第三章 其れは見えない悲しみ―6

 みしり、とひどく嫌な音がした。

 ひっ――と大男が情けない声を上げる。

 見た目の頑丈さの点で明らかに勝る手を、簡単に変な方向へ軽く曲げた緑の髪の青年は、もう片方の手で自分の首筋をかきながらなぜか苦々しそうに呟いた。

「……今日は厄日か……?」

「―――?」

 何が何だか分からずただ目の前の光景を見つめるアリムの前で、青年は男の手を放し――同時に膝を、男の腹に打ち込んだ。

 アリムは目を見張った。

 重そうな大男の体が、いとも簡単に入り口を越えて雨の中にたたき出される。

(風……?)

 蹴る力ではなかった。青年の膝と男の腹の間に、一瞬の風が生まれた、気がした。

「フロリデ!」

 いらいらと、青年は店の奥に振り返りざま怒鳴った。

「あんた何やらかした!」

「どーゆーイミだィっ!!」

 バン! と乱暴に店の奥の扉が開き、派手な女店主が顔を出す。

 緑の髪の青年は心底不愉快そうな顔のままたった今外に叩き出した男を示し、

 と吐き捨てた。「明らかな時間稼ぎだ――この店ごと狙われてる」

「アあ?」

 不審気に腕を組んだ女店主に、青年は再び「何やらかしたんだ」と訊いた。

「返答によっちゃ、即座に帰るぞ俺は」

「っンとにアテになんないねアンタは……そもそもアンタを狙って来るやつだって多いってぇのに、よくもまあ」

「これは協会だ。モグリとは言え今まで黙認されてきたこの店が今さら狙われる理由がない。それから」

 眠たそうな目をさらに細め、しきりに首筋をさすりながら続ける。「狙われるのは俺じゃない、あのバカのほうだ。訂正しろ」

「そうでもないだろ? 今日一番に来たあのマギサは」

「あれは例外中の例外だ。だいたいどうして人畜無害な俺が狙われなきゃならない? 俺はあんたやあのバカとは違う」

「……どの口で言うンだか」

 呆れ果てた様子で、女店主は肩をすくめる。「なンにしても、あたしは何もやってない。そもそもこの店ごとったって、今ンとこ何の気配もしてないじゃないサ? それにたいていのことなら回避できるだろうよ、これだけ精霊術具があって、アンタがいて、あたしがいて――」

 と確かめるように口に出し、ふと目を留める。

 アリムに。

「……あァボウヤ、巻きこんじまったのかい? ごめんねェ、うちの従業員がふがいなくて」

「どうしてそうなる……にしても」

 不機嫌そうな顔が、初めてアリムのほうを向いた。

「……さっきから何じろじろ見てるんだ」

 言われて、ようやくアリムは我に返った。さっきからずっと見つめていた――青年の、少し伸びて首の後ろでくくっている髪から慌てて目をそらし、

「あ、ええと、その、綺麗なみどりいろの髪が、み、みどりで」

「……言ってる意味が分からん」

 緑の髪なんぞ西に行けば珍しくない、と彼はぶっきらぼうに言った。つまり彼は西大陸出身なのだろうか。いや、今はそんなことよりも、

 ようやくチャンスをつかんだ。

 アリムは精一杯勇気を出して――勢いあまって青年の腕につかみかかりながら――声を上げた。

「――みどりのひとを捜していたんです!」

 返ってきた言葉はやはり一言。

「……だから、意味が分からん」


 ――森に住んでる――?

