05


 日が落ちてもアイリスたちは移動を続けていた。

 そこは山のふもとで、背の高い草木が生い茂っている。

 遠くは見渡せず、身を隠しながら移動するにはちょうどよい場所だった。


 先頭を走るガーベラが合図を出して、アイリスたちは足を止めた。

 頭上では、月が半分ほど雲に隠れている。

 あたりに聞こえるのは、虫の鳴き声と、仲間たちの荒い息だけ。


 仲間たちはその場に膝をついた。

 アイリスは袖で額の汗をぬぐい、それがレギンからもらった服だということを思い出した。

 空腹で、身がよじれるようだった。

 こんなことならパンの一切れでも貰ってくればよかった。


「これからどこへ行く?」マーガレットが息を切らせながら仲間たちに言う。「あの森へ戻る?」

「警備が強化されてる」別の仲間が言った。「しばらくは戻れない。姿を見られたんだ」


「それまでどうする。精霊の力も限界がある。いつまでも気配を隠してはいられない」

「食べ物も、もう残ってない。あと三日と持たないよ」

「でもリコリス様たちを助けに行かないと」

「また近くの廃都に潜り込むしか――」


「危険すぎる!」

 仲間たちの話を遮るように、ガーベラは立ち上がった。

「皆も見ただろう! 悪魔どもが何をやってるのかを! 同じ人間相手に、あんな、あんなことを……」


 ガーベラは青い顔で口元を抑えた。

 マーガレットが背中をさすろうとし、ガーベラはそれを振り払った。


「大丈夫だ。大丈夫。かまうな」


 アイリスは仲間たちを見渡した。

 アイリスを入れて全部で七人の少年少女たち。


 アイリスを助けるために禁猟区の森の奥から出てきたために、操術士たちに姿を見られてしまった。


 戦えない。

 役立たず。

 それなのに、自分が原因で皆が追い詰められている。

 アイリスは心が苦しくなった。


「もう一度」アイリスは呟くように言った。「レギンのところへ戻ろう」


「あの悪魔か」ガーベラは忌々しげに口を開いた。

「あたしはレギンを支配した」


 仲間たちは、またそれか、と言わんばかりに暗鬱な表情をした。


「レギンはあたしを助けてくれた。あたしが助けてって言ったから。そう命令したから。そうじゃなきゃ、操術士があたしを助けるはずがない」


 コスモスの指輪の力は本物だ。

 現に一度、禁猟区の森の中で、隷属種の男に指輪の力を使ったことがあり、そのとき隷属種がアイリスの命令を聞いたのを、皆が見ている。


 だが支配種である操術士にも同じ効果があるのかは確認していない。

 そのため仲間たちはアイリスの言葉に半信半疑のようだった。


 仲間たちの態度を見ていると、自分がいかに荒唐無稽なことを言っているのかを思い知らされた。

 考えてみれば、確かにレギンは命令に縛られているような素振りはなかった。

 自分にとって都合良く解釈しすぎていた。

 もしかしたら、そうだと思い込もうとさえしていたのかもしれない。


 ではなぜあの操術士は助けてくれたのか、という疑問は残るが、すでにアイリスは皆に反論する気を失っていた。

 なにより、アイリス自身が自分の言葉を信じることはできなくなっていた。


 アイリスはうつむき、泣き出すように言った。「見捨てればよかったのに」

「本気で言ってるのか」ガーベラは呆れた声を出した。


「だってそうでしょ。あたしがはぐれて捕まらなければ、禁猟区から出てくること必要はなかった」

「どのみちリコリス様を助けるために出る予定だっただろう。早まっただけだ」

「何の準備もできてないじゃない。情報も、武器も、食べ物もない。こんな状態でどうやって……」


「この話はここまでだ。俺たちはもう、仲間を見捨てない」


 ガーベラはその先を言わせまいとアイリスの言葉を遮った。


 アイリスにはわかっていた。

 ガーベラがアイリスを助けに行こうと決断したのだ。

 皆を説得し、ここまで来てくれた。誰も見捨てまいと、役立たずどころが害しか成さないアイリスを助けに来てくれたのだ。


 喜ぶべきことだった。

 だがアイリスの心は嵐のように荒れ狂っていた。

 自分の無力さに押しつぶされそうだった。


 と、ガーベラが急に立ち上がった。

 これまで走ってきた方角へ目を向けている。


 マーガレットが弓を構える。「何人?」


「十、いや十二か。向かってきてる」

「位置を知られてるのか?」

「あたりをつけてるだけだろう」

「どこへ行く?」

「まっすぐ行けば山を超えられるはずだ」


「そこは禁猟区じゃない!」仲間の一人が言った。「すぐに悪魔どもの手が届く!」

「嘆いている暇はないよ」マーガレットが落ち着いた声色で言った。


 ガーベラたちは一斉に片膝をつき、まるで水を掬うようにして両の手で器を象った。

 薄く目を閉じ、祝詞を一言唱えると、手の器の中に淡い光が集まり、ほんの小さな光の粒が生まれた。


 これらの光は、術者の呼びかけに応じてこの世界へ現出した精霊そのものだった。


 皆は精霊たちをいつくしむように胸元へ運んだ。

 光の粒が胸の中心に吸い込まれ、ガーベラたちの体が一瞬だけ光を放った。


 アイリスは、皆が自身に肉体活性の精霊術を施すのを、黙って見届けた。

 ガーベラたちは幾分か体調を取り戻したようで、先ほどより顔色が良くなっていた。


「行くぞ」


 ガーベラの一言と共に、再び一行は共に草原を駆けだした。


 行き先が決まっているわけでもない。

 当てもなく逃げているだけだ。


 これからどうなる?

