第六章 其れは消えゆく幻―1

 水の奔流がアークを襲う。

 アークはそれを剣で切り裂いた。

 水さえも切り裂く剣筋――アークは一流の剣士で。

 けれどそのことを、後悔することもある。


 アリムの母親の姿をした妖精は、憎悪と殺意の視線でもって、ただひたすらアークを狙う。

 思うがままに操られる川の水が、まるで実体を持つかのように縄のように青年を取り巻いた。

「……っ!」

 強く体を圧迫されて、一瞬息がとまりそうになる。

 縄はアークの首さえも締め上げようとした。

 アークは――

 剣を持っていない左手で、引きちぎるように水の縄を解いた。

 首の皮まで傷つけることを厭わずに――


「もう……お前に血を触れさせることを怖がる必要は……ないからな……」

 アークは寂しく囁く。

 水の奔流は隙もなく次々とアークを襲う。

 アークは口をつぐんでいることに必死になった。――妖精が発生した水は、毒だ。絶対に飲んではいけない。

 水の勢いは人間ひとり軽く吹き飛ばす。

 アークは打ち飛ばされ、地面に叩きつけられた。

(ぐ……っ)

 うめき声を口の中でとどめ、二度三度と叩きつけられる水の勢いをこらえる。

 全身に鈍い痛み。

 ――けれどこんな痛みくらい、今までに数え切れないほど味わってきた。

(この程度……)

 剣を地面に突き刺し、それにしがみつくようにしてアークは水に負けずに立ち上がる。

 目がひりひりと痛かった。水が目に入ったらしい。

 こりゃあ戦闘が終わったら当分失明だな、と彼は思ってにやりと自嘲気味に唇の端をあげた。

 ただし。

 気力を保っている間だけは――この程度の毒の効果を押し留めておく自信がある。

 立ち上がったアークは、剣を地面に突き刺したまま水を叩きつけられることに耐え続け、目を閉じて、どうやって戦うかを思案した。

 相手の姿が見えない今でさえ……全身を刺すような殺意の視線を感じる。


 コロセ

 コロセ

 ――死んでしまえ!


 それは、何に対する憎悪?

(妖精になってしまった精霊に、心はない――)

 否、

(心は、ある……殺意が、あるのだから)

 ならば。

 殺意の原因は、なんだ?


 妖精と戦ったことは一度や二度ではない。

 それでも、毎回不思議だった。

(妖精は――)

 いったい、何を憎む?


 コロセ

 コロセ

 ――死んでしまえ!


(ああ――)

 どくん、どくんと自分の脈動を感じ、アークは思い至った。

 自分の中に流れる――赤い血の存在。

 どくん、どくんと。

 止まることのないその脈動。

 ――精霊たちにとって、人間の体のもっとも恐ろしい部分。

(だからか?)

 アークは目を開いた。

 相手の姿を見たくて。

(だから憎むか?)

 ――血の流れる存在を、憎むか?

 そんなこと――

(今までもずっと思って……出なかった問い)

 出なかった答え。

 水流の先に、うっすらと相手の姿が見える。

 妖精の姿が見える。

 自分を殺そうとしている存在。しかしアークは、それを“敵”と呼びたくなかった。

(――敵じゃない……)

 けれど、それに対してしてやれることはたったひとつ――


 剣を地面に突き刺したまま耐えるアークの首を、再び実体のある水が締め上げようとする。

 アークは再び、手で引きちぎった。

 自分の指先が、自分の首を引っかいた血で濡れるのも構わずに。

 幸か不幸か、その血は妖精自身の水が洗い流してくれる――

 実体のある太い水縄が、今度は全身を締め上げてきた。

(………っ)

 剣で斬るしかない。けれど剣を地面から抜けば再び地面に叩きつけられるだけだ。

 この場を――どう切り抜ける?

 アークが圧迫感で体が爆発しそうな思いに必死にこらえていた、そのとき。


 ひゅんっ

 風が吹きぬけた。

 ひゅんっ ひゅんっ

 大量の風が。否、風の刃が。

 まるでアークを締め上げる水綱を切り裂くように。

 アークは目を見張った。


風精アネモス……?)


 決して妖精には近づかないようにしながらも、妖精を囲むようにたくさんの風精たちがあたりを浮遊している。

 たくさんの風精たちの感情が、アークの心に飛び込んできた。


 ――こんなところで負けないで!

 ――森が壊れてしまう!

 ――こんなところで負けないで!

 ――あなたは、私たちの心――


(……そうだった、な……っ)

 脳裏に茶色の髪、茶色の瞳をした少年の、幼さの残る笑顔が思い浮かんだ。

(こんなところで時間取られてる――場合じゃねえんだ!)

 アークはきっとまなざしを鋭くする。

 妖精へと向けて――


 コロセ

 コロセ

 ――死んでしまえ!


(悪いな……)

 剣を地面から抜きさると同時、思い切り下から切り上げて、水を裂き。

(……死んでやるわけにゃ、いかねーんだ)

 まだまだ、やらなくてはならないことがあるから。

 そしてアークは、裂いた水のその中央をまっすぐ駆けた。

 妖精は再び真正面から水流を放ってくる。

 アークは放たれるそばから水を斬った。

 次から次へと、斬って斬って斬り続けた。

 それは精神力、体力ともに大量に使うわざ。けれど構っていられない。

 斬って斬って斬り続けて――そして裂いた中央を走り続ける。

 妖精が一瞬、疲れたのか動きをとめた。

 その一瞬で――充分だ。

 アークは……剣を振りかざした。

 川岸をとんと軽く蹴り、飛び上がりながら――

 しかし次の瞬間に飛び込んできた声に、アークの剣筋が乱れた。


 ――“森の刻が動き出した”。


(………っ!!)

 アークのその一瞬を逃さず、妖精はアークに向かって真正面から水流を放つ。

「………っ!」

 アークはそれを斬り裂いた。

 さん

 軽い音がして水が裂かれ、アークはそのまま川に落ちる。


 ――“森の刻は、もう止まらない”。


(誰だ……!!)

 心の中で叫びながら、アークは周囲を見渡した。

 あれほどたくさんいた風精の気配さえ消えていて、一瞬心臓が凍りついた。

 ――風精たちはどこへ行った?


 ――“安心するがいい。遠くへやっただけのこと……”


 すべてを見透かすように、『声』は言う。

(そんな……言葉を、信用できる、か……!)

 川の水がすべてまるで氷になったかのように強く、アークの体を固く締め上げてきた。

 アークは呼吸困難に陥って、口を開けてしまった。

 その瞬間に――妖精の悦びの笑みが見え、

 そして水が顔に――

 アークは目を閉じ、息が止まるのを覚悟で口を閉じる。

 どうしようもない苦しみが彼を襲った。息ができない。息ができない。しかし水は絶え間なく上から降ってきて、川は固く凍ったまま。

(死んで……たまる、か……っ)

 アークは凍った川から脱け出そうと、全力を引き絞った。

 その瞬間に――

 彼の胸元から暖かい光が漏れた。

 ――彼が首にかざった首飾り、その中央の石から。


 川の氷が溶けた。


 青年の身が自由になった。


 アークは川に浸かって重くなった剣を思い切り振り上げ、上から降ってくる雨のような水を切り裂いた。

 妖精の動きが一瞬止まる。

 再び、そう、一瞬でいい――

 アークは川から飛び上がり、岸にあがる。

 そして、再度岸辺から飛んだ。


 川面に浮かぶ、妖精に向かって――

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