第6話 ロスト
くもり止めのスプレーをガラスの表面にまんべんなくふりかけて、それからきれいな布で拭く。1枚目が終わったら踏み台を運んで、次の1枚をみがく。3枚目を終えようとしたとき部屋に誰かが入ってきた。作業を続けていると足音はすぐうしろまできて止まった。そのままじっとしている。
「ねえ、この絵を見てどう思う?」
この屋敷のご主人様だった。彼は作業の手を止めて、まじまじと絵を見つめた。
「きれいな絵っすね。でも不気味っていうか、赤い色が血の色みたいで……血なんっすよね? 実際…」
「うん、そうだね……僕も最初見たときは怖かった。でも今は違って見える……この絵を見て、流れてくる感情は『愛』だよ……」
彼は作業を終えて道具をかたづける。ご主人様のようすをうかがってびっくりする。
泣いてる……
彼はうろたえて、ハンカチをもっていないかとポケットを探し、この布はスプレー液を拭いたものだし、とためらう。
ご主人様は自分のポケットからハンカチを出して涙をふいて、ついでにちーんと鼻をかんだ。
ふふっと笑って、彼に言う。
「背が高いね。どのくらいあるの?」
「あ、195センチっす」
「体格がいいけど、何かスポーツやってたの?」
「アメフトをちょっとばかり……肘を壊したんでやめたんすけど…」
「アメリカ人なんでしょ? どうしてこんなところで働いてるの?」
「じっちゃんがここの執事さんの弟なんで…」
「名前は?」
「ギルバート・ブラウンっていいます」
「じゃあ、ギルって呼ぶね」
「は? ええ、まあ、大抵の奴はそう呼びますね」
「ギル、今夜僕の部屋にきて」
「はい!? え……」
ご主人様はいたずらそうに人差し指を唇の前にたてた。
「誰にも内緒でね」
それから部屋を出て行った。
あれはいったいどういう意味なのか? 夜伽を申し付けられたのか? いやいやそんなバカな……
そのあとの仕事はまったく手につかず、じゅうたんのヘリにつまづいて転ぶわ、ガラスの花瓶を落として割るわ、その破片を片付けていて指を切るわ、さんざんだった。
ご主人様の性癖はメイドたちから色々と吹き込まれていて、話半分としても夜の相手に選ばれたとしか思えない。よーし思い切ってやってやれと決心した直後、やっぱムリだ逃げ出そうと思ったり、でもご主人様のけたはずれの美しさ色っぽさに、あれならありかもと思ったり……
そして問題の夜がきた。
一応新品のパンツにはきかえて、ドアをそっとノックする。
「どうぞ」といわれて部屋にはいり、そっとドアをしめる。
ご主人様はデスクにむかって勉強していた。
「丁度よかった。ここの単語の意味がわからないんだ、教えて」
「はい?」
デスクに広げられたのは英語のテキストで、そういえばご主人様はリセの3年生だったのだと思い出す。
「えーと、これはっすね……」
なんだ、俺がアメリカ人で英語を話すから勉強相手に選ばれたのか。
「……英語もフランス語もぺらぺらですごいよね」
「うちはじっちゃんが家の中でフランス語しかしゃべらないから、英語と半々で育ったんすよ。ちゃんと勉強したわけじゃないっす」
しばらく勉強相手になる。
「やっぱりネイティブな発音が大事だよね。おはよう、は何ていうの?」
「グッモーニン」
「さよならは?」
「バーイ」
「こんにちは」
「ヘロー」
「愛してます」
「ラビュー」
「抱いて」
「メイクラッミー」
「メイクラッミー……これで合ってる?」
へっ? と思ったときは首に手を回されてキスされてた。
ああ、やっぱり夜のお相手に選ばれたんだ……
というか……キスがうますぎる。
舌づかいというか、吐息というか、くちゅくちゅと吸っては離れてじらされるているうちに、下の方が熱くなってくる。
男、だよな? それなのに、キスだけでこんなに感じていいのだろうか?
ベッドに手をひかれて、「ご主人様……」とつぶやいたら、
「いやだなあ、ふたりきりのときはシオンって呼んで」といわれて、
「シオン……」名前を呼んだとたんに、何かがふっきれた。
シオンの身体は全体的に色素が薄い。髪もアンダーヘアーもプラチナブロンドだし、よく見ると睫毛やうぶ毛までそうだ。手足は細長くてしなやかで、ウエストなんか両手でつかんだら指が届きそうだ。とても自分と同じ男の身体には思えない。でもついてるものはしっかりついてる。これをどうしたらいいのだろう?
