09


 太陽は中天にあり雲のない青空が広がっていたが、渓谷の底の空気はひんやりと冷たかった。


 左右には断崖がそびえ立っており、身を隠せるような洞窟がいくつかあった。

 足元には細い川が通っている。足元の岩は緑のコケでおおわれていた。


 渓谷の上には見張りのドールを何体か配置し、常に周囲を監視していた。

 停めているトラックも草木でしっかりと覆い、外から見ただけでは分からないように隠していた。


 レギンは皆から少し離れた場所でドールの検診を行っていた。

 そこは岩場の影で、周囲からは隠れた位置だった。


「わっ」


 訓練の様子を見ていたアイリスがやってきて、レギンの背後で悲鳴を上げた。

 レギンはちょうど良い岩に腰かけ、若い男のドールをほとんど裸同然に脱がせて目の前に立たせていた。


「なんだ」


 アイリスは耳まで顔を赤くしてレギンに背を向けた。「……フライメイはどこ?」


「今は休ませてる」

「休憩中?」

「眠らせてる。昨日は夜通し走らせたからな。起こすんじゃないぞ」

「わかってる。それで、どうだった? リコリス様たちはいた?」


 この山間の渓谷は廃都フーアからほど近い場所にあり、レギンたちはすでにここに二週間以上籠っていた。

 仮に誰かが通りかかれば見張りが察知して身を隠すことにしていたが、現状、誰かに居場所を知られそうになる事態は起きていない。


 そうして渓谷を拠点とし、レギンはドールを廃都フーアへ何度も送り込み、慎重に情報収集を行っていた。


「まだ分からないことが多い。はっきりしてから伝える」

「またそれ?」アイリスはレギンに背を向けたまま腕を組んだ。「少しぐらい、いいじゃない」


 レギンは口を閉ざし、首の後ろをさすった。

 アイリスは背を向けたまま、レギンの座っている岩に腰かけ、二人は背中合わせになった。


「俺に任せておけばいい。頃合いを見計らって、取り返してくる」

「あたしたちは邪魔だっていいたいの?」

「そうだ」


 アイリスは頭を動かし、後頭部をレギンの背中に強くぶつけた。

 体格差のため、レギンはびくともしなかった。


「第一、精霊術を使うと、察知されることもあるんだろ」


 これは以前、ガーベラたちから聞いた話だった。

 天使たちは、水面に立つさざ波を感じるように、精霊術の使われた場所を知ることができるという。


 この渓谷の拠点に移ってから、天使たちには精霊術を控えてもらっている。

 僅かな力なら問題ないが、戦闘に必要なレベルで精霊術を使うことは、大声を出すようなものだという。


「もしも向こうが天使に首輪をつけていたら、こっちの居場所は筒抜けだ。潜り込めない」

「術を使わなければ平気よ」

「精霊術を使わないで、何をしに行くつもりなんだ」

「……なに、あたしたちは留守番してろっていいたいの?」

「そうだ」


 アイリスは頭を動かして再びぶつけた。

 レギンは僅かに揺れることもなかった。


 レギンは目の前にドールを立たせた。

 しゃがませたり、その場で飛び跳ねさせたり、簡単に触診を行ったりして、診察を続けていた。

 医術の心得があるわけではない。

 異常がないか調べる程度のことしかできない。


 自分で操っているだけで満足していると、様々なサインを見落としてしまう。

 それは怪我や事故を引き起こし、ドールの死につながる。


 レギンの頭にはつい最近のオルカシアの肩の傷があった。

 もっと上手く動かせたはずだという悔恨の言葉は、常に止まない。


 診察を受けていたドールを操作し、服を着せて持ち場へ戻らせた。

 すぐに別のドールがやってきて、レギンの前に座り、服を脱ぐ。


「精霊術を俺たちが身に着けることは可能か?」

「急にどうしたの」

「攻撃時に武器が光るだろう。刃の切れ味が向上している。あれも魔術にはない力だ。防壁でメイスまで覆えば、打撃力の強化はできる。だが性質そのものを向上させる力は無い。弓矢もそうだ。貫通力が上がっている。鉄板程度じゃ止められないし、魔術の防壁も貫通するだろう」

「祝詞を唱えて血を捧げると、道具の力が変化するの」アイリスは答えた。「ガーベラの剣や盾、マーガレットの持っている弓とか、精霊術の力を帯びてる」

「それで、どうなんだ」

「わかんないけど、無理だと思う。精霊術は生まれつきのものだから」


 レギンは鼻から息を吐いた。あまり期待はしていなかった。「ご主人様は、戦わないのか? 混じって訓練してきてもいいんだぞ」

「あなたが守ってくれるでしょ。……そういう命令だし」

「自衛のためにも、力を身に着けることは無駄にはならない」

「……使えないの。あたし。精霊術」

「生まれつきか?」


 背後のアイリスは答えなかった。


 レギンは診察の終わったドールに服を着せ、次のドールと交代させた。


「天使は頑丈だ。体力も膂力もある。ガーベラの話だと、防御しなくても口径の小さい拳銃程度じゃ怪我すらしないらしい。恒常的に防壁が張られているのか、それとも種族としての特性なのか」

