12:


 アイリスたちが入り込んだのは、使われなくなった古い地下道だった。

 ネズミや害虫がうようよいて、淀んだ空気が滞留している。

 天使たちは顔をしかめながら進んでいた。

 入り口付近には居た廃都フーアの住人達も、少し地下へ進むと姿が見えなくなった。


 先頭をフライメイが小走りで進み、次にアイリス、そして他の天使たちが遅れないようにと続いていた。


 足元には金属のレールが敷いてあるが、その下の木材は腐りきっていた。

 天井はアーチ状で高く、地上の戦いの余波か、振動が響くたびに砂ぼこりが落ちてきた。


 天使たちの手にはランプがあり、足元を照らして進んでいた。

 この道を使おうと画策していたレギンが用意したもので、地下道入り口付近にあらかじめ置かれていたものだった。


 しばらく走ると、先頭のフライメイが歩調を緩め、一行は歩きに切り替えた。


 アイリスはちらりと背後の様子をうかがった。

 ナーシサスの背後に隠れるようにして、幼い少女が力なく歩いている。

 彼女がリコリス。

 長の血を継ぐ者であり、次代の長となる者だった。


 そしてその後ろには、背の高い女性、コスモスがいた。

 髪が長く伸びており、上界で見たときとだいぶ様子が変わっていたが、見間違いはしなかった。

 アイリスは飛びついてこれまでの話をしたい気分だったが、現状では難しかった。


「これまでどうしていたのですか」マーガレットは、隣を歩く壮年の男、ナーシサスを見上げて言った。「生きているのはもはや我々だけだと思っていました」

「それはこちらも同じだ。よくぞ生き延びた」ナーシサスは頷いて見せた。「我々が合流したのは、七十人程度だった。その後の戦いの中で、あるときグロリオーサに首輪がつけられた。抵抗した者はグロリオーサに殺された。我々にはどうしようもなかった。グロリオーサに勝てる者などいないのだ」

「グロリオーサ様に、なぜ首輪が?」ガーベラが言った。「上界の民には精霊術は効かないはずです」

「不明だ。やつらの新たな術かとも思ったが、我々は支配されなかった。グロリオーサだけだ」

「誰かが真名を言ったのでしょうか」

「……グロリオーサの真名を知っていた者がいるというのか」


 ナーシサスは天使たちを見渡したが、だれも何も言わなかった。


 上界において、婚姻して将来を誓い合った者同士で、真名を交換し合うという風習がある。

 グロリオーサにはまだ伴侶がいなかったため、真名を知っているのは名付けた両親と本人だけであるはずだが、知られていないだけで真名を交換するような誰かがいたのかもしれない。


