第四章 其れは憤りという名の―4

 アークは暖炉の前に座り込んだ。こうこうと燃える赤い炎が、青年の琥珀色の瞳を不思議な色に変える。

「……お前……」

 やがて囁かれた声は、風のように優しい、不思議な旋律。

「ごめんな。少しの間気配抑えていてくれるか……?」

 青年は、炎だけを見つめていた。穏やかな瞳で。

 炎が、ゆらりと揺らめいた、気がした。

 同時に、部屋の空気がどことなく変わった。言葉では言い表せない、不思議な変化。

 呆然とその様子を見つめるアリムの背後で、トリバーが少しふてくされたように舌打ちする。

 アークは炎に向かって微笑した。

「ありがとう」

 ――アリムの鼓動が、跳ねた。

 その優しい横顔に、ひどく心が惹かれた。あの意味の分からない高揚感。なのになぜか感じる、安心感。

 ――そうだ。

(お母さんが傍にいてくれたときと……同じ……)

 琥珀色の瞳の動きから目を離せずにいると、アークは振り向いて「お前もお礼言えよ」と友人に言った。

「……感謝してるよ」

 トリバーはむすっとしたまま、それでもどこかほっとしたように、座る位置を暖炉近くにまで移す。

 アークはもう一度暖炉に向き直り、

「悪いな、あいつ愛想悪いけどあれでけっこうちゃんと感謝してるからさー。許してやって」

「余計なこと言うな!」

 トリバーが真っ赤になって声をあげる。

 アークはあははと楽しそうに笑った。

「……すごいもんだね、あの子」

 いつの間にかアリムの傍らに来ていた伯母が、小さく感嘆の声をこぼす。

「ふつう、精霊は人間のいうことは聞かないって言われてるんだ。自主的に人間の手伝いをしてくれる子もいるけど――」

 例えば、伯母の家で薪割りをしてくれた地精のように。

 アリムも協会で学んだ。地精の場合は比較的人と関わりたがるらしい。けれど他の――とりわけ火精は、炎そのままに気性が荒く、なかなか言うことを聞かない。聞かないと……言われている。

「愛されているんだね。あの子、精霊に……」

 ――精霊に愛される――

「………」

 急に胸のあたりが苦しくなって、アリムは表情をゆがめた。ぎゅっと胸の上の服をつかむ、そんな少年の仕種にまっさきに気づいたのは、横にいた伯母ではなく琥珀の瞳の青年だった。

「アリム。俺は単に精霊とのつきあいが長いだけだからな?」

 見透かしたような言葉……

 目を伏せて、小さくアリムはうなずいた。

「そう言えばあんたたち、何歳だい?」

 サラダを盛った皿をテーブルに運びながら、エウティスは青年たちに問う。

「そっちが二十一ー」

 と、なぜかアークはトリバーを指して言ってから、

「……で、あれ? 俺何歳だっけ?」

「……十九だろうが。いい加減覚えろ」

 本を開いたトリバーは友人を見向きもせずに答える。

「お前が覚えてるからいいじゃん」

「どういう理屈だそれは……」

「十九? おやまあ、あんたもずいぶん若く見えるねえ」

「おお、おばさんいい目してる! 俺ってば十歳くらいは若く見えるだろ?」

 ――九歳?

 おそらくその場の全員が思ったが、誰もつっこまなかった。

(今さらだけど……)

 ――何か、変わった人だ。

 きっぱり“変人”という言葉を思い浮かべられないのは、アリムの性格というやつである。

「ねーおばさん。今夜泊まってってもいいの?」

 アークはいっそ見事なまでに馴れ馴れしく――もとい、気さくに伯母に尋ねる。

 元々世話好きの伯母は、それほど彼らに悪感情も持っていないせいか、「いいよ。空家よりはマシだろう」とあっさりうなずいた。

 この家は、現在伯母がひとりで住んでいるが、元々は親戚筋の一家が住んでいた家らしい。別の町へ引っ越してこの家がいらなくなるということで、伯母と――その弟、つまりアリムの父がそのまま譲りうけた。

