本文
予期せぬ衝撃、そして予期せぬ出逢いであった。
薄暗い路地で立ち尽くすサム・ローズウッド弁護士の前には、黒塗りのバン。その窓から伸びた複数の銃口が、彼に向けられている。
己の命運を悟ったサムが、せめて目は閉じてやるまいと歯を喰いしばったとき、助け舟は現れた。
けたたましいブレーキ音を立てて間に割って入ってきた、冗談みたいに大型のバイク。そしてその化け物じみたマシンに跨るのは、ラフな格好をした女性だ。
虚を衝かれた殺し屋たちのうごきが止まる。ほんのわずかな空白。普通ならば、どうあれ未来は変わらなかっただろう。せいぜいサムの寿命が数秒伸びて、失われる命がひとつ増えただけのことだった。
だが、そうはならなかった。
左手だけをハンドルから離した女性が、程よく締まった腰を捻って、サムに背を向ける。つまりはサムの盾となる格好で、バンを正面に見据えたのだ。そして次の瞬間、バシッという音とともに、背中越しに青白い光が見えた。かと思うと、発射音。さらには肉を抉り骨を砕く音と、殺し屋たちの悲鳴が響く。サムの立つ位置からはろくに見えなかったし、そもそも女性の形の良い尻をぼんやり眺めていたため判然としなかったが、おそらく彼女は至近距離から機関銃による乱射をお見舞いしたのだ。車内の惨状からして、夥しい数の弾丸が彼らを襲ったにちがいない。
サムは改めて、目の前の女性を注視した。半ば現実逃避に近い、さっきまでの助平な見方とはちがう。窮地を救ってくれた英雄に対するそれだ。
引き締まった身体はよく鍛えられていて、細身ながらも逞しい。
短く刈られた金色の髪は、それでもなお、街灯の明かりに照らされて
タンクトップにカーゴパンツ、腰に巻きつけたウエストバッグ。うごきやすさを優先したラフな服装は、彼女から溢れ出る生命力の強さと、よくマッチしていた。
もちろん真に気にすべきは、別のところにあった。
銃を構えた男たちに身を曝け出す度胸と、そして彼らより速く目の前の敵を撃ち抜いた機銃掃射の腕前。サムは彼女の勇気に感動し、その凄まじい戦闘力に怯んだ。
殺し屋たちからの反撃の可能性はないと踏んだのだろう。ふいに女性がバンから顔を背け、横を向いた。同時に、その視線の先に新たな車が現れる。急ブレーキをかけて停まった後、ふたりの男が降りてきた。
男のうち、短いブロンドの方がわめく。
「ったく、たまんねえよ! ひとりで突っ走ってっちまうんだから」
もう一方のハンサムな赤毛の男も、しかめっ面で頷いている。
「これじゃあチームを組んでる甲斐がないぜ。単独行動は厳禁だって、クリストファー先生も言ってただろ」
批判的な言葉に反して、ふたりとも彼女を責めているというより、手柄を独り占めされたことが悔しくてたまらないという風情だった。
「馬鹿言ってんじゃないよ。あんたらののろまな足に合わせてたら、いまごろ保護証人は蜂の巣みたいになってたさ」
概ね予想はついていたものの、その会話を聞いて、サムは彼女たちが何者なのかを確信した。男のひとりが口にした、クリストファーという名前の人物にも心当たりがある。
ここでようやく初めて、女性がそのシャープな面立ちをサムに向けた。瞬間、彼はびくりと身を硬くする。
「ヘイ。あんたが噂の、強情っぱりな弁護士さんってことで間違いないね?」
口角を軽く上げて放たれた、薄い笑み。その笑顔はサムの目に、勝ち誇った
また、予想に反して彼女の左腕には機関銃など握られておらず、代わりに腕自体がふたつに割れ、その上で無数のボールベアリングが8の字を描くようにして舞っていた。奇々きわまる異常な現象。しかしサムは一向に気にしなかった。
「き、きみの……」
なぜならば、彼女の笑顔があまりに力強くて。可憐で。眩しくて。たまらず夢中になってしまっていたのだ。
質問に答えるどころか、逆にたどたどしく訊ねる。
「きみの名前を教えてくれないか?」
三人の屈強な生命保全プログラム従事者たちが、揃って目を丸くし、次いで首を傾げた。
これがサムと、彼の終生忘れ得ぬ恋人、ラナ・ヴィンセントの出逢いであった。殺し屋たちのくぐもった呻き声すら、このときのサムの耳にはファンファーレのように響いていた。