 本当にリコリス様たちを助け出すことなんてできるのだろうか。

 そもそもここから無事に逃げ切れるのか。

 おそらく仲間たちの誰もが同じ不安を抱いているに違いなかった。

 皆疲れ切っていた。


「正面に人影!」走りながらガーベラが言った。

「回り込まれてたのか!」

「押し通る!」

 ガーベラは仲間にそう応え、剣と盾を構えた。


 仲間たちもそれぞれ武器を取り出す。

 徒手なのはアイリスだけだった。


 視界が開けて、目の前に小さな川が横たわっていた。

 そこには見知らぬ男女が立っていた。

 武装はない。

 だが首輪の有無を確認しないまま、ガーベラが地を踏み込み、大上段で剣を振りかぶって突撃した。


 次の瞬間には、ガーベラは宙を舞っていた。

 背中から川に落ち、水しぶきが跳ねる。


「『単調すぎる』」ガーベラを投げた女は、そう言って構えを解いた。「『そんな動きじゃすぐに見切られるぞ』」


 皆驚いて足を止めた。

 マーガレットがすぐに弓を構えるが、アイリスはそれを慌てて止める。


 その男女はレギンの家で見かけたドールたちだった。


「……レギン?」


 女は頷いた。「『仲間はこれで全部か?』」


 それは男のような口調だった。

 アイリスは少し面食らったが、すぐにレギンがドールを喋らせているのだと気付いた。


「『ついてこい』」

 ガーベラはびしょ濡れになりながら立ち上がり、剣を構えて皆を守るように移動した。「何をしに来た!」

「『じきに包囲網は完成する』」その女は首の後ろをさすりながら言った。「『狭められたら終わりだ』」

「答えろ!」

「『時間は無いぞ』」


 レギンのドールたちは下流へ向かうように川沿いを走り出した。


「兄さん、どうする?」マーガレットが不安げな声を出した。

 皆がガーベラを見ていた。

 彼はアイリスをちらりをみて、小さく悪態をついてから剣を収めた。


「行くぞ! 見失うな!」

 ガーベラはそう言い、皆の先頭に立ってドールの後を追った。


 しばらく川沿いを下流に走ると、一台のトラックが待機していた。

 巨大な幌付きの荷台があり、中には数体のドールが乗り込んでいた。


 レギンは腕を組み、仏頂面でアイリスたちを待っていた。

 レギンの隣にはフライメイが立っているが、今は「休憩中」ではないのか、油断なく周囲を警戒するだけだった。


 仲間たちはレギンに対して戦闘態勢を解いていない。

 アイリスは息を整えて口を開いた。「レギン、あなたは……」


「話は後だ。早く乗れ」


 レギンは有無を言わさぬ様子で荷台を指し、自身は運転席へ乗り込んだ。


 アイリスが一歩踏み出したのに引っ張られるようにして、皆は荷台に乗り込んだ。

 レギンのドールも数体乗っている。

 同時にエンジンがかかり、車が発進する。

 砂利道を進み、車体が振動した。


「これで罠だったら」マーガレットは乾いた笑みを浮かべていた。「お笑い草ね」

「笑ってる場合か」ガーベラは吐き捨てた。


 荷台にはランプが吊るされ、明るくなっていた。

 そのため並べられた鈍器や銃器などが良く見えた。

 荷台の隅には鉄のバケツがいくつかあり、その中には大量の灰が入っていた。


「『首を出せ』」ドールの一人がレギンの口調で言った。

「えっ?」

「『いいから、早くしろ』」

 アイリスはごくりとつばを飲み込み、レギンのドールに言われるがままに顎を上げた。


 レギンのドールが二体、左右に回り込んだ。

 一体がアイリスの頭を固定し、もう一体がアイリスの長い髪を持ち上げる。


「ひゃっ」

「貴様っ!」


 ガーベラが剣を抜こうとするが、アイリスが手で制止した。


「『動くな』」


 アイリスの正面に回った女のドールの手には、細い筆があった。

 先端には塗料がついている。筆がアイリスの細い首をなぞり、アイリスはくすぐったさに身をよじった。


「あっ、あひっ。ひっ」

「『動くなと言ってるだろ』」


 アイリスはぎゅっと裾を握り、顔を赤くして強く目を閉じた。


 そのドールはさらさらとアイリスの首に筆を走らせていく。

 実に精緻な筆運びで、振動する車の上で行っているとはとても思えなかった。


 時間にして一分もかからなかったが、アイリスにとっては何分にも感じられた。

 解放されたアイリスは顔を真っ赤にして大きく深呼吸した。


「『乾くまで触るなよ』」


 アイリスは自分の首に何をされたのか知りたかったが、鏡が無かったため分からなかった。

 アイリスの次に、マーガレットが一歩踏み出した。

 彼女も警戒した様子だったが、アイリスの首元を見て何かを察した様で、素直にレギンのドールの言う通りに首を出した。


 レギンは木々に囲まれた山道の砂利道を進んでいたが、唐突に車両を止めた。

 助手席に座らせていたフライメイと共に車から降りた。


 山道の脇から、隠れていたスレイブが何体も姿を現した。

 服装は統一していて、手には銃器があり、物々しい雰囲気だった。

 それはコンラー家の兵としての役目を与えられた、戦闘種のスレイブたちだった。


 彼らの規格化された立ち振る舞いから、相当な戦闘能力を持っているスレイブたちだということが良く分かった。

 少なくとも昨晩戦った密猟団などは相手にならない。


「何の騒ぎだ」

「身分証はお持ちですか」体格の良い男のスレイブの一人が言った。


 レギンは懐から銀のプレートを取り出し、そのスレイブに投げた。


「……レギン様ですね。こんな夜中にどちらへ」

「この山の奥にうちの訓練場がある」レギンはタバコに火をつけた。「どんな時間にどんなことやってても俺の勝手だろ」

「車を確認しても?」

「与えられた命令を言うことはできるか」


「可能です。秘匿指示はありません」そのスレイブは居住まいを正した。「操術士アルフレド様より、隷属種を確認した場合、これを捕獲せよ、との命令を受けています。また、対象範囲内から出る人物に対して捜査を行い、隷属種が確認できた場合はアルフレド様の元へお連れするよう言いつけられています」


