第三章 其れは見えない悲しみ―5
「いらっしゃい」
女店主に促されておそるおそる“ゼルトザム・フェー”店内に足を踏み入れると、例の気だるそうで面倒くさそうな声がそう迎えてくれた。
若い男性の声だ。
アリムが何か言うより早く、店主だという女性が不愉快そうな声を上げる。
「アンタ、その愛想のない挨拶どうにかなンないのかい」
「あんたの無駄な騒がしさと合わせてちょうどいいだろ」
どうやらその声の主は、態度を改めようという気がないらしい。
ぷんすかと肩を怒らせている女店主の横に立ち、アリムは店内を見回した。
店内は寒かった。……ドアがないから当たり前だ。
決して広いとは言えない。そして薄暗い。
暖を取るための設備はなさそうだった。ゼーレでは暖炉が備えてあるのが当たり前のはずなのだが。
それでも、外よりはましではある。
店内を照らしているのは、四隅にかけられたランプの灯りだけらしい――アリムはランプに目をやって、そのやさしいオレンジ色の光にふっと体の力が抜けるのを感じた。
狭い場所に、見渡す限りものが並んでいる。天井に吊り下げられているものもある。石やら怪しい液体の入った瓶やら不思議な文様のタペストリやら、壷やガラス製品もある。何だかガラクタ置き場のようだと、少年アリムは思う。
それでも、とても興味深い場所には違いなかった。
きょろきょろと見渡すアリムに気づいたか、女店主が少年を見てふわりと笑った。
「ゆっくり見ておいでよ。説明が必要なら、あそこにいるのに聞いてくれればいいからね」
示された先、店の奥のカウンター。
足りない灯りで暗いそこをよく見て、ようやくもう一人の人物を見つける。
……足だけ。
カウンターの上に、両足が放り出されている。本人の体は向こう側にあって見えないのだ。いったいどういう姿勢でいるのか――
(え――ええと……)
固まったアリムを、なぜか“怯えている”と女店主は判断したらしい。
「心配ないよ。愛想はこの街で一番ないヤツだけど、まあ、知識はあるからね。なかったらそもそも雇ってないからサ。それぐらいしかとりえはない甲斐性のない男だけど、そんなに怯えなくても噛み付きゃしないから」
「俺はケダモノか」
「ケダモノにもなりそこなってンだろ。この年中やる気なし男」
「人の勝手だ」
店主のあんまりな言いようにも、変わらないかったるい返事。
もうそれ以上言うことはなくなったらしい。「なンて従業員だい」とぶつぶつ言いながら、女店主はさっさと店の奥の扉の向こうに消えてしまった。
店内にひとり残され、アリムはじっとカウンターの足を見る。
どうしよう。
靴の裏を見つめて、少年は真剣に悩んだ。
さっきから聞こえていた“面倒くさそうな”声の主は、その足に――というか、足の本体に――違いないだろうが……
こっそりと、懐にしまっていたあの置手紙を服の上から押さえてみる。自分の目的はなんだった?
この手紙にあったのは、“みどりいろの髪の男”。
(……緑の、髪の、人……?)
……どうしよう。
足しか見えていない人間には、こうも近づきにくいものか。アリムはどうでもいいことに深く頭を悩ませた。
答えをさがしたかったのかどうか、意味もなく視線を店内に巡らせて――
ふと、壁に吊り下げられた首飾りのひとつに目がとまった。
……あの、黒い石は……
ふらりと足が引きつけられた。首飾りの先にくくりつけられた黒い石――あれは、置手紙の青年が森の家を守るために置いていってくれたものに似ている……
近づいてみると、説明書きの紙が傍らにある。
“
――魔よけになる、と書かれている。
苦労してその文面を読み、アリムの顔はほころんだ。本当にあれは守護石だったのだ。それがとても嬉しくて。
「お客さん」
ふと、声をかけられて、アリムはびくっと緊張した。
少年のそんな様子に気づいているのかいないのか、カウンターから聞こえる気だるい声は、初めてまともにアリムに向かってしゃべりかけてくる。
「……もっと中に入ってくれば。濡れる」
「え――」
しばらく考えてから、ようやく気づいた。
店内に湿気がこもってきていた。
慌てて振り向くと、ぶち抜かれたドアの向こうに、いつの間にか降り出していた雨が見えた。
“もっと中に来い”と声をかけてくれた親切さ――だろうか?――を意外に思いながら、アリムはつい口を開く。
「あの、ドア、……塞がなくていいんですか……」
商品が濡れるかも、とおそるおそる言ってみると、
「んー……? 入り口付近には濡れてもいいものしか置いてない。今日は風がないから、降りこんでくる可能性も低いしな……」
そこのドア、しょっちゅう壊れるから、とそこまで言ってカウンターからの声は途切れた。
……どうしてしょっちゅう壊れているのかは、聞くのが怖い。
アリムはドアの外を見つめた。
さあさあと降る雨。音こそ軽いが、水量は多そうだ。
森で過ごす時間の多い彼は、雨を“避けよう”という気持ちがあまりなかった。天を覆い隠すほどに茂る木々の葉がたいていの雨を防いでしまうから、大雨の経験がほとんどないのだ。
風さえなければ、雨はフードで防げる。
そして今日は風がない。
そう思ってから――ふと気づく。思わずカウンターに振り返った。
「風……風、そう言えばさっき、風が、」
――風の渦が、男たちを吹き飛ばしたのではなかったか――?
反応はなかった。
「………」
アリムは再び服の中の手紙を押さえる。
紙の感触は、それだけで自分を勇気づけてくれる気がした。
話しかけなきゃ。そう思って、今度こそカウンターに近づこうとそちらへ一歩足を踏み出す――
と、
「いやあ、雨に降られちまったなあオイ」
唐突に、背後から声がした。「悪ぃな、ちっと雨宿りさせてくれや」
ぼん、と肩を叩かれて、アリムはまたもや硬直した。
いつの間に人が――
そろそろと視線を背後へ巡らせる。まず自分の肩を押さえる手が見えた。ごつごつの大きな手。そこからつながる太い腕、がっちりした肩、大きく笑みを形作った大男の顔……
「ボーズ。お前さんも雨宿りかあ?」
笑顔ははっきりとアリムに向いていた。
びくりとアリムは震える。けれど肩が動かない。置かれた手が――強い。
「あ、あの、手を放し――」
「いやあこんな店でこんな子供を見るとは思わなかったぜ。ボーズ、いったい何をしにここに来てんだ?」
「あの――」
「いかんなあ。ここは協会の保護を受けてない、いわゆる
「放し、放してくださ、」
「ん? ん? 何だぁ怯えるこたぁねえぞ? 帰り道は俺が送ってやるからな、こんな店には近づくな?」
「――ふん」
――その気配は、唐突に傍らに湧いた。
「つまり、今度は協会からか。一番面倒くさいな」
顔を上げたのはアリムも大男もほぼ同時――
アリムの肩から、圧迫感が消えた。大男の手が離れた。その太い手首を、軽い仕種でつかみ上げている新たな手がある。
「とりあえず今日は立て続けで腹が立ってるんだ。腕を折るくらいで勘弁してやるから、とっとと帰れ」
淡々と言葉を紡ぐは、背の高い青年。
やわらかなオレンジ色の灯火に、照らし出された髪は日暮れの森の色……
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