サムの想いが実り、ラナと交際を始めてから数年が経過した。
その日、サムは朝目覚めたときから、ひどく緊張していた。
事務所へ出勤し、書類仕事に追われていく中でも、その強張りがほぐれることはなかった。視野は狭く、信頼する秘書や、半年前からインターンとして入っているボブとも、必要最低限の言葉しか交わさない。キーボードを叩く指は硬く、山積みになった書類ひとつひとつの手触りに、わけもわからず苛ついた。知らず舌打ちが漏れる。
己の発散する空気は、随分とまわりにプレッシャーを与えていたらしい。お調子者ながら好青年のボブが席を立つとき密かに吐いた溜息を見て、ようやくそのことに気がついた。
「一服なさった方がよろしいかと」
恥じ入る間もなく、秘書のソルト・ホットスプリングがデスクの横からコーヒーを差し入れてきた。ふいをついた、絶妙のタイミング。一瞬だけ頭の中が空になる。
礼を告げ、カップに口をつけた。コーヒーの香気と程よい苦味で、思考がクリアに。広がっていく視界と、認識できるようになった周囲の色彩。それに伴ってサムは今日初めて、意識して息を深く吸い、そして吐いた。
「よほど、重要な案件を抱えているようですわね」
やさしげな微笑みを浮かべて傍らに立つ、自慢の秘書をサムは見上げた。そして事務所設立以来、ずっと支えてきてくれたこの壮齢の女性に、内情を打ち明けていいものかを思案する。
彼女はサムがとある事情で弁護士協会から一時除籍されていたときも理解を示し、変わらず力になってくれた信頼できる仲間だった。しかしプライベートについてとなれば、やはり話は別である。
「……青少年の未来が懸かっているからね。どうしても力が入ってしまうよ」
結局思いとどまり、代わりに現在取り組んでいる、本業での最大の懸念事項に触れた。家族を脅された少年が、脅迫してきた麻薬の売人を銃で撃ったという事件だ。
「ああ、例の……。
ソルトはラナの名前は出さず、彼女の所属する組織についてだけ仄めかす。サムの緊張の理由がほかにあることを悟り、見透かしているのかもしれない。サムは動揺を見せないようにするだけで精一杯だった。
「うん。難しいが、なんとしても示談に持っていかなければならない」
ソルトが、少し寂しげに笑みを深める。
「……あまり、張り詰めすぎないでくださいね。お昼はいかがします?」
「ありがとう。ボブが戻ってきたら、軽く食べてくるよ」
彼女は頷いて、自分のデスクへと戻っていった。身寄りのないサムにとって、得がたい貴重な味方だ。内心、母か姉のように慕ってもいる。だからこそ気恥ずかしくて、私的な相談には抵抗があるのかもしれない。
いっそストレートに言ってやれたら、この心も少しは楽になるのだろうか。
今夜、自分は恋人にプロポーズするんだぞ、と。
終業間際になってくると、さすがに緊張してばかりもいられない。やるべきことは山ほどあるのだ。むしろ仕事に没頭することで、差し迫る
きりのいいところで手を止め、残りは明日以降へ回すことに決める。ソルトとボブは、もう少しかかりそうだ。少し後ろめたいが、このあとのスケジュールは万が一にもズラせない。詫びながら、ふたりに適当なところで切り上げるよう指示を出し、ソルトに戸締りを頼んだ。サムの普段の勤勉さを理解しているふたりは、快く受け入れてくれた。
鞄を手に、立ち上がる。
「ヒゲを生やした、かわいいイルカ様のご退勤ですね。今夜も街は平和らしいや」
復調したサムの様子を見て、ボブが軽口を叩いた。サムは最大限、凶悪な表情を作らんと不敵な笑みを浮かべる。
「生憎だがね、ボブ。このマルドゥック
空いた手を構えて指をわしわし蠢かせながら、歯をカチカチ鳴らしてみせた。
サム自身は、この大仰な仕草はなかなかに迫力があると思ったのだが、ボブには伝わらなかったらしい。なぜだか手を叩いて喜んでいる。ソルトでさえも、口に手を当てて笑いを抑えていた。
「お気をつけて」
「……うん、ありがとう。お先に失礼するよ」
若干のしこりを残しつつも、サムは和やかな気持ちで事務所を出ることができた。つくづく、気を許せる仲間たちに感謝したいと思った。