「抵抗した場合は」

「可能な限り無力化します」

「分かった」レギンは頷いた。「好きに調べな」


 別のスレイブたちが走り出し、ランプを持って車両の荷台を確認した。

 荷台に乗せられた武器と、レギンのドールを簡単に確認していく。

 レギンは荷台のドールの視覚を共有してそれを見ていた。


 天使の最大の特徴は操術が効かないこと。

 ゆえにコンラー家のスレイブたちは首輪の有無のみ気にしている。

 それが最優先の命令なのだ。

 だから首元に紋様があるかどうかの確認しかしない。


 荷台に乗っている人物が、灰や泥を洗い落とせば白い肌と金色の髪をしていることが明らかだろうと、紋様が首にあれば、それはドールだと判断してしまう。


 もっとも、これは操術士の腕前によって変化する。

 もしも事前の「調教」が素晴らしいものだとしたら、少ない命令でもマスターの真意を汲んで動くようになるだろう。


 アイリスたちは荷台の中でじっとしていた。

 やや緊張気味だったが、無表情を装い、コンラー家のスレイブの指示に従って首元に描かれた精巧な絵を見せている。


 コンラー家のスレイブたちはやがて荷台から降りた。


「捕り物か?」

「美しい野良を見かけませんでしたか? 白い肌で、金の髪をしている隷属種です」

「ここは禁猟区じゃない。野良なんているのか」

「操術の効かない、特殊な個体だそうです」

「へぇ」レギンはにやりと笑ってみせた。「俺が捕まえたら、いくらで買い取る?」

「ありがとうございました。もう結構です」スレイブは礼をして木々の中へ戻っていった。

 レギンは身分証のプレートを受け取り、車に戻って車両を発進させた。






 捕獲部隊の包囲網を抜ける頃には、夜は明け始めていた。


 車両は山を離れ、小高い丘の上で止まった。

 アイリスたちは荷台から降り、広がる平原を見渡した。


 湿らせた手拭いで、アイリスたちは顔の汚れと、首元の塗料を落としていた。

 アイリスは安心するよりも呆気にとられていた。

 こんな簡単な方法で逃れられるなんて、夢にも思わなかったのだ。


 レギンは運転席から降り、タバコを吸っていた。

 隣にはフライメイが立っている。


 ここにきて、もはやレギンが罠を張っている可能性は考えられず、仲間たちの誰もがそれを理解していた。


 もしもアイリスたちを独り占めしようと考えてコンラー家と敵対する気があったのだとしたら、最初にアイリスを助け、ガーベラたちが現れた段階で行動しているはずだ。


 妙な沈黙が流れていた。

 アイリスの仲間たちは誰も口を開くことができず、押し黙っている。

 あのガーベラも難しい顔で腕を組み、そっぽを向いていた。


 アイリスはそんな雰囲気に押されるようにして、レギンに近づいた。


「どういうつもり」


「半分は賭けみたいなものだったが、結果的には成功した」

 レギンはすぐに口を開いた。まるでアイリスが話し出すのを待っていたかのようだった。

「向こうの調教がへたくそだったのも成功の要因だ。だがそもそも操術士が相手なら、確認のために糸を伸ばされて、一発でばれる。俺はある程度操術士の気配を探れるからな。スレイブだけが検問をやってるところを選んで――」


 アイリスは手の平を突き出した。「そうじゃなくて!」

 レギンは片方の眉を上げた。

 フライメイがピクリと動いた。


 背後で仲間たちの息をのむ音が聞こえる。

 風が吹き、平原の草花が揺れ、胸が落ち着く穏やかな響きが広がっていった。


