第三章 其れは見えない悲しみ―7

 迷わず外へ出たトリバーの後を追おうと、慌ててアリムは置手紙を服の中にしまい、コートのフードをかぶって外へ出た。

 ぱしゃりと靴底が地面の水を踏むと同時、

 ふっ……と肌に不思議な感覚が触れた。

 雨ではない。

 驚いて立ち止まると、すぐ前でトリバーが片手をコートのポケットにつっこみ、もう片方の手をアリムに向かって掲げていた。

「――本当は雨に打たれろって言いたいところなんだが」

 その手を下ろし、トリバーは肩をすくめる。

「具合が悪そうだからな。森で妖精の川の水を飲んだんだって? よく死ななかったな」

 アリムは呆然と自分の両手を見下ろす。

 ――ぱち、ぱち、と体が水滴をはじいている。

 いや、体というよりは……体の表面にできた透明な膜が。

「これ……なんですか?」

 アリムは驚きのまま、目の前の青年を見上げる。

 トリバーは眉をしかめて――アリムに向けていた手で今度はまた自身の首筋をこすりながら口を開いた。

「……ああ、君は協会の関係者だったか?」

「か、関係者というか」

「まあいい。精霊術を見るのは初めてなんだな」

 その単語に再びアリムは唖然とする。

(……これが精霊術……?)

 アラギに「精霊術士になれ」と勧められているアリムだったが、実は「精霊術」というものに関して知識がなかった。

 精霊、と名がつくからには、精霊学でそのあたりを知ることができていいと思うのだけれど、なぜかほとんどその名が出てこないのだ。

 それどころか、精霊保護協会と精霊術士組合マギサ・エルガシアは、仲が悪いとさえ言われている。そのためなのかどうか、あえて口にする者もいないのだ。

 トリバーは構わずひとりで歩き出した。

 我に返り、アリムは足早に歩いて青年の隣に並んだ。

「アークさんも――」

 自分より遥かに歩くのが早いトリバーに、必死でついていきながら、「アークさんも……精霊術士、なんですか」

 思い描くのは、かすかに覚えている亜麻色の髪の青年。その、朗らかだけれど力強かった声。

 川の水を操る妖精を相手に、一歩も引かなかった彼。

「あいつ? あ――」

 トリバーはどこまでも面倒くさそうに言う。

「本人に聞いてくれ」

「………」

 いい加減な返事だが、「それもそうか」とアリムは思った。

 会えるのだから。その本人と。

 そう思うと、ひどく高揚する自分がいた。

 自分は、少し変だ――

 母や、精霊には少しばかり執着している自覚はあったけれど、それ以外の存在にこんなに惹かれるとは思わなかった。

 胸元、母のお守りの近くに感じる感触。この置手紙も。「そんなもの捨てろ」とにべもなく言うトリバーに、決してうなずけなかった。

 失うのが、怖い――と思った。

(命の……恩人だから?)

 そうなのかもしれない。

 でも、それだけじゃない。

 どうして? 分からない……

 原因がつかめなくて、だからとても気持ちが悪かった。不安で不安で仕方なくて――

「落ち着け」

 ふと、隣を歩く青年の声が聞こえた。

「すぐに会える。あんまり考えるな」

 まるで心を見透かしたように。

「―――」

 知らないうちに強く胸元をわしづかんでいた手から、すっと力がぬけた。

(すぐに会える)

 アリムは視線を上げた。

 狭い通りがまだ続いている。

 ……人から忘れられたかのような場所に、単調に降る雨がなんだかわびしい。

 トリバーはぶつぶつ呟いていた。

「まったく。どうしてあいつはこう、フォローが必要な行動ばっかとるんだ? しかもなんで俺が使われなきゃならないんだ?」

 できればこのまま何事もなく終わってほしかった、と苦々しげに。

「……ほらみろ、やっぱりこうなる――」

「え?」

 アリムがぽかんと声を上げるのと同時、

 トリバーは少年を抱きこんで横に跳んだ。

 視界を鋭く何かが横切った。あれは――

(縄……?)

 二度、三度とその縄らしきものに追われて緑の髪の青年は飛び退いていく。その腕に乱暴に体を抱えられて、アリムは目を回しそうになりながらも必死に耐えた。

 ばしゃあっ

 滑る地面に何とか着地して、トリバーが独り言のように呟いた。声音はひどく剣呑に。

「……隠れてないで出てきたらどうだ? うっとおしい」

 しん、とあたりが静まり返った。

 しかしそれも一瞬。

『……失礼、マギサ・ニクテリス』

 すっ……

 雨の中、不思議なほどに音を立てずに、目の前に人間が現れた。

 ――違う、下りてきた……?

 軽そうな布で顔さえも隠した、細身の人物。影のような装束の隙間から暗い色の目元だけがのぞく、男性か女性かさえよく分からない相手。

 誰――?

 正体不明の相手に震えるアリムから手を放し、トリバーが不機嫌そうに腕組みをする。

「一人だけしか出てこないとはいい度胸だな、マスカ・アネル。わざわざ時間稼ぎをよこして人数を集めて、いったい何の用だ」

『あなたが相手では……正々堂々と戦ったのでは分がありませんので、マギサ』

 布に隠された口から紡がれた言葉は、不思議に穏やかだった。

 トリバーは皮肉気に笑う。

「ずいぶん謙虚に出たものだな……それも戦うことを前提でか? 物騒な話だ」

『おとなしく言うことを聞いてはもらえないかと存じます』

「内容によるだろうさ」

 俺は無駄な労働はきらいでね――と心底いやそうな顔で。

「だがまあ、今回は論外だな。お前らの狙いはこいつか」

 こいつ、という言葉とともに、

 彼らの意識が、いっせいに自分に集まる。

 アリムの肌が震えた。

『……知っておられるようですね』

 装束の奥で、見えない唇が薄く笑った――気がした。

『ご理解――いただけますか』

「知るか。ただ――」

 トリバーの手が、アリムの肩に乗った。

 雨が、ふいに途切れて、

「あのバカを本気で怒らせることだけは、さすがに俺も避けたいからな……!」

 ごうっ!

 巻き起こった突風がマスカ・アネルを吹き飛ばし、建物の壁にたたきつけた。

 呆然とするアリムを、トリバーが再び腕に抱きこむ。間髪いれずにあの縄のようなものが襲ってきた。トリバーはそれを避けながら通りを走っていく。

 五人、とトリバーが呟くのが聞こえた。

 目の前を縄の残像が何度も走って、アリムは目を強くつぶった。 

 あれは自分を狙っていると――なぜか頭が悟って、体が震えていた。

 あれは誰? ぼくを狙っている?

 ――最初に店に来た大男を、緑の髪の青年は“協会の人間”と言った。協会の人間。協会の時間稼ぎ。

 ぼくが、協会に狙われて……いる?

 トリバーの靴が雨水を跳ね飛ばす音が聞こえる。何度も何度も耳障りな音がした――今日は何度も聞いた、何かがどこかに叩きつけられるような音。壁や建物が崩れるような音。

 自分を抱えたままの青年の足が、どこへ向かっているかアリムは知らない。何も考えず必死で彼の体にしがみついた。邪魔になってはいけない、おとなしくしていなければ――

 しかし、

『これ以上は……いかせません』

 その声は、最初に建物にたたきつけられたはずのマスカ・アネルのものだった。

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