そしてディナーに備えて手早く支度を整えるため、急いで自宅へと向かう。
もう鏡の前で三十分以上、どのタイにするべきかで悩んでいる。
服装は昨日までに散々吟味して決めていたのだが、ここに来て迷いが生じていた。これしかない、という気持ちで選んだはずが、直前になってみると、いまいち納得いかない。こんなことがデートを前にするたび、しょっちゅうあった。
生来の生真面目さから来るサムのこういったぐずりを、ラナはよく笑い物にする。その憎めない表情がまた可憐でくすぐったいのだが、今夜は頼りがいのある男らしさをアピールしたいのだ。優柔不断な空気を匂わせたくはなかった。
いつもの知的路線とはちがう、別の方針で攻めるべきか。
紫のストライプを放り投げ、真っ赤なタイを手に取る。光沢を持つそのタイは単体では悪趣味と取られかねないが、濃紺のスーツに不思議とよく合った。
サムはまじまじと鏡の中の自分を見つめ、意味もなく、片足立ちでくるりと一周回ってみせる。うわついている。普段どんなに冷静ぶっていても、男って案外馬鹿なのだ。
しかし彼は、ただ無邪気にはしゃいでいるわけでもない。これは言うなれば、朝からつづいている緊張の発展形だった。一旦ほぐれたはずの強張りが決行直前に再発し、極度の興奮と入り混じったことで、制御しがたい感情となって全身に行き渡ってしまったのだった。ここまでになると、自力でフラットの状態に立ち戻るのは難しい。外部刺激か、時の経過に任せるか。でなければ、わけのわからないこのテンションの
サムは我が身を頭のてっぺんからつま先まで、穴があくほど眺めた。
よし、いい。これだ。
普段はラナになかなか気づいてもらえない、自身の獰猛さと情熱とをアピールするのにぴったりの装いだと思った。こびりついた軟弱なイメージを払拭し、逞しさと力強さを誇示するのに、これくらいの派手さは必要だという結論。口髭を指先で捩りながら、満足気に頷く。
先刻、ボブに揶揄された『ヒゲを生やしたイルカ』という言葉は、もともとラナが言い出した例えだった。口髭を生やして箔をつけようと目論み、さらには人食い鮫を自称するサムをからかって呼んでいるのだ。
恋人同士の冗談だったはずの比喩は、いつしかお互いの職場に広まって認知されていた。時にボブなど、場の空気を和ますために、わざわざ新規の依頼人にまで教えるほどだった。減給した。
ラナから始まった愛称だったので、実際にはそれほど悪い気はしていない。しかし今日は、彼女が自分への認識を改めるくらい熱い夜にするつもりだった。
ラナ・ヴィンセントは生命保全プログラムに基づいて命の危機にある証人を保護する、マルドゥック・スクランブル−09のメンバーだ。
対してサムは、初めは保護証人として。事件解決後は法律関係のトラブルに関する協力者として。そしてラナの恋人として、09メンバーと交流を持ってきた。
少数精鋭のタフな男たち。一癖も二癖もありながら、だれもが気のいい連中ばかりだった。
しかし、すでにその中の大半が命を落としている。凶悪な怪物たちとの戦い。悲惨な同士討ち。都市に蔓延る闇。逃れがたい黒い波が、かけがえのないものをいくつも攫っていった。かつてラナとともにサムの窮地を救いに現れた陽気な二人組――ジョーイとハザウェイも、もういない。
さらには頼もしい仲間のひとりが、かつてラナたちがこの都市へ訪れる前に、彼女のパートナーとなるはずだった女性を死に追いやっていたことも発覚したという。信じがたいことだが、自供も取れていたらしい。
サムはラナの胸中を思うと、自分こそ胸が張り裂けそうでたまらなかった。
いましかない。
いまうごかなければ、ラナを救えない。類稀なガッツの裏に隠れた、か弱い少女のように無垢な心を癒せるのは、自分だけなのだから。サムは夫婦という、対等であり不可侵である無二の存在となって、少しでも彼女の支えとなることを望んでいた。
結局、予定より何倍も時間をかけて支度を終える。その甲斐あってか、幸い自宅を出る頃には心身ともに落ち着いていた。
さあ、決めてやる!