「何が言いたいの」

「精霊術を使えないのは分かったが、そのあたりはどうなんだ。ご主人様は銃で撃たれても平気なのか」

「試してみれば?」アイリスは岩から立ち上がった。「この話はしたくない」


 レギンは呆れて笑った。「随分な物言いじゃないか。それともあれか、ガーベラたちがご主人様に一線引いてることと関係あるのか」


 アイリスはびくりと肩を動かし、何かを言おうとして、口を閉ざした。


 今の言葉は失敗だった。

 痛々しい沈黙が続く。戦場でスレイブを相手にしている方がよっぽど気が楽だった。


「おい、悪魔」

 沈黙を破ったのは、やってきたガーベラたちだった。

 背後にはずらりと天使の少年少女たちが並び、緊張した面持ちだった。

「今日も廃都へドールをやっただろう」


「あっ、ちょっと! 兄さん!」

 マーガレットはガーベラの手を引き、岩の影に隠れてしまった。

 他の天使の子供たちも慌ててそれに続く。


 岩の影の向こうから、マーガレットが声を上げた。「レギンさん、服を着させてください」

「何?」

「ドールに、服を、着させてください」


 レギンの目の前には、若い女のドールが半裸で立っている。

 レギンはしぶしぶと服を着るよう操作した。


 頃合いを見計らって、天使の子供たちが再び姿を現した。

 少年らは顔を赤くしているが、少女らは眉をひそめて非難するようにレギンを見ている。


 ガーベラは服を脱いだ女のドールがいたことに気づいていないようだった。

 視線はレギンへのみ向けられている。


「それで?」レギンは検診を中断し、天使たちに向き直って岩に座った。

「フーアの様子だ」ガーベラは腕を組んでレギンをにらんだ。「いい加減教えろ。向こうはどうなってる。リコリス様は無事なのか」

「教えて」アイリスは目線を足元に落とした。「……これは命令」


 レギンは首の後ろをさすった。


「天使たちは捕らえられ、支配種たちの見世物にされている」


 ガーベラは息をのみ、マーガレットは胸を抑えた。


「何人、いるんだ」

「約三十人。みな首輪はつけられていない」


 レギンの言葉に、「さっき嘘をついたのね」とアイリスが呟いた。


「嘘じゃない。グロリオーサという名前の天使に心当たりはあるか。そいつには首輪がついていた」


 天使たちがしんと静まり、互いに顔を見合わせた。


「有名人か」

「あたしたち一族の、最高位の戦士」アイリスも息をのみ、口元を抑えている。「そんな、グロリオーサ様が……」

「闘技場で戦わされているが、定期的に廃都を離れ、どこかへ行っているようだ」


 レギンは闘技場で戦うグロリオーサの姿を、ドールの目を通して見ていた。

 圧倒的な精霊術の力をいかんなく発揮している。

 もし正面切って戦えば、レギンの実力をもってしても無傷とはいかない。

 駒の力があまりにも違いすぎる。


「リコリス様は!」マーガレットが叫ぶように言った。

「背格好が似ている者は見つけたが、ほとんど接近できていない。不確定だ」


「俺たちも行く!」

 ガーベラは身を乗り出し、マーガレットも頷いた。「待っているだけなんて無理です」


「だめだ」レギンは一顧だにしなかった。「作戦は立てている。グロリオーサのいないタイミングを見計らって事を起こすつもりだ。ここで待っていろ」


 レギンの有無を言わせぬ強気な態度に、天使たちは何も言い返せなくなっているようだった。


「どうやって上界の人だって確認したの?」アイリスが言った。「肌が白くて、髪が金色だったから?」

「それもあるが、見世物を見に来た客たちが、確認のために糸を伸ばしていた。天使たちには挿さっていないようだった」

「操術が効かないことが判断材料なのね。それって、たとえば色白で金髪の支配種が居て、それを天使だって言ってる可能性もあるってことだよね」

「そんなこと――」


 レギンは言い返せなかった。確かに一理ある。


「確認しないと」アイリスは立ち上がって言った。「あたしもフーアに行く」

「ご主人」

「別人だったらどうするの。レギンはリコリス様の顔を知ってる? そもそも上界の人ですらなかったら? 命懸けで作戦を実行して、それが外れたら」

 アイリスは岩に腰かけるレギンを見下ろした。「何か言い返して」 

「……危険だ」

「承知の上よ」


「待て」ガーベラが割って入った。「俺たちだってやれる」

「……全員の面倒は見れない。連れていくなら、ご主人様だけだ」


 アイリスは若い少年の肩を叩いた。「ガーベラ。ここはあたしに任せて」

