること?

 ――再び自分を、森の中で護ること?


 ――精霊たちを死なせることで?


「光を生んで、なんて……まやかしの言葉だ」

 アリムはつぶやいた。

「そうだ」

 傍らで、アークが強く同意する。

「駄目なんだ。……光を生み出させては」

 精霊の意志であるうちは、アークにもどうしようもなかった。アリムが人間の手に渡れば恐ろしいことになりかねないことも事実だったから。

 けれど、もうそんなことを心配することはない。

 ――そしてそうである以上、光の精霊は生まれてはいけない。

 アークは鋭い視線をエルレクに向けた。

「お前……精霊を支配してここまで来たな?」

「………っ!」

「よくも……」

 血濡れの剣がちゃき、と音を立てる。

 アリムはそんなアークの腕に触れて、首を振った。

「……アリム……」

「その……精霊を支配、することが、どれほど悪いことか、まだ分かっていないぼくが言えることじゃないんでしょうけど、」

 アリムは困ったように、微笑みを見せた。

「もう、これ以上……血は流さないで、いい……です」

「―――」

 アークが腕を下ろす。そうだな、と青年はつぶやいた。

 血に濡れた己の剣を見下ろしながら。

「ぼくは精霊に会えますか?」

 アリムはアークに訊いた。

「……会える」

 アークはうなずいた。

「アリムくん……!」

 エルレクはこりなかった。

「完全にこの森を枯らす気か……!」

「………」

 アリムはかつて世話になった支部長の姿を見ながら、

「この森は……もう枯れているんです、支部長さん……。止まっていた刻が流れ始めて、もう止まらない……」

 アークさん、と少年は呼んだ。

 アークはアリムの背に回り、シーツをめくった。

 背の中央にあるあざのような〝刻印〟――


 精霊の望み 叶えし刻よ今

 ――我が心、精霊とともに


 ふわ……と背中が暖かい何かに包まれる。

 青年の指先が、何かをなぞるようにすべっていく。

 指先が触れた場所から、熱く燃えるような何かが一瞬起きて、そしておさまっていく。


 アリムの視界に、ぼんやりと何かが見え始めた。

 小屋を見つめていた視界に、ぼんやりと……何かが。


 森が――

 静かに――

 崩れていく――


 木々が枯れ

 土が痩せ

 水が枯れ

 枯葉さえも砕けて散り


 森が――崩れていく――

 十四年間も過ごした森が――

 母がつかさどっていた、森が――


 まるで夢のように。

 まるで幻のように。

 まるでそこにあったことが……嘘のように。


 そして、

 たった一箇所だけ変化のない場所があった。

 十四年間住み続けた家……


 背中の熱さが完全に消え、アークが手を離す。

 ぼんやりとしていた気配が、やがて――はっきりと形になる。


 ずんぐりむっくりとした小人。

 小さな羽を持つ小さな人間の形をしたもの。

 地面に落ちているいくつもの水色の石――晶光珠から足が生えるようにして見えるその存在は、水のように透き通った人型をしていて。

 そして、こちらも地面に落ちている赤い石――晶光珠から見えるのは、少し怖い顔をした真っ赤な体の――


 精霊……たち。


「ずっと……ぼくの傍にいてくれた……」

 アリムは消えゆく森の代わりに姿を現したそれらに、ゆっくりと歩み寄っていく。

 はらり、と枯れ葉が頬に触れた。

 アリムは目を閉じた。

 そして、ほんの少し目を開く。

 水気もなく固くなった土が見えた。

 視線をあげていくと、枯れゆく森が間近にあった。

 木々が痩せ細り、葉はすでになくなりつつある。

 冬に街に出たとき、枯れる木を知ってこう思った。

 ――死ぬ直前の人間のようだと。

「ぼくは……母を二度、死なせたことになる……」

 けれど……けれど今度こそ。

 今度こそ……本当に。

「お母さん……」


 ありがとう

 ……さようなら


 森が、消え去った。  ちりとなり、風に吹かれて消え去った。

 そして、変わらず森の小屋の周辺に、

 アリムを待つ精霊たちがいた。

 固い、何かに怯えるような表情をして。


 アリムは彼らのもとへ行き、ふわりと微笑んだ。


「初めまして……僕のきょうだい――」


 精霊たちの表情が、一斉に輝いた。

 アリムはそれを見て思った。

「光なんて、ここにあるんだ……」

 視界がにじんだ。

 数日前と違って、嫌だとはまったく思わない雫が、ぽろりと頬を伝っていく。

 剣を鞘におさめたアークが傍らまで歩いてきて、アリムの肩を強く抱く。

「そうだ……お前のきょうだいだ」

 アリムは泣き笑いの表情になって、うなずいた。


 もう、ひとりぼっちだなんて言わない。

 目の前に、嬉しそうに自分を見つめてくれる精霊たちがいる。自分はこんなにも、こんなにもたくさんのきょうだいがいたのだから――

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