 アリムの自己紹介を聞き、青年は何かに思い当たったかのように目を細めた。

「ふうん。つまり君が例の――アークが言ってた子か」

 “アーク”。

 ようやくその名が現実として耳に聞こえて、アリムの心臓は高鳴った。

「なんだい。アークの知り合いだって?」

 女店主フロリデはカウンターに腰をかけて、興味深そうにアリムを見つめている。その視線がいたずらっぽくて、何だかいたたまれない気分になる。

 アリムが差し出したアークの置手紙。それを読んで、緑の髪の青年は不愉快そうに顔をゆがめた。

「……アホかあいつは……。誰がいつ“目立たない男”になったって? 人を勝手に目印代わりにしやがって……!」

 そのぼやきを聞いて、女店主が腹を抱えて笑い出す。

「さすがあの子だね……! 相変わらず自分は目立たないと思い込んでるのかい」

「馬鹿馬鹿しい。目立つも目立たないも、あいつは人前に出ないんだ。だから目立ちようがない――ああくそ腹が立つ」

 すべての原因はお前かこのバカ! と青年は少し伸びかけの緑の髪をかき乱す。

「――俺の読書の邪魔をしやがって!」

 今までで一番腹立たしそうな声だった。

 アリムは冷や汗をかいた。

「あ、あの、聞いてらっしゃらなかったんですか……?」

「あー。君の目印になるなんて話はな」

 青年は邪魔くさそうに置手紙を空中に放った。アリムは慌てて受け止めた。彼にとっては、まだそれは大切なものだ。

 置手紙を抱きしめる少年を見やり、その怯えた表情に気づいたか――緑の髪の青年は、ふと苦笑した。

「……別に君のせいじゃない。悪いのは全部あのバカだから。……俺はトリバー。まあ、よろしく」


「いつまで俺を無視しているつもりだ……」

 雨の音にまぎれて、うなるような声が聞こえた。

 さきほど外に叩き出された男の存在を思い出し、アリムはびくっと振り向いた。

 大男は立ち上がっていた。右手は相変わらず変な方向に折れ曲がっていて、見ているだけで生理的嫌悪感がアリムを襲う。思わず口を押さえる少年の横で――しかし他の面々は、男を完全に無視したままだった。

 緑の髪のトリバーはぶつぶつ言っていた。

「……雨は好かないんだよ。本がしける」

 言いながらカウンターに戻っていき、そこに置いてあった本に手をかける。しけっていないかたしかめているように見えた。

 そのカウンターの上に座っていた女店主は大あくびをしてから、

「――トリバー。うるさい男はモテないよ」

「別にモテたかない」

「もったいないねェ。あんた黙ってれば一応二枚目なンだよ。……ああこれでアークもうちで働いてくれたら女性客がもっと拾えるンだけど」

 嘆くように腕を広げる店主の横で、トリバーはカウンターの下にしまってあったブーツを取り出し履き替える。そしてコートを手に取った。

「ちょっと。アークに言っておいておくれよ。うちで働くならたらふくご飯を食べさせてあげるからって」

「……そのついでに結婚を迫るのをやめれば、少しはあいつの考えも変わるんじゃないか」

 コートをふわりとはおる。

「無視するんじゃねえ!!」

 外では男が激昂していた。

 トリバーは、不機嫌そうな顔をようやく男に向けた。

「黙れ時間稼ぎ。時間稼ぎは時間稼ぎらしく、仕事が終わったらさっさと消えろ。仕方ないから乗せられてやる」

「乗せられてやるってアンタ」

 なンでわざわざ、と呆れたような声を上げる女店主に、最後に本を取り上げコートの内にしまいながら、

「――この店じゃなかった」

 と、緑の髪の青年は言った。

 フロリデは首をかしげる。そんな彼女に説明することもなく、

「アリム」

 トリバーは初めて、アリムを呼んだ。

「は、はいっ!」

「外に出るぞ」

「え、あ、」

「……アークのところへ行く」

 仕事はどうすンだい! と声を上げる店主を一瞥して「そんな場合じゃない」と吐き捨てると、青年はまっすぐ出入り口へと向かった。傍らを素通りされ、アリムは慌てて、口をぱくぱくさせている女店主にぺこりと頭を下げてから、トリバーの背を追う。

 胸元で、しっかりと置手紙を抱きしめながら。

 トリバーは戸口でいったん立ち止まった。

 雨に触れるか触れないかの位置で。

 そして長身の彼よりさらに背の高い大男を見上げて、

「いつまでいる気だ、目障りな」

「こここ、この……っ」

 男は無事な片手をわななかせる。顔が真っ赤になっていた。アリムは少し、彼が気の毒になってきた。

 面倒くさいと口癖のように言うわりに、トリバーは饒舌だった。

 その上、

「三秒待ってやるから消えろ。三、二、一、遅い」

「トリバーさんっ!? 気が短すぎです――!!」

 悲鳴じみた声で止めようとしたアリムなど完全に無視したまま、緑の髪の青年は片腕で空気を薙いだ。

 再び起きた不思議な風の渦が――

 目の前の男をまともに吹き飛ばして――

 アリムは頭を抱えていた。心の中では先刻のトリバー自身の言葉が巡っていた。

(じ、じんちくむがいって、どんな意味だったっけ……)

 苦悩するアリムに、まるでその心中を読み取ったかのようにトリバーがぼそりと言った。

「……どれだけ面倒くさくても、これぐらいの行動力がないと、あのバカにはついていけないからな。アリム」

「こ、こうどうりょく、ですか……」

「深く考えるな」

 背後では女店主が腹を抱えて笑っている気配がした。

 そしてようやくトリバーが、店の外へと一歩踏み出した。

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