「どうしてあたしたちを助けたの?」

「命令された」

「誰に」

 レギンは顎でアイリスを指した。

「あたしが? 誰に?」

「何て呼べばいい。アイリス様か、それともご主人様のほうが好みか。ああ、お嬢様はやめといたほうがいい。はっきり言って頭がおかしい」


「えっと」アイリスは頭を抱えた。「本当に?」

 レギンは陰気な視線を向けて言った。「俺はアイリスのスレイブだ。アイリスは俺に助けてと命令した」


 背後で仲間たちがざわめいている。

 アイリスはたじろぎ、目を細めた。

 言葉が出てこない。

 そんなわけがない。

 この男の態度は、スレイブのそれじゃない。


「俺を支配したその力は、操術とは異なるもののようだ。俺に首輪がついていないのがその証拠だ。だが確かにアイリスを助けなければならないという、強迫観念のようなものが確かにある。俺はそれに抵抗できない。だから助けた」


 レギンはまるで用意していた言葉であるかのようにスラスラと言った。

 操術に関する知識に乏しいアイリスにとって、レギンの言葉が事実なのかを判断することはできない。


 アイリスは突っぱねようとした。

 馬鹿にするな。

 そんなことはあり得ない。

 あれはあたしの勘違いだった。

 あなたは支配なんてされてない。


「レギンは、あたしの命令をきくのね」自分の口から飛び出した言葉に、アイリス自身も驚いていた。

「……ああ」レギンは目を合わさないまま言った。

「あたしのスレイブ」

「そうだ」


 背後の仲間たちがにわかにざわめいた。

 フライメイが再び微かに身じろぎする。

 それがレギンの操作によるものなのかは分からない。


「どうして」アイリスは背筋を正し、居丈高に咳払いした。「どうしてもっと早く来なかったの」

 レギンは火のついたタバコをぽろりと落とした。


「危うく捕まるところだった。何をもたもたしていたの、と聞いてるの」

 レギンは唖然とした様子だったが、思い出したように吸いかけのタバコを拾い上げ、火のついた方を咥えそうになり、慌てて向きを変えた。

「どうして。答えなさい」


 レギンは仕切り直すように首を左右に傾けた。「それはそちらの責任だ」

「えっ」

「今すぐ助けて、と命令しなかった」レギンは早口で話し出した。「命令が曖昧過ぎる。誰を、いつ、どこで、どのように、どうやって助けるのか。それがないから、スレイブの解釈にゆだねられてしまう。調教を施していないスレイブならなおさらだ。他に解釈のしようがないように命令を限定しなければ――」

「そっ、そんなの後出しじゃない! ずるい!」

「勉強不足だ」


「あの」アイリスの背後で、マーガレットが手を挙げた。「それずっと続けますか?」


 アイリスは先ほどとは別の意味で顔を赤くし、レギンはそれを見て静かに煙を吐いた。


 アイリスは胸元の指輪を、服の上から強く握った。

 レギンの言動の正体は分からないが、この操術士は自分たちを助けようとしている。

 それだけは事実と考えていいのかもしれない。


 もしここで、レギンの言葉を嘘だとして信用できないとはね退けたらどうなるか。

 アイリスは振り返り、不安げに顔をゆがめる仲間たちを盗み見た。

 自分たちはすでに八方ふさがりで、レギンに縋り付く以外に道は無かった。


「レギン。リコリス様を助け出すために、協力して」

「わかった」レギンは頷き、タバコの火を消した。



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