22
レギンはガーベラとマーガレットに両側から支えられ、アイリスの元へ歩き出していた。
二人の天使の戦場はすさまじい有様だった。
緑のない山の地表には深い裂け目がいくつもできているだけでなく、平らにならされている場所もある。
火薬の匂いや魔術の気配も無く、ここまで徹底的に破壊されているのは不気味と言うほかなかった。
「ガーベラ! マーガレット!」
背後から子供たちの声がして、ぼろぼろになった天使の少年少女たちが走ってきた。
彼らはあたりの惨状を目の当たりにして言葉を失っていた。
「グロリオーサを倒したのか!」少年の一人が言った。「信じられない!」
「そっちは怪我はないか?」ガーベラはレギンを支えたまま言った。
「大丈夫。完璧な操作だったから」少女の一人が誇らしげに首元の蛇の首輪に触れた。
彼らは次々にレギンを褒めたたえ、労う言葉をかけたが、レギンに応える余裕はなかった。
大地から突き出した刃が見えてくる。
それは事切れたグロリオーサを背中から串刺しにして持ち上げていた。
アイリスはそれを正面からじっと見上げている。
マーガレットが反対の肩を持ちながら、レギンの顔を覗き込んだ。「血が止まっていません」
「俺は大丈夫だ」レギンはうわ言のように言った。「お前たちこそ、体が痛むようなことは――」
「その質問はすでに三回目です」マーガレットはレギンの目尻からこぼれる血をぬぐった。「あなたのほうが、どう見ても異常ですよ。大丈夫なんですか」
アイリスがグロリオーサに近づくと、大地から伸びる刃がうごめいた。
先端が二つに割れ、ハサミを開くようにして、グロリオーサの体を胴体の中心から二つに両断した。
アイリスはグロリオーサの血を全身に浴び、恍惚の表情を浮かべた。
グロリオーサの上半身が落下し、アイリスはそれを踏みつけ、叩き潰した。
「レギン」ガーベラが唖然として言った。「趣味が悪すぎるぞ」
「俺じゃない」
アイリスの体にかかった血は、次々に光へ姿を変えていった。
アイリスの破れかけの服が、純白のドレスへと変化していく。
柔らかな生地でできているその衣装は、袖や足元へ向かうにしたがってゆったりと広がっており、ところどころに見事な装飾が施されていた。
この世のものとは思えないほど立派な衣装だ。
アイリスが髪を撫でつけると、わずかに光が集まり、頭部には花をあしらった金属の髪飾りが現れた。
彼女の指先が躍るように動く。
何もない大地から植物の種子が芽吹き、瞬きの間に成長していく。
わずかな間にアイリスを中心として草原が広がっていき、色とりどりの鮮やかな花々が生まれていた。
中空を漂っているのは精霊たちの光だ。
アイリスは接近するレギンと天使の子供たちを見た。
アイリスの指先が動き精霊の光が走る。
それは矢の形をしていた。
レギンが咄嗟に手のひらをかざすと、矢は軌道をそれた。
後方で激しい爆音が響いた。
「アイリス!」「なにするんだ!」
ガーベラとマーガレットが非難するような声を上げた。
アイリスの体からは、何の情報も得られなくなっている。
五感全てが閉ざされていた。
レギンは、自分が誰とアイリスの主導権を奪い合っているかようやくわかった。
アイリスの体は、精霊たちの主ともいえるような上位の存在に乗っ取られかけている。
先ほど話しかけてきた「誰か」の正体が分かった。
アイリスを中心とした草花の成長は止まらず、レギンたちの足元まで広がっていた。
見事な花畑だったが、どの植物も、これまで見たことが無いものだった。
別の世界の植物のようだ。
アイリスの肌は白さを増していき、透明感を持っていた。
金色の髪は重力に逆らって持ち上がり、意思を持ったように空中を漂っていた。
「お、おい! どうするんだこれ!」ガーベラが悲鳴を上げた。
「アイリスの力が暴走しているんです」マーガレットが足元で開いた瑞々しい花々を見て言った。「このままでは……」
レギンはガーベラとマーガレットから離れ、ふらつく足に活を入れて立った。
「封印をかけ直す」
「できるのか!?」
レギンは操術によるつながりを辿ったが、向こうの支配率のほうが上回っていることを悟った。