夕暮れの中、タクシーで予約していたレストランへ向かっている途中、ラナから電話があった。
「ヘイ、ダーリン。悪いニュースだよ」
心底うんざりした、残念がるような声のトーン。風切り音が凄まじい。自慢のモンスターバイクを操縦しながら通話しているようだった。
「やあハニー。なにか嫌なことでもあったのかい? 俺でよければ相談に乗ろう」
サムは基本的に、プライベートでも「私」という一人称を用いる。公私での使い分けにさほど意味を見いだせなかったし、その方が相手を敬っている気がするからだ。しかしラナに対してだけは、少しでも自分を強く、大きく見せるために、意識して「俺」という言葉を選んでいた。
「ああ……。んー、ダーリンには申し訳ないんだけどさ」
対してラナは、サムを名前で呼ぶことを苦手としていた。付き合う前は自然と口に出せていたのだが、いざ恋人として意識してからは、照れくさくってたまらなくなったのだそうだ。だから基本、彼女はサムのことを茶化すように「ダーリン」と。時に機嫌の悪いときは「イルカ」と呼んだ。そこがまたなんとも――
「ヘイ、ちょび髭イルカ。聞いてんのかい」
「ああ、もちろん聞いているさ。それで、なにがあったって?」
ムッとした声音に拗ねる前兆を感じ取ったサムは、あわてて返事をする。この時点で、おおよその予想はついていたが、一縷の望みにかけて彼女の言葉を待った。
「ボイルドから指示が入ってさ。いま、ちょいと街の外れまで証人保護に向かってるとこ」
サムは鉄の自制心でもって、悲嘆に暮れた声を洩らさなかった。どうやら二ヶ月前から予約していた高級レストランでのプロポーズ計画は、水泡と帰したようだ。しかしラナの任務を考えれば、致し方ない。彼女の仲間たちの人数が大幅に減った現状を考えれば、なおのこと受け入れざるをえなかった。
「……そうか、残念だな。例の店はまたの機会にしよう。長くかかりそうなのか? よければ落ち着いてから、いつものバーで一杯やろう」
「わかんない。とにかく緊急で、うちのリーダーもちょっと慌ててる様子だった。……くそっ、せっかくドレスを新調したってのに」
ラナが忌々しげに吐き捨てる。叶うならサムも、大声でわめき散らしたい気分だった。
「ボイルドが? それはよっぽどだ。用心してくれよ、連絡を待ってる」
「
通話が切れた。
運転手に行き先の変更を告げ、店にキャンセルの電話を入れる。そこでようやくサムは、重苦しくて物悲しい、長い長い溜息を吐き出した。
半時間ほどあと。サムは用意していたバラの花束を運転手に強引に譲り渡し、行きつけのバーのカウンターに腰かけてウィスキーをちびちび舐めていた。一気にあおると止まらなくなるのはわかりきっていたので、自重しているのだ。
残念だ。残念だったが仕方ない。仕方ないんだ。そう心の中で、何度も繰り返している。そして今夜の悲劇をなんとかポジティブに受け取ろうと、躍起になっていた。むしろ計画がうまくいかなくてよかったかもしれない。セッティングに気を取られて、大事なことを疎かにしていた。それはお互いの業務内容だ。
仮に想いが実って一緒に生活しだしたとしても、どちらの仕事もイレギュラーが多い。時間が合わないことなんてしょっちゅうだろう。交際しだしてからこれまでのあいだ、何度同じようなことがあった? そのたびふたりは、障害を乗り越えてきたではないか。
プロポーズは慎ましい場所でもいい。誠意と愛さえ伝わればいいのだ。肝心なのは臨機応変に行動し、その上で彼女を満足させる、男としての度量だ。優れた対応力を見せつければ、ひょうきんなイルカ扱いされることも減るだろう。たぶん。
そう持ち直したサムは、バーテンダーに二杯目を要求する。
ただ、気がかりなことが二点あった。どちらも先ほど、彼女が口にしていた問題だった。