 皆の視線がコスモスに注がれる。

 グロリオーサと最も仲が良かったのはコスモスだ。


 コスモスはそれに気づいて、力なく笑った。「……あの人は、戦いにしか興味が無かったから」


 コスモスはそれだけ言うと顔を伏せた。


「……上界へは、帰れるのでしょうか」

 マーガレットが言ったその言葉は、誰もが聞きたい質問だった。


「わからない」コスモスは首を振り、唸るように言った。「……誰も成功していない」

「コスモスに分からないのだから、もはやだれにもわかるまい」ナーシサスは伸びた顎を撫でた。「このまま下界で生きていくことも考えねばならん」


 大人の天使たちは明らかに不満そうにため息をついた。


「レギンを、頼ってみてはどうですか」マーガレットが言った。「彼ならきっと力になってくれます」

「何? だれだ?」

「……操術士です」ガーベラがうつむき気味に言った。「我々を助けてくれました」

「あのスレイブの主か? なぜ我らを助ける。おい!」


 ナーシサスが駆け足で先頭に向かってくる。

 アイリスはその場を離れようとしたが、フライメイにがっちりと手をつかまれた。


「『なんで逃げる』」

「離して」

「『だめだ』」


「おい、主はどこにいる」ナーシサスはフライメイの隣に並び、彼女を見下ろして言った。「なぜ助けたのだ」

「『命令だからだ』」

「貴様の主は何を考えている」


 フライメイはうんざりした様子で言った。「『俺が主だ。このドールの声帯を使って話をしている』」

 ナーシサスは少し驚いたようだった。


「では改めて問う。何が目的だ」

「『俺は主人の命令に従っているだけだ』」

「主人? 誰だ」


 フライメイはアイリスの手を取った。

 アイリスは空いている方の手で顔を覆った。


 どう答えたらいいかわからなかった。

 レギンはどうあっても「アイリスのスレイブ」で通す気だ。


 ナーシサスはアイリスを一瞥して、露骨に険悪な顔をした。

 ナーシサスが足を止めたことで、一行は地下通路の真ん中で立ち往生した。


「『歩きながらでも話せる』」

 フライメイが促したが、ナーシサスは進もうとしなかった。


「意味が分からない。なぜその忌み子の命令を聞くのだ」

 フライメイは眉をひそめた。「『アイリスは俺の主だ』」


「……全く、意味が分からない」

「『アイリス様が助けろと命じたから、俺はお前たちを助ける』」

「ちょっと待ってくれ」


 後ろを歩いていたコスモスが、間に割り込んできた。


「成功したの?」

「えっ、ええ。コスモス様」

「指輪を使ったんだね」

「多分……」


 アイリスは胸元からネックレスを取り出し、コスモスに指輪を渡した。

 本当はもっといろいろ話したいことがあったが、今することではない。


 指輪を手に取ると、コスモスの表情が曇った。


「力が失われている。これもう壊れてるね。これでどうやって精神防壁を破ったんだい」


 そんなこと、アイリスのほうが知りたかった。

 助けを求めるようにフライメイを見たが、彼女は進行方向の暗闇へ目を向けている。


「わかりません。でもレギンはあたしのスレイブだと」

「本人に会ってみないと分からないな」

「そこまでだ。忌み子のスレイブを名乗る者の言うことを聞くことはできない」


「『……あんた、もしかしてガーベラの父親か?』」


 ガーベラは驚いて首を振った。

 ナーシサスも面食らっている。


「『上界の連中ってのはみんな頭が固いってだけか』」

「それは忌み子だ」ナーシサスは再び繰り返した。「お前たちも、これは一体どういうことだ」


 大人の天使たちは非難の視線を子供たちへ向けた。

 ガーベラやマーガレットたちは縮み上がり、アイリスは視線を足元へ向ける以外にできることはなかった。


 フライメイが足を踏み鳴らし、アイリスをかばうように一歩前に出た。


「『いいか良く噛み締めろ。お前らはガキどもに助けられたんだ。そんなことも分からないで敵地の真ん中でいつまでもぐだぐだやるんなら、俺はガキどもだけ連れて安全な場所まで離脱させてもらう』」