「操術は近ければ近いほど力を発揮できる。俺は特にそうだ」レギンは目と鼻の下をぬぐった。手のひらにべったりと血がついていた。「アイリスに触れれば可能なはずだ」
「あれに!?」
「無茶だ! レギン!」
「死んじゃうよ!」
子供たちが悲鳴を上げる。
「離れていろ」
アイリスは無邪気に笑みを浮かべた。
精霊たちがはしゃぐように呼応し、レギンたちに殺到する。
レギンは「糸」を手繰り寄せた。
周囲の精霊の光はレギンたちにぶつかることなく逸れていく。
足元の花畑にぶつかると炸裂して破壊が巻き起こったが、花畑はすぐに成長し元通りになった。
アイリスはぺろりと唇を舐めると、両手を広げた。
精霊たちが集まり、巨大な球体を成した。
それは引き延ばされ槍のような形を成すと、レギンに向けて射出された。
操術で逸らそうとしたが、激しい眩暈に襲われ失敗した。
槍を受け止めたのはマーガレットの盾だった。
光の槍は金属音と共に弾かれ、斜め後方に飛んでいった。
「離れてろだって?」ガーベラは剣を抜いて叫んだ。「馬鹿野郎! ここまで来て! そんなふざけたことぬかすのか!」
ガーベラに応えるように子供たちは鋭い動きで武器を構え、レギンの前へ並んだ。
レギンは天使たちとともに一歩一歩進んでいった。
精霊の光は矢や槍や剣の形を成し、横殴りの雨のように次々に飛翔してくる。
ガーベラたちはそれを防ぎ、時には叩き落していった。
少年少女らには首輪があったが、レギンは一切操作できていなかった。
アイリスの攻撃の妨害に精一杯で、それどころではなかったのだ。
アイリスの首輪が外れかかっていることを、レギンは感じとっていた。
最初は戯れるようにしていたアイリスだったが、レギンたちの様子にしびれを切らしたのか、不機嫌そうに右手を掲げた。
頭上に風が集まり始める。
グロリオーサを叩き潰したあの槌が形成されようとしているのだ。
レギンはアイリスに干渉した。
暴風は形を成さず消えていく。
レギンは強烈な不快感に胃の中身をすべてぶちまけた。
アイリスは唸り声をあげると、左手を掲げた。
レギンたちの周囲の大地が大きく揺れて盛り上がり、周囲から巨大な刃がいくつも突き出してきた。
レギンは血を吐きながら言葉にならない声で叫んだ。
指先に力を入れ、握りこぶしを作る。
赤熱し始めた刃たちはボロボロと崩れ、ただの土くれへと戻っていく。
アイリスは目と鼻の先だ。
近づけば近づくほど、レギンの支配が取り戻されていくが、精霊たちの攻撃も勢いを増していった。
レギンの直上に光が集まり槍を成した。
振り下ろされる直前、ガーベラが飛び上がって切り払ったが、肩を切り裂かれて草原の上に転がった。
「兄さん!」マーガレットが叫んだ。
アイリスの元から鞭のように光の帯が伸び、先頭を歩くマーガレットの盾にぶつかった。
隙を突かれた彼女は大きく跳ね飛ばされてしまった。
それを機にして子供たちの防衛網が崩れていく。
傷を負い、吹き飛ばされ、次々と倒れてゆく。
レギンはアイリスの元まで僅か数歩に迫っていた。
「レギン!」ガーベラが肩を抑え、後方で叫んだ。
子供たちの最後の一人が倒れたところで、レギンの伸ばした右手の指先が、アイリスの額に触れた。
操術の力を発揮し、アイリスの心の深海へ潜り込んでいく。
アイリスの真名を知っているのだ。
支配できないはずがない。
レギンはそれだけを考えていた。
鍵にはすぐにたどり着いた。
一度解放したそれに触れ、再び鍵をかけ直すのは容易なことに思えた。
アイリスの表情が強張り、はっきりとした敵意の視線がレギンを貫いた。
突如、足元の草花が急成長を始めた。
それは太い蔦を成し、蛇の如くレギンの全身に巻き付いた。
胸部に圧迫感を感じた。
レギンは血と共に肺の中の空気を吐きだした。
胴と一緒に巻き付かれた左腕が、焼けるように熱くなる。
折れたようだ。
意識が落ちかけるが、レギンは死の淵にあって、冷静な自分に驚いていた。
自分の操っていたドールに、無残に殺される。
それは絶対に叶わないと思っていた、密かに望んでいた死に方だった。
これでラルゴは許してくれるだろうか。
エノーラは、また頭を撫でてくれるだろうか。
