07


 穏やかな朝の陽ざしが木々の葉の隙間から差し込んでいた。

 あたりには鳥の鳴き声と、川を流れる清らかな水の音が聞こえる。


 ここは山あいにある大きな川沿いの空き地だった。

 近くに町は無く、あたりには人が住んでいる気配もないようだった。


 レギンのドールたちは、朝もやの中で朝食の準備を進めていた。

 巨大な鍋を持ち出し、食材を切り出し、火にかけていく。

 別のドールが簡易なテーブルを組み立て、また別のドールは一晩明かした小さなテントを片付けていく。


 いつもなら談笑したりふざけ合ったりしながら作業をするドールたちだったが、一緒に調理を進めるアイリスに注目して耳をそばだており、ざわめきも普段より少なかった。


 簡易的に作られた調理場で、アイリスはまな板の前に立っていた。

 隣にはフライメイがいて、監視するようにアイリスを見ている。


「違う」フライメイが、小さく首を振った。

「合ってるじゃん」アイリスは頑として受け入れなかった。「ほら、言われた通りでしょ」

「代わって」


 フライメイはアイリスの包丁を取り上げた。

 そしてまな板の上の野菜を丁寧に切っていく。

 刻まれた食材たちは別のドールの手によって運ばれ、鍋に投入されていく。


「わかった?」フライメイはそう言って、アイリスに包丁を返した。

「同じじゃん。わかんないよ」


 アイリスは頬を膨らませ、フライメイをにらんだ。

 フライメイは無表情のまま、再び包丁を受け取ろうとした。


「握り方が悪いのさ」


 背後から中年の女ドール、オルカシアが首を突っ込んだ。

 人懐っこい笑みを浮かべ、アイリスの包丁の背にぴんと伸ばされた人差し指をつつく。


「こう?」


 アイリスが包丁を握り直し、フライメイを見た。

 彼女は無表情のまま頷いて見せた。


「初めからそう言ってよ。教え方下手すぎるでしょ」

「物覚えが悪い」


「オルカシア」アイリスは泣きつくように言った。「何とか言って」

「私たちは物を教えるのがみんな下手なんだよ。レギンはなんでも操術で体を動かして伝えるから、言葉を使って教える機会が無くてね」

「……それにしたって」

「それにしたって下手すぎるけどね」


 オルカシアはフライメイの背中を小突いて笑い、調理器具を運んでいった。


「持ち方なんてどうだっていいじゃない」アイリスはオルカシアの背を見送りながら言った。

「道具は正しく使って」


 アイリスは担当した野菜を切り終わり、顔を上げた。

 アイリスのやりとりを盗み見ていた周囲のドールたちが、一斉に顔を背け、ごまかすように作業に戻っていった。


「なに? そんなに変だった?」


 アイリスは声を大にして周囲に言った。


 通りがかった背の低い双子のドールは「別に」「そんなことないよ」と言ってにやにやと笑いながら遠ざかり、「気にすることは無い」と痩身のドールが慰めの言葉を告げてアイリスが切った野菜を回収していった。