ひとつは新調したというドレス。普段はカジュアルを好むラナだが、フォーマルウェアもけして嫌いではないらしかった。生傷だけは気になるようだが、それも彼女の容色を損なわせるには至らない。細身だから、どんなドレスもよく似合うのだ。新しいドレス姿を今夜拝めなかったのは、無念に尽きる。
最近は自発的に髪を伸ばし始めているので、いまならウィッグも不要だ。「なにかに引っかけて絡まりそうで、落ち着かない」とは本人の弁だが、明らかに女の子らしい魅力が増した。だからこそ、今夜のデートが流れたことをなおさら惜しく感じる。
「くそっ……」
楽しみが先延ばしになったと考えて、耐えるしかなかった。
もう一点は、ラナの同僚であるボイルドが慌てていたということだ。ボイルドはいかにも戦場帰りのタフガイといった風体の、実直な男だった。自分と付き合うか迷っているラナを後押ししてくれたのも彼だという。そういう意味では恩人であった。
常に冷静な彼が狼狽する姿など、想像もつかない。あるいはラナが言っていたのは、仲間同士でしか見抜けない、わずかな機微の話だったのかもしれない。どちらにしろ、よほど急を要する案件なのだろう。何事もなければいいのだが。
二杯目の中身を半分ほど減らした頃、携帯電話からコール音が鳴り響いた。ラナだ。ほっとしながら電話に出る。
「ヘイ、ダーリン。どっかの女としけこんでやしないだろうね」
軽快な口調に、また安堵する。どうやら杞憂だったらしい。また、彼女もディナーの約束が流れたことについては、すでに気持ちを切り替えているようだった。
「そいつは思いつきもしないアイディアだな。ご期待に添えず申し訳ないが、ひとり寂しく安酒を飲んでいるよ。もう仕事は済んだのか?」
「いや……残念だけど、今夜は帰れそうにないね。ちょいと困ったことになっててさ」
一転して、すうっと血の気が引いた。
「なにかあったのか」
「いや、問題ない。あたしはね。ただ、あたしが着く前に、目当ての相手がかわいそうなことになっちまってた」
「そう……か」
仮に証人保護プログラムの申請が通ったあとでも、担当官の保護が間に合わず、悲惨なことになるケースはゼロではない。ラナに非はなくとも、さぞ無念だろう。
「ラナ……」
「いや、本当にあたしは大丈夫さ。世話になってたことのある人だから、ちょっとショックだったけど」
「それは……本当に残念だったな。いま、現場にいるのか?」
「うん。遺留品を調べながら、ボイルドの到着を待ってるとこ。だから当分、うごけそうにないね」
しめやかな空気に包まれる中、とうとうサムは己の胸の内を正直に明かした。
「なあ、ラナ。早くきみに逢いたいよ」
「あたしだってそうさ。今日のディナー、どんだけ楽しみにしてたと思ってんだい。……ああ、ちくしょう。また思い出しちまった」
がさごそと音を立てながら、ラナがわめく。つい微笑が漏れた。
「また予約すればいいさ」
「……まあ、店はそうなんだけどさ」
ふてくされるような声。彼女が甘えられる、信頼できる相手にだけ発する、かわいらしい信号。
「なにか、ほかにも理由が?」
家捜ししているらしき物音が、ぴたりと止まる。数秒の静寂。唾を飲む音が、電話越しに届いた。
「残念だった理由があるのは、あんたの方じゃない?」
期待と不安を伴った問いかけ。クリスマス前夜の子供が、親の様子を伺うような聞き方だった。真摯に答えるか、はぐらかすか。サムは前者を選んだ。
「気づいていたのか」
「おしゃべりイースターに、あたしの義手の指のサイズを聞いたんだろ? 筒抜けだって」
まんざらでもない口調に、心の底からほっとする。サムはゆっくり、やさしく息を吐いたあとで言った。
「いまも新しい作戦を考えていたところだったんだが、イースターを頼ったのは失敗だったな。ベッドの上で、きみが眠るか気を失うかしている間に、俺が自分で測っておくべきだった」
「ばーか」
ラナが鼻で笑った。お互い軽口を叩いてはいるが、張り詰めた空気が漂っていた。
今度はサムが唾を飲む。想定外だが、これこそ臨機応変に対応すべき、一世一代の場面だ。
ふるえを押し殺し、切り込む。