「そいつは!」ガーベラは声を荒げたが、大きく息を吐いた。「……人を操る悪魔だ」

「誰のおかげでここまで来れたかわかってる? まだ信用してないの?」

「信用してないのはどっちだ」


 二人はにらみ合い、周囲の天使たちはその様子にたじろいでいた。


「盛り上がるのはいいんだが」レギンはタバコに火をつけた。「俺に勝てるやつが一人でもいるのかよ」


 近くにいたドールたちが集まってくる。

 全員武装こそしていなかったが、レギンの意思の元、完璧に統率された動きだった。


 ガーベラは周囲をちらりと見て、唇をつぐみ、何も言わず背を向けて去っていった。

 それにマーガレットが続き、他の子らも走っていった。


 レギンは首の後ろをさすった。

 待機状態に戻ったドールがこちらを見ていることに気づき、レギンは操作して別の方向を向かせた。

 糸を通して感情やストレスの変化を感じ取るまでもない。

 ドールたちはレギンと天使たちとのやり取りに興味津々だ。


「それで、出発はいつ?」

「明日の朝」レギンは煙と共に言葉を吐いた。






 渓谷の底で過ごす夜は肌寒かった。

 ただでさえ近くに川があり、普通の人間であれば体温が下がってしまうところだが、アイリスたちは精霊術の加護がある。

 この程度はなんともなかった。


 明日は渓谷を出て廃都へ向かう。アイリスは眠れず、隣で眠るマーガレットを起こさないよう静かに立ち上がり、テントの外へ出た。


 少し歩くと、フライメイが焚火の前に座っているのを見つけた。

 視線はレギンへ向けられている。

 彼は離れた場所で、自分のドールと模擬戦闘を行っていた。

 青い光を体にまとっており、ドールの魔術の補佐を自身に行っているようだった。


 レギンは汗だくになっていた。

 目は獣のように爛々と輝き、自分よりも体格の良いドールと正面から拳を交えていたが、時折動きを止め、何かをぶつぶつとつぶやいているようだった。


「……レギンが操ってるの?」

 フライメイはアイリスに視線を向けなかった。「これまで戦った敵のスレイブの動きを再現させてる」

「自分同士で戦ってるってことだよね。頭おかしくなりそう」

「レギンはならない」


「今は休憩中?」

「そう」フライメイはアイリスの姿を横目でちらりと見た。「寝ないの?」

「そっちこそ」

「眠くない。昼に寝てたから」

 アイリスはフライメイの隣に腰かけた。


「アイリスは明日朝からフーアへ行くはず。さっさと寝た方がいい」

「少ししたら」アイリスはレギンへ目をやった。「毎晩やってるよね。ほとんど寝てないでしょ」

「悪夢のせい。疲れ果てて、夢を見る余裕がないくらいにならないと、途中で飛び起きる」


 アイリスはうなされていたレギンを思い出した。

 叱られる夢、と言っていた。どんな夢なんだろうか。


 レギンが戦う音が響いている。

 拳がぶつかり合い、鋭い蹴りが炸裂し、ドールの巨体が揺れる。

 本気で殺し合っているように見えた。


「レギンは自分でも戦えるんだよね」

「魔術の強化を受けて、私たちと一緒に前線に出る」フライメイは、再びレギンへ視線を向けた。「アイリスは、戦えない?」

「レギンみたいにドールと一緒に戦う人って、他にもいるの?」

「レギンだけ。操作型の操術は、命令型と違って対象と距離が離れてるとうまく操れないことがある。レギンは自分の安定距離が短いことを気にしているけど、多分それは言い訳」

「言い訳……」

「レギンは私たちが怖いの。臆病だから」


 ばっさりと切り捨てるようなフライメイの言葉に、アイリスは驚いた。


「なにか怒ってる?」

「別に」

「怒ってるように見える」

「そう」

「……レギンも困っているんじゃない?」

「そうかな」フライメイは興味を示したようだった。自分の顔に手を当てている。「そうかな」


 アイリスはフライメイをよく見た。

 こうしてみると、どこにでもいる女性のように見えた。

 もちろんアイリスよりも年上で、すでに成人している女性だが、今この瞬間だけ、まるで同年代の子供のように思えた。


「レギンは普段、あなたたちとどんな話をするの?」

 フライメイは遠くを見た。「レギンはドールと話をしない」

「嘘」

「嘘じゃない」

「えっ」アイリスは口を押えた。「一度も? してない?」

「一度も。レギンはドールと話をしない」

「そんな馬鹿な話が……」


 そういえば、レギンがドールと会話している場面を見たことがない。

 アイリスは背中に冷たいものが走るのを感じた。


 それどころか。

 レギンがドールと目を合わせたところを見たか?


