第三章 其れは見えない悲しみ―4
アリムと別れてから、アラギは裏通りをひとりのんびりと進んでいた。
「やな天気だねえ……」
曇天の空に顔を向けたまま歩いている。狭い道では危なっかしいことこの上なかったが、彼は慣れたように足を進め、途中一度も障害物に当たることはなかった。
細い目をもっと細くしながら、ぶつぶつと独り言を続ける。
「何だかね、ただ雨のきざしって感じがしないね。これは何か起こる予兆だよ。うん」
雨の精霊さんがごきげんななめだ――
呟き、ふと視線を下ろす。
ついでに立ち止まり、くすりと笑った。
「――君なら、精霊さんのごきげんをうかがえるんじゃないのかい?」
「うかがったところでしょうがないだろ」
頭上から声が降ってきた。若い青年の。
「精霊の感情は人間にはどうしようもない。任せるだけだ」
その声の主は、屋根の上にいるはずだった。その人物には移動するのにしばしば家々の屋根を渡るくせがあるのを、アラギは知っている。
「どうかしようなんて思っちゃいない」
アラギは頭上を仰ぎ見る。
「ただ、その理由を知りたいだけさ」
「どうして?」
「そりゃ、何か起こりそうだと思ったら事前に対策を練りたくもなるだろう?」
アラギの目には、青年の姿は映らなかった。たくみにもアラギの視界に入らない位置をとっているらしい。――彼は普段から、アラギに友好的ではない。
ただ、風を感じる。
……かの青年の周囲に必ず在る、いつもの風の気配。
「対策、ね」
落ちてくる青年の呟き。
それから、彼は言った。
「――助けてくれって言ってる」
「助ける?」
「混乱してる。痛そうで俺にはそれ以上聞けない。――あんた知ってるんじゃないのか?」
「………」
相変わらず勘がいい。アラギは少し笑った。
それから――ふと、声のトーンを落として、呪文のように呟く。静かな通りに、声は不気味に響いた。
「……“常若の森”に、侵入者があった。五日前の朝方」
「そんなことだろうとは思った」
返ってくる声は、冷静さをよそおいながらもどこか吐き捨てるようだ。
アラギはその変化に気づかないかのように、ひょうひょうと言葉をつなげる。
「川の主が
何もない空中を見つめる目を、おかしげに細めて。
「協会は、この件に関して動かないことを決めた」
告げた言葉に、絶句する気配が返ってくる。
「――ばかな」
ようやく青年の口からこぼれた声は、信じられないという不信感と……憤りが隠れていた。
「事実、協会はまだ森の調査に向かっていないよ。ハイマが発生したのに精霊保護教会が見て見ぬふりとは、前代未聞だね」
「―――」
「あの森もおかしくなったものだねえ」
アラギはひょい、と肩をすくめた。「ま、わたしが知っているのはこれくらいさ」
「それ以上教えろって言ったら?」
「ははあ。ところでついさっき君のお友達のところへ行ったら、追い出されてしまったんだけど」
「……ああ。あんたの腕の包帯はそのせいか」
呆れたような声が返ってきた。「あんたもいー加減バカだなあ。あいつが
「それは困るなあ。わたしは彼の才能にほれ込んでいるんだが」
「あー。だからってあいつの説得を交換条件に出されたんじゃ、おれにもどーしよーもないの。ったく――仕方ない、自分で調べるさ」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
頭上の、声のするほうに顔を向けて、アラギはにこやかに言葉を続けた。
「交換条件はもうひとつあるんだぞ? わたしが惚れ込んでいる才能は、今目の前にもいるわけだからして――」
「はい却下。とゆーわけで俺はもう行きます。んじゃ」
「まてまてまて。ちょっとは考えてくれよ」
「考えるまでもないだろ。あんたおかしいよ」
顔をしかめるような気配があった。“そもそも”――
「――そもそも、オレは精霊術士じゃない」
「………」
アラギは唇の端に笑みを刻む。この表情はきっと、彼には見えていないことだろう――
ふわ、と風が舞った。
冬の風とはまるで違う爽やかな風を連れた青年を、こちらに向かせることに成功する日は、まだ少し遠いようだ。
「気をつけることだね」
立ち去ろうとする青年に、届くか届かないかの声で呟く。
――脳裏には、先刻別れたばかりの幼い少年の姿――
「何かが、狂っている……」
呟きに応えるように……屋根の上から、声。
――狂わせているのは、誰だ?
風がやんだ。
その直後に、彼の体を冷たすぎる冬の冷気が襲う。
アラギはぶるりと震え、肩を縮めた。そんな彼の肩に、ぽつりとしずく。
雨――
「やれやれ、難儀な季節だ……」
天を軽く見上げてため息をついた彼は、しかしそのまま歩き出した。のんびりと、たったひとりで……
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