 フライメイは、天使たちをじろりと見渡した。

 ガーベラたちは困惑してそわそわと腕をさすっており、ナーシサスたちも気圧されている。


「『助かりたいなら、黙ってろ』」


 ついにナーシサスは押し黙ってしまった。

 元より議論する気力は残っていないのだろう。


 一行は再び歩き始めた。

 先頭を歩くフライメイとアイリスの後ろを続く天使たちとは、ずいぶんと距離が空いていた。


 あのナーシサスが言い負かされるのを見て、アイリスは胸がすくような思いを味わった。

 もちろん、ナーシサスやリコリスたちに対して恩着せがましくするつもりはなかった。

 一族の長となる者を助けるのは当然のことだと理解している。

 だがそれでも、レギンの言葉に救われた事実を否定することはできなかった。


 それからしばらく沈黙が支配した。

 地下道を歩く足音だけが聞こえて、地上から伝わる振動も分からなくなった。

 道は下へ向かったり上へ向かったりと不規則で、自分たちが今どこへ向かって歩いているのか、全く把握できなかった。


 少しだけ心にゆとりの生まれたアイリスの脳裏には、エメリウスとの会話がよみがえっていた。

 一方的にレギンの過去を覗き見てしまったことに、アイリスは強い罪悪感を覚えていた。


 レギンは禁猟区で生まれ、家族を救うために家族を支配した。

 操術から守るためには、操術で首輪をつけるしかないからだろう。


 レギンがどうしてこのような性格になったのか、その一端が見えた気がしたのだ。


「忌み子っていうのは」気が付けばアイリスは言葉を発していた。「精霊術を暴走させてしまう人のこと。ごくまれに、生まれるみたい」


 フライメイはちらりとアイリスを見ただけで何も言わなかったが、アイリスは言葉をつづけた。


「祝詞を唱えて、人差し指を出すの。言霊遊びっていうんだけど。集まった精霊たちは何をすると思う?」

「『……言葉を繰り返すのか?』」

「知ってた?」

「『まあな』」フライメイは首の後ろをさすった。

「そう。光の玉が現れて、精霊たちは喋った内容と同じ言葉を繰り返してくれるの。精霊術の、ほんのお遊びみたいなもの。五歳の子供だってできる。でもあたしがやったら、集落の半分が吹っ飛んだ」


 そのときの記憶は、大人たちに取り押さえられるところで途切れていて、まともに覚えていない。

 だが父と母と幼い兄妹と、近くに住んでいた大勢の人たちを肉片に変えてしまったのは事実だった。


「忌み子は、精霊術を封印する術を施して、檻に閉じ込めて、誰の目にも届かないようにするの」


 封印により、精霊術を使おうとすると、頭の中で強烈な声が鳴り響く。

 おぞましいほどに不快なその声はアイリスを縛りつけ、精霊術の行使を不可能なものにしている。


 過去に殺して処分しようとしたこともあったそうだが、処刑の際に忌み子の精霊術が暴走し、何人もの死者を出したことがあったため、閉じ込める方法に落ち着いたのだという。


 一日一回現れる世話係のほかに、檻にやってきたのはコスモスだけだった。

 彼女は幽閉されたアイリスに会いに来てくれて、言葉を交わしてくれた数少ない人物だった。

 アイリスはコスモスのことを姉のように慕っていた。


 アイリスが持っていた「支配の指輪」も、指輪の作成者であるコスモスからこっそりと譲り受けたものだった。


「『なんでそんな話をするんだ』」

「エメリウスとの話。盗み聞きするみたいになっちゃったから、ほら、これでおあいこ」

「『気にしてたのか』」フライメイはため息をついた。「『馬鹿だな。あのくそったれが勝手にぺらぺら話しただけだ』」

「……でも、これでわかったでしょ」アイリスはうつむいて足元のレールを眺めた。「あたしは忌み子。生まれてくるべきじゃなかった」

「『それは違う』」フライメイは前を向いたまま断言した。「『過去に何があろうが、ここまでお前たちが死ぬ思いで助けに来たこととは関係ないはずだ』」

「レギンは、上界の人じゃないから、そんなことが言えるの」

「『その通りだ。だから言える。天使の慣習や決まり事なんて、タバコの吸い殻ほどの価値もない。アイリスが俺の主人だってことに、何も関係ない』」


 レギンの言葉を聞いて、アイリスの胸の中に柔らかな火が灯った気がした。

 それは血管を通って全身を巡り、アイリスの体を内側から温めた。


 だが同時に、くすぶるような苛立ちも感じていた。


 まだそんなことを言ってるのか。

 もはや誰も信じていないというのに。


 天使のたちを助けるために、レギンは「アイリスの支配下」に入ることで、ガーベラたちの警戒を解こうとした。

 結局うまくはいっていないようだったが、レギンは行動で敵ではないのだと証明して見せた。

 レギンもそれが分かっているはずなのに、どうして自身がスレイブであることに執着しているのだろうか。


 ――レギンは私たちが怖いの。臆病だから。


 フライメイの横顔を盗み見て、彼女の言葉が思い出された。 


「レギンは」アイリスは囁くように言った。「……それでいいの? あたしが主人で、レギンがスレイブで、それで、ずっと、ずっとそのままでいいの?」


「『何言ってんだ』」フライメイはアイリスを見なかった。「『変えようがないだろ』」



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