銃声がした。
気が付くとレギンはパルハインの寝室にいて、ラルゴとエノーラを撃ち殺していた。
パルハインは部屋の隅で横たわっており、フライメイのメイスでひき肉にされ続けている。
銃口から煙が立ち上る。
レギンは自分の手がひどく小さくなっていることに気づいた。
銃は重かったが、決して手放さなかった。
フライメイは、まだパルハインへメイスを振り下ろしている。
肉や骨を叩き潰す音はいつまでも消えなかった。
泣き声がして振り返ると、幼い娘がいた。
白い肌と金の髪は汚れている。
娘は膝を抱え、冷たい石の床の上にうずくまっていた。
今よりも随分と幼いアイリスだった。
レギンは周囲を見回した。
パルハインの寝室はいつの間にか薄暗い檻の中へと変貌しており、レギンは鉄格子の内側にいた。
ラルゴもエノーラも、メイスを振り下ろすフライメイもいなくなっていた。
アイリスは顔を上げ、レギンを見て言った。「いつもあんな夢を見ていたの?」
レギンは胸元を探ったが、タバコは無かった。
「そっちも大概だ」レギンは檻を眺めた。「こんなクソみたいな場所にいたのか」
「ひどい言い方」
アイリスは涙をぬぐって笑い、立ち上がった。
次の瞬間、アイリスの姿が、レギンも見慣れた現在のものに戻った。
二人は同じ目線だった。
「レギンって」アイリスはレギンの頬に触れた。「子供のころはかわいかったんだね」
「うるせえ」
レギンはアイリスのほっそりとした手を取った。
視界がずれる。
レギンの体は大きくなり、アイリスを見下ろしていた。
「嘘をついてた」
「えっ?」
「俺は、本当はアイリスに支配されてなんかいない。……スレイブじゃないんだ」
アイリスはきょとんとして、そして噴き出した。
涙を流して笑い、レギンを見上げた。「それはもう知ってるけど……、それで?」
「それだけだ」
アイリスは眉をひそめた。「他に何かないの」
「無い」
アイリスは飛び上がり、レギンの太い首元に抱き着いた。
レギンは逞しい腕でそれを受け止めた。
「あたしも主人はもう嫌」彼女は囁くように言った。「あたしたちは、もっと別のものになりたい」
「別ってなんだ」
「分かんない!」アイリスは声を上げ、レギンを強く抱きしめた。「だから一緒に探そうよ!」
しばらくの間、レギンは自分が笑みを浮かべていることに気づかなかった。
久々に心地よい気分だった。
「分かった」
「本当?」アイリスは泣くように笑顔を浮かべていた。「本当の本当に?」
意識が遠くなる。
夢から覚めるような気分だった。
山の向こうから陽の光が覗いている。
静かな夜明けだった。
レギンは花畑の上に仰向けに倒れていた。
腕の中には、白いドレスを着たアイリスがいる。
彼女は穏やかな寝息を立てていた。
レギンに傷は無く、痛みもなかった。
体中に血がこびりついてたが、出血は止まっており、折れたと思っていた左腕も無事だった。
頭痛も吐き気もない。
少し腹が減っているだけだった。
「レギン! 大丈夫ですか!」マーガレットが膝をつき、レギンに言った。
天使の子供たちは傷だらけでレギンを見下ろしていた。
レギンは自分だけ無傷なことを申し訳なく思った。
「そっちは大丈夫か」
「かすり傷だ」
ガーベラが笑って言った。
精霊術による治癒を行ったのか、血は止まっているようだった。
「やったなぁ、おい!」
レギンはアイリスを抱えるようにして体を起こした。
土と岩ばかりの荒れ果てた地表は、見渡す限り色とりどりの植物で埋め尽くされていた。
夜明けの陽が花畑を照らし始めている。
山肌を撫でる風が吹き、草花が揺れて音を立てた。
胸がすくような、美しい光景だった。
アイリスが意識を取り戻し、目をしばたたかせた。
天使の子供たちはそれを見て安堵のため息をつき、歓声を上げた。
アイリスはレギンの胸に抱かれていることに気づき、耳まで顔を赤くしたが、離れようとはしなかった。
「……ほんとの、ほんとに?」アイリスは掠れるような声で言った。
「しつこい」レギンは笑って答えた。
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