「……答えは?」
「ちゃんと言って」
「結婚してほしい」
「いいよ」
あっさりした快諾。たまらず、腹から「おおおおぉ」という声が熱く昇る。離れた席の客や、盗み聞きしているバーテンダーがこちらを見たが、知ったことではなかった。
「本当に?」
「オッケーだよ。あんたがマジに本気だってんなら、あたしが断る理由はないさ。こっちはイースターから話を聞いて以来、ずっと身構えてたんだからね」
思わず口笛を鳴らす。ラナからは、照れ隠しの舌打ちが返ってきた。
「慣れない化粧品使ったり、髪を伸ばしたりして、女らしさを高めてたんだ、け……ど」
唐突に、ラナの声が尻すぼみになって途切れた。サムは眉を寄せる。
「ラナ?」
「……悪い、一旦切るよ。急用ができた」
声のトーンは、さっきまでと一変していた。凄まじく危険ななにかを目撃したような、不吉を予感させる声だった。
「大丈夫、なんだよな」
「もちろんさ。でも、ちょいと頼みがあるんだ。あんたからも聞かせてほしい。“幸運を”って、そう言ってくれるかい?」
切迫した気配。冗談を挟む余裕はなかった。
「ああ、幸運を。……愛してる、ラナ」
「あたしもさ。愛してる。また電話するよ、サム」
「早く逢いたい」
「あたしもさ」
通話が切れた。
猛烈に嫌な予感がした。ほんの少し前の幸せな気持ちが嘘のようだ。
ボイルドやイースターに確認を取るべきか。いや、もしラナが窮地に陥っているなら、彼らが知らないはずはない。下手にうごいても邪魔になるだけだ。
待つしかない。待って。待ちつづけて。彼女と、彼女の仲間たちと、そして彼女の幸運を信じるしかなかった。
しかしこのあと、どれだけ待ってもラナから連絡が入ることはなかった。
二度と、なかった。
アルコールの瓶の山や、一度も口をつけないまま傷んでしまったソルトからの差し入れを蹴飛ばして、サムは外へ出た。
憔悴しきった頭と身体に、太陽の光は毒だった。自宅を出てのろのろと十歩ほど歩き、すぐにくずおれる。その場で黄色と茶色の混じった液体を土石流のごとく吐き出した。ポンプのように上下する腹が落ち着くまで、それはつづいた。しばらく経って立ち上がり、少し歩いて、また吐いた。
すれ違う人々は同情的ながら、みな揃って顔を背けた。近隣に住む者の多くは、この心やさしき弁護士の世話になったことがあり、そしてサム本来の人となりを知っているのだ。
彼らの目が告げていた。愛しい者の死は、これほど人の心を蝕むのかと。
多数の人間に痛々しい有り様を晒しながら、それでもサムは指定された場所まで、よたよたと歩いた。行かねばならなかった。自宅からそうは離れていない、人気のない路地裏へ。
目的地では男がひとり、サムを待っていた。暗がりで顔はよく見えない。
「ミスター・ローズウッド。その身体を引きずって、ここまで来てくれたことに感謝する。万が一にも人に見られるわけにはいかなかったのだ」
労いの言葉にそぐわない、機械のような声音だった。
「御託はいい。電話で言っていた件について教えてくれ」
男が頷く。
「手短に説明する。私の名はブレイディ。かつて、ラナやボイルドと同じ研究所にいた者だ。そして現在、ラナたちの仇を討つべく行動しているボイルドと利害が一致し、我々は協力体制に入っている」
サムはカッと目を見開いた。最愛の恋人をむごたらしく殺した、この都市のどこかで蠢く存在。そいつらに借りを返すというのか。
胸の内に、黒くて熱いなにかがこみ上げた。
「イースターたちには一切報告しないという条件込みで、あなたにも協力してもらいたいことがある」
断る理由など、あろうはずもない。
愛は実り、しかし花は散った。残った男は、ぐずぐずに傷んだ心の赴くまま、彼女を奪った闇に向かって突き進むことを誓った。
愛は実り、花は散った 渡馬桜丸 @tovanaonobu
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