乳首はピンク色でぷっくりしている。そこをつまんでみた。
「ああ……」とあえぎ声があがる。
「乳首感じるんだ?」ときくと、
「いじられすぎて、感じるようになったのかな……」色っぽい目でいう。
そんなことをいわれたら、ますますいじりたくなる。
「……あ…あん……」
上気した顔と声にものすごくそそられる。
「……なめさせて……」といわれてくわえられる。
ご主人様にそんなことをさせていいのだろうか、というためらいは腰が砕けるような快感でどこかへいってしまう。
キスもうまかったが、こっちはそれ以上だ。
てのひらでにぎって唇と舌を使って、先端から裏までなめてくれる。
もう爆発してしまいそうだ。はあはあいっていると、
「ちょっとまって」と寸止めされる。
かんべんしてくれよお。涙目になる。
「これ、使うから」
どこからとりだしたのか、ローションをたっぷりてのひらにとって、塗ってくれる。それから自分の後にもたっぷりと塗りこめる。
「ギルのは大きそうだから」また誘うような目をする。
そうっすか、やっぱそっちっすか。
正直そっちの経験はほとんどない。あんな小さなところにはいるのだろうか? 無理なんじゃないか?
またがられて、ゆっくりとはいっていく。
ちょっと苦しそうな顔がまたそそる。
やっと全部はいると、
「……見て、僕のお腹、ギルの形がわかるよ……」とかいう。
すごい、ほんとだ。薄いお腹が俺の形にふくれている。
すきまないくらいにいっぱいなのに、シオンは腰を上下させる。
からみついて絞り上げられる感覚。シオンの色っぽいあえぎ声と表情。腰やふとももの肌ざわりなんかがどっと押し寄せてきて、はあはあいいながら射精してしまった。
いい……すごくよかった……
俺が終わったのを感じて動きを止めていたシオンがまた腰を使いはじめる。
「あ、このまま2回戦っすか?」もう十分なんすけどと匂わせると。
「……僕はまだ気持ちよくなってない……」
ああ、すねてる。かわいい……って、そうじゃないよな。
やっぱ目の前のこれをどうにかしないと……でも他のヤローのナニなんかさわったことねえし。さわりたくねえし……
でもこいつはさっき俺のをなめてくれたんだし、今も中にはいってるし。
さわってやらねえとアンフェアだよなあ。
ぐずぐずしてたらシオンが自分でにぎった。もう片方の手で自分の乳首をつまんで、あんあんいいながらまた腰を動かしはじめる。いじられすぎて感じるようになったとかいって、自分でいじりすぎたんじゃねえの? すげえエロい。エロすぎる……
下半身に熱がこもってくる。それはどんどん増していって、がまんなんてできなくて……
またイッてしまった。
はあー、よかったー。2回目の方が早かった。俺の身体どうなってるの? たまってたのか? そうだ、きっとそうだ。
しかし、シオンはジト目で俺を見下ろす。
「……ひどい、自分だけ2回もイッて……」
ごめんなさい。俺が悪いっす。ご主人様に奉仕するのが召使の役目。なのに、満足させられなくて、ごめんなさい。
「タイミングっすね。ここ握っていいっすか?」
自分のを握るときよりそっとやる。強くにぎったら壊れそうだ。軽くしごく。
今までよりもっと甘いあえぎ声をだして、シオンの身体がのけぞってふるえる。
ついでに乳首もいじる。すげえ可愛い声でなく。
「……いや……やだ……」って全然イヤがってねえし。
腰を突き上げて、シオンの動きに合わせる。シオンのをしごくとケツの穴がしまってこっちもグッとくる。先端を指でなでると先走りの液が浮かんでくる。
こんな感じかな? もうちょっと? ああ、ここだな。
シオンのあえぎ声と俺のあえぎ声が混じりあう。
ほとんど同時にイッて、シオンは満足そうにくくっとのどをならした。
シオンのは思ったより飛んで俺の顔にかかる。俺のとは違ってバニラみたいな匂いがする。
「あ、ごめん」
「いいっすよ。俺なんか3回も中に出しちゃって……」
指ですくってなめた。やっぱバニラの味がする…ような気がする。
シオンはゆっくり身体をはなすと、俺の横に転がった。
「シャワー、あっち」
あ、身体を洗って出ていけと? 余韻も何もねえのね?
部屋にシャワールーム完備か。この屋敷には別にジャグジーつきの大浴場もある。ご主人様専用でいつでも入れるように準備してある。
シャワーを浴びて身体をタオルで拭いていると、シオンがけだるげな身体とうるんだ目でいった。
「よかったよ……明日の夜もまたきてね」
「うっす……」
とはいったものの、あまりの可愛らしさにムラムラときて、もう一度抱きしめてしまった。俺の人生は終わった気がする……
やってしまったものは仕方ない。1晩で4回というのは俺にとっても新記録で、なんだか腰がだるい。しかし、仕事はしなければならない。
エントランスの螺旋階段の手すりをみがいていると、ご主人様が登校なさる途中で、俺のほうを見てにこっと笑ってウインクしてきた。
俺は手すりみがき用の布を取り落とし、あわてて拾おうとして手すりに頭をごんとぶつけた。痛い! ご主人様がくすくすと笑いながら玄関を出て行く。
あんまりだ。あのけろっとしたさっぱりしたという顔。こっちはへろへろになっているというのに。
それからほぼ毎晩呼ばれて、ご主人様に奉仕した。
英語の勉強をしたいというのも本心のようで