01


 アイリスは夜の森を走っていた。


 足元は不確かで、頭上を覆う葉の隙間から差し込む月光がだけが頼りだった。


 振り返る余裕はない。

 追っ手はすぐそばまで来ている。

 あちこちから悲鳴が聞こえ、そして止んでいった。


 アイリスは背の低い、年若い少女だった。

 長い髪は黄金のようで、肌は雪のように白い。

 人形と見まがうほどに端整で美しい顔は、焦燥と不安にゆがめられていた。


 荷物は無い。

 ぼろきれのような服の下で、首にかかったネックレスが音をたてている。


 木の根に躓き、膝をつく。

 心臓が破裂しそうだった。


 仲間とはぐれてどれだけ経っただろう。

 自分がどこにいるのかわからない。

 もううずくまってしまいたかった。


 背後に気配が迫ってくる。

 捕まったらどうなるかなんて、想像したくない。

 鼻水をすすって、大きく息を吐く。


「立て!」アイリスは自分に叫ぶ。「立てってば! 早く!」


 足ががくがくと震えていて、もう一歩も進めない。

 袖で涙をぬぐい、胸元のネックレスを痛いほどつかむ。

 ネックレスは細い鎖で、小さな指輪が通されている。


 アイリスは「精霊術」を使えない。

 仲間とはぐれてしまった今、アイリスの武器はこの指輪だけだった。


 近くで物音がして、アイリスは身を固くした。

 現れたのは悲壮な表情を浮かべた二人の「隷属種」だった。

 一人は年若い少年で、もう一人は年老いた女だった。

 アイリスを見て驚いたように目を見開いている。


 アイリスは慌てて外套のフードを被りなおした。

 自分の優れた容姿が、これまで良い事態を招いたことが無かったからだ。


 老婆はアイリスから目をそらし、少年を背にかばうようにして走り出そうとした。

 アイリスは助けを求めるように手を伸ばしかけ、やめた。

 この者たちとは知り合いでもなければ顔見知りですらない。

 たまたま同じ場所に居合わせて、共通の敵に襲われた。

 ただそれだけの関係なのだ。


 しかし少年と老婆は数歩駆け出して、ゆっくりと歩みを止めた。

 二人は苦しげに呻くと、それぞれ自分の首を抑えてその場に膝をついた。


 少年と老婆はすぐに立ち上がった。

 二人の首元には、さっきまでは無かった模様がぐるりと巻き付くようにして刻まれている。

 精緻な刺青のようなそれは、操術による「首輪」だった。

 二人は、今の一瞬で「スレイブ」にされてしまったのだ。


 アイリスは身も凍るような思いだった。

 下半身が無くなってしまったように、その場から動けなかった。


「そんな!」老婆は絶叫したが、直立不動の姿勢を崩すことはなかった。「やめて! お願い! この子だけは!」


 少年は事態を理解できていないのか、涙を流しながらただただ困惑しているようだった。


 やがて森の奥から追っ手が姿を現した。

 若い男が二人と、女が一人。

 首には紋様があり、彼らもスレイブだと一目でわかった。


 彼らの背後から、一目で「支配種」と分かる態度の男がやってきた。

 彼らのオーナーと思しき操術士だった。

 陰湿な笑みを浮かべた、背の低い中年の男だ。


 男が一瞥すると、喚き続けていた老婆が口を閉ざした。

 新たな命令が下されたのだろう。

 首輪をつけられた以上、どんな人間も命令に逆らうことはできない。


 少年と老婆はきびきびした動きで男の方へ体を向けた。


「ガキと、こっちは……ババアかよ」操術士の男は唾を吐いた。「冗談じゃねえぜ」


 少年はしっかりした足取りで歩きだし、操術士の男の前に立った。


「質問に答えろ。年は?」

「……八歳」

「魔術は何が使える?」

「火を」少年の声は震えていた。「火を出せます」

「性能チェックだ」


 男が言うと、少年はくるりとその場で体をまわし、老婆の方に向き直った。

 アイリスはこれから起こる事態を想像して、小さく息をのんだ。


「だめっ!」少年は泣きながら右手を掲げた。「だめだって! やめて! いやだ!」


 手のひらに小さな火が生み出され、拳ほどの大きさの球体となった。

 火はゆらゆらと羽虫のように漂うと、直立する老婆の鼻先に付着した。


 出力が弱いのか、火は老婆の顔から少しずつ燃え広がっていった。

 老婆は命令により叫び声をあげることもできず、やがて全身を燃え上がらせた。


 アイリスはおぞましい光景を呆然と眺めていた。

 肉の焼ける匂いが広がり、老婆はようやくその場に倒れた。

 死ぬことで命令から解放されたのだ。


 どうしてこんなひどいものを見なければならないのか、分からなかった。


「どうして?」


 我知らず、アイリスは呟いていた。

 まるで悪夢を見ているような気分だった。


 操術士の男は退屈そうな表情であたりを見回して、アイリスを見つけた。「お前もガキか?」


「……どうしてこんなことができるの?」


 操術士は、聞き分けのない子供に言い聞かせるように笑った。


「こんな年取ってたら、買い手がつくわけねえだろ」


 アイリスはびくりと肩を震わせ、我に返った。

 呆けている暇は無い。

 次は自分の番だ。

 アイリスは胸元の指輪を、服の上から握りこみ、小さな声で起動の文言を唱え始めた。

 唇が震え、心臓が焦燥感に張り裂けそうになる。


 男がアイリスに手をかざした。

 アイリスには知覚できないが、おそらく操術が発動されている。


 そして、男はすぐに不思議そうに首を傾げた。


「どうなってんだ」男は覗き込むようにアイリスへ目を向けた。「何で『糸』が挿さらねえ」


 男の合図で、三人のスレイブは一度目を合わせて、そのうち一人が手を掲げた。


 アイリスは視界がぐらつくのを感じた。

 スレイブたちの魔術が直撃しているようだ。

 どんな術なのか、アイリスにはわからない。

 体から力が抜ける。

 舌が回らなくなって、文言が途切れ、起動に失敗する。

 頬に冷たいものが触れている。

 地面だ。

 いつの間にか倒れている。

 意識が遠のいていく。


 アイリスが最後まで目にしていたのは、未だ燃え盛る老婆の死体だった。


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