 そのために、この家は前の住人たちに合わせて部屋が複数ある。アリムに加えてアークとトリバーを泊めるくらいはわけない。

 しかし、アークは嬉しそうにうなずいて、

「ありがとーおばさん。じゃ、今夜こいつあずかっててね」

 と隣で本を読む友人を指差した。

 トリバーが不愉快そうに顔をしかめたのは、まるで自分が世話を焼かれているかのような言い方をされたせいだろうが――

「え? アークさんは……」

「俺、今夜もお仕事。泊まらなくてもだいじょーぶ」

「お仕事……?」

「また呼ばれちまって。あ、でも朝には帰ってくると思うから、めし食わせてもらってもいい?」

 ものすごいことを言う来客だ。

 しかし、その琥珀色の瞳のあまりに子供っぽい輝きに、伯母もアリムも逆らえるわけがなかった。

「分かったよ。あいにくと、あんたのそのおーきな食欲を満たせる量を用意できるか知らないよ?」

 軽口を叩きながら、伯母はテーブルにオードブルを並べ終えた。

 うまそー! とアークがはしゃぐ。

 本当に子供のようだ。

「なあなあトリバー、この豆のスープ! このとろみがいいんだって……! つーか本読むのやめてさっさと食え」

「うるさい。お前が食べ始めるのが早すぎるんだ」

 しぶしぶと本を閉じる緑の髪の青年。

 ――どこまでも微笑ましい人たち。

(友達……か)

 アリムは無言で、二人の来客の前のカップにお茶を注ぐ。

 一通りの食事の準備が終わった、そう思ったとき、唐突にアークはアリムの腕を引っ張った。

「ほい! お前は俺の隣なー」

 強引に隣に座らされ、別の位置に置いたアリムの分の皿をわざわざこちらに移動させる。

「あ、あの、ちょっと……」

 アリムは慌てた。――実を言うと、“隣に誰かいる”状態で食事を取ったことが、今までなかった。食事をするときはひとりきりか、母か伯母が――もしくはその二人が相手で、そうなれば自然とテーブルを囲むか、向かい合うか。

「隣同士に座るの、何か俺好きだから」

 アークは訳の分からないことをのたまった。

「……おかげで俺はいつも強制的に席が決まるんだが……なぜお前は他人の迷惑を考えないんだ……」

 傍にいたくもないのに、などとぼそりとトリバーがぼやいていたりもして。

 伯母は向かい側に座って、楽しそうに笑う。

 隣。

 すぐ隣に、たしかな人の気配がする。

 食事をする、そんな無防備な時間に、こんな近くに人がいる。

 ――母親以外の人間が。

「………」

 暖炉がぽかぽかあたたかかった。

 自分が淹れたばかりのお茶が、ゆらゆらと白い湯気を立てていた。


 何だか、泣きたいくらい胸が熱くなった。


「ほらほらアリム、こんなうまいもん、ちゃんと食べないと人生ひとつ損するぞー」

 どこまでもノリの軽い青年の、優しい手がいつの間にかアリムの肩に乗っている。

 いたわるような……あたたかい手だった。

 何かを、彼に言いたい気がする。

 けれど、気持ちをうまく表現できる言葉が見つからなくて、アリムはもどかしい気持ちを抱えた。

 手が止まってしまっている少年にアークがほれほれと強引に食べさせようとしたおかげで、ようやく我に返った。ぽそりぽそりと口に入れたいつもの伯母の料理が、いつも以上に美味しい。

 何て……言えばいいんだろう。

 食事が終わるまで悩み続けたアリムの肩を、食事が終わるなりアークはなぜか強く抱きしめて。

 ――お前の気配も、気持ちいいな。と言った。

 目を閉じて、まるで夢を見ているかのような表情……

 けれどその言葉の意味は、今のアリムには分かるはずもなく。

「そうしてると」

 と、伯母が肩を寄せ合う二人を見て笑った。

「仲のよすぎる兄弟みたいだねえ、あんたたち」

「―――」

 きょう……だい?

 顔立ちも、髪の色や瞳の色も、体型も、まったく似ていないのに?

 そう見える? と素直に嬉しそうな顔をしてくれる琥珀色の瞳。その横顔を見つめて、アリムはぽつりとつぶやいた。

「……兄弟……欲しかったな、ぼく……」

 それを聞いて、アークがふとこちらを見た。

 その瞳に何か言いたそうな光が見えた。

 けれど、結局一言もアリムに言うことなく――青年は、「それじゃ、片付けお手伝いお手伝いーっと」と気楽な調子で立ち上がった。

 暖炉の炎が、ぽうと揺れた。

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