 鍋の前に立っている大男のドールは、調理器具で鍋をかき回しながらじっとアイリスを見つめ、厳めしい表情のままうんうんと頷いている。

 どういう意味なのか、アイリスにはわからなかった。


「みんな甘い」

「フライメイがうるさすぎるだけじゃない?」

「そんなことない。はず」


 フライメイはそう言うと、調理場を離れていった。


「えっ、もう時間?」アイリスは別のドールと交代し、フライメイについていった。「あたしも行く」


 フライメイは歩きながら、別のドールが持ってきた金属製の水筒とタオルを受け取った。


「あの子たちは、いつも離れてなにしてるの」


 フライメイの視線の先には森の木々があった。

 ガーベラたちがいるのは、五分ほど歩いた先だ。


 ガーベラたちは、レギンやそのドールたちとなるべく顔を合わせないようにしているようだった。

 夜を明かすときも離れた場所に寝床を作り、食事の際も距離を取っている。

 移動は同じトラックの荷台に座るため、どうしても顔を合わせることになるが、その時も決して口を開かない。

 ただ用心深くドールたちへ視線をやるだけだ。


 廃都フーアを目指して出発し、すでに十日ほどが経っていた。


「この時間は、日課かな」アイリスは大きく伸びをした。「戦いの訓練をしたり、精霊へ祝詞を捧げたり」

「アイリスはしないの?」

「いいの」アイリスは足元の小石を蹴飛ばした。「あたしはいいの」


 曲がりくねった小道を通り、木々に囲まれた古い山道に出る。

 道の脇には大きなタイヤのトラックが数台停まっている。

 トラックは幌がついた荷台を有しており、中には武器や食料が詰め込まれていた。

 二人はそのうちの一台に近づいていった。


 アイリスの表情を見て、フライメイは呟くように言った。「苦手なら来なければよかったのに」


「苦手じゃない。平気」アイリスはいつの間にかうつむいていた顔を上げる。「それに、レギンはあたしのスレイブだから。主人として、スレイブの状態は常に把握してないと」


 フライメイは表情を変えなかった。「それまだ言ってるの?」


「レギン本人が言ってたでしょ。スレイブになったって」

「誰かを支配するには、真名を知らなければならない。でもあなたはレギンの真名を知らない」

「あたしのは特別製だから、操術とはルールが違うの」

「本当に信じてるの?」

「もちろん」


 アイリスは力強く言い切ったが、毛ほども信じてはいなかった。


 レギンは何らかの理由でアイリスたちを助けてくれている。

 それが善意であることを信じるほかなかった。


「ねぇ、ここだけの話だけど」アイリスは声を潜めた。「あなたたちの中で、自由になりたい人はいないの? もしそんな人がいるんだったら、あたしがレギン言って、首輪を外して解放するように――」


「やめて」フライメイは突き放すように言った。「レギンから離れたいなんて思ってる人なんて、ここにはいない」

「自由になりたくないの?」

「不自由じゃないのに、どうやって自由になるの」


 フライメイの目がわずかに細くなった。

 まるで言葉が通じていないような気がして、アイリスは少し怖くなった。


 目の前のトラックの運転席から、唸り声が聞こえた。

 悲鳴のようでもあり、泣き声のようでもある。


 アイリスは肩を震わせた。

 何度聞いても慣れない、魂を握りつぶすような恐ろしい声だった。


 深呼吸を一つして、アイリスは運転席の扉を開けた。

 レギンは汗をびっしょりとかき、目を閉じて苦しそうにうなっていた。

 たくましい両腕が自身の肩を抱くように回され、まるで怯える幼子のように縮こまっている。


「レギン、起きて」アイリスはレギンの肩をたたいた。「朝だよ」


 レギンは飛び起きて懐の銃へ手を伸ばし、アイリスを見て動きを止めた。


「おはよう」


 レギンは乗り込んできたアイリスと、外で待機しているフライメイへ交互に目をやった。

 この景色が現実だと、ようやく理解したようだった。


「……起こしに来るのはフライメイだけでいい」

「いつもどんな夢を見てるの?」

「聞いてどうする」レギンは背もたれに深く背を預け、魂まで吐き出してしまいそうなほど大きく息を吐いた。

「あたしは自分のスレイブのことをもっと知りたいの。おかしい?」


 レギンはアイリスを除けて運転席から降りた。


「命令か?」

「違う。お願い」

「だったら聞かなくてもいいな」

「じゃあ命令」


 アイリスはひるまなかった。

 胸元のネックレスをぎゅっとつかむ。

 指輪は効果が無いが、アイリスは癖になっていた。


「どんな夢を見ていたのか、教えなさい」


 レギンは少しだけ動きを止めた。

 驚いているようだった。

 フライメイから水筒を受け取り、勢いよく中の水を飲み干していく。

 アイリスはレギンの喉仏が何度も動くのを見上げていた。


 レギンは空になった水筒をフライメイに渡し、タオルを受け取って汗を拭いて、ひと心地着いたように天を仰いだ。


「……叱られる夢だ」

「誰かに?」

「さあな、分からない。夢だからな」

「本当?」

「ああ」レギンはそう言って汗まみれのシャツを脱ぎだした。


「ちょっ、ちょっと!」アイリスは顔を赤くして目を背けた。

「着替えるのも許可がいるのか、ご主人様」


 ちらりと見えたレギンの体を見て絶句した。

 筋肉の鎧で覆われたその全身は、傷だらけだった。

 火傷や刃傷や、銃の弾丸の跡もある。

 肉が抉れたようにへこんでる場所もある。

 胸も腹も背中も、傷のない部分は無かった。


「何か用事があったんじゃないのか」


 アイリスはぐるぐると回る思考をまとめ、少し遅れて口を開いた。「今日の予定は」


「街へ寄る。食糧と燃料の補充だ。廃都フーアまで、まだ数日かかる」

「あたしも行く」

「なんだって?」

「操術は対象と距離が近いほど効力が強まるって、教えてくれたじゃない。だからなるべく一緒にいる方がいいの」

「それは操術じゃないんだろ」

「似たようなものでしょ」


 レギンが自身のズボンのベルトに手をかけたところで、アイリスは素早く背中を向けた。

 フライメイは特に気にしていないようで、レギンのストリップをぼんやりとした表情で眺めていた。


「ちょっと! あたしも、フライメイも、いるの!」

「命令されてないぞ」

「ああっ、もう!」アイリスは地面を踏みつけた。



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