「馬鹿な話もしない」

「そうじゃなくて」アイリスは額を抑えた。「フライメイはレギンのドールになってどれくらい?」

「十……」フライメイは自分の手のひらを見て、指を折っている。

 アイリスは口をあんぐり開けた。「冗談でしょ」

「レギンは私たちの意図を汲んでくれる。だから会話をする必要がない」


 アイリスは呆れて物も言えなかった。

 それとも操術士というのは、これがスレイブに対する一般的な対応なのだろうか。


「そんなのおかしい」

「レギンは不必要なことはしない。会話が必要だったら、そうしてるはず」

「必要とか必要じゃないとか、そんなことじゃないでしょ。だって、言葉を交わさなかったら、それじゃ、まるで道具じゃない」

「『道具』は命令型で操るスレイブがふさわしい。操作型で操るドールは、むしろ手足」


「違う!」アイリスは声を荒げて立ち上がった。「あなたたちはそんなんじゃない!」


 フライメイは驚いて硬直した猫のように体を硬くし、アイリスを見上げた。


「レギンは普通の操術士と違う。一緒にいてそれがよくわかった。あなたたちはまるで本当の家族のように生活してる。あたしには、首輪がただの飾りに見えたの」

「何を言っているか分からない」フライメイも立ち上がり、アイリスに向かい合った。「私は、私たちはレギンのドール。『手足』は家族じゃない。レギンの家族になるのは、もっと違う人」


 アイリスはフライメイに圧倒され、尻込みした。


「レギンにとって、操術士は敵。支配種は敵。すべて、倒すべき敵。レギンには、『敵』と、『手足』と、『これから手足になるかもしれない者』だけしかいない。家族になれる者は……」


 フライメイは言葉を止め、アイリスににじり寄った。

 アイリスをじっと見つめ、そしてその華奢な肩を掴んだ。


「――アイリス」

「は、はい」

「あなたは、操術士じゃない。支配種じゃない」

「はい」

「あなたには、操術が効かない」

「うん」

「あなたにはレギンが必要。でもレギンにも、あなたが必要」

「なに?」

「あなたは、レギンにとって――」


 そこでフライメイはぴたりと動きを止めてしまった。

 まるで意識が切り替わるように、すっと手を放し、アイリスから距離を取った。


 アイリスは何が起きたのかすぐに理解した。

 そして駆け寄ってくるレギンを見た。


「アイリス」レギンは肩で息をしていていた。表情は強張っており、いつになく真剣な目つきだった。「大丈夫か」

「フライメイは休憩中だったはず。今は自由な時間。そうよね」

「攻撃しているように見えた。アイリスに掴みかかって――」

「誤解よ!」アイリスはレギンに飛び掛かるように一歩踏み出した。「ただ話に夢中になっていただけ! フライメイはそんなことしない!」

「そうか」


 レギンは安心してたようで、フライメイへ目をやっていた。


 だがアイリスは気づいた。

 レギンは、フライメイと目を合わせていない。


「フライメイに謝って」

「……なに?」

「紛らわしいことをしてたのは、こっちの問題よ。だけど一言あっていいはずでしょ」

 レギンは眉をひそめた。「必要はない」

「フライメイは何も悪いことはしてなかった。それなのに叱られたら、苦しいよ」

「苦しんでない」レギンの人差し指がピクリと動いた。「精神状態は把握してる。フライメイは俺の操作した緊急性を理解した。だから――」

「糸を通してじゃ分からないことだってあるよ」

「無い」レギンは言い切った。


 アイリスは胸を抑えた。

 そうしなければ押しつぶされてしまいそうだったから。

 一体何に?


 アイリスはレギンの目を見られなかった。


「ドールと理解し合う必要は無い。俺は人形遣いだ」


 勢い良く頬を張る音が響いた。


 人に張り手をしたのは初めてだった。

 レギンは背が高く、顔の位置が高かったため、アイリスはつま先立ちになった。


 レギンは動かなかった。

 アイリスの稚拙な攻撃など、たやすく躱せたはずだったのに、正面から受け止めた。


 アイリスは自分が泣いている理由が分からなかった。

 ただ裏切られたような気持ちだけが沸き上がって、どうしようもなかった。


 手のひらがじんじんと熱を持っていた。

 何かを言いたかったが、言葉が出てこなかった。

 隣で棒立ちになっているフライメイから離れるように、アイリスは自分のテントに戻っていった。


 レギンも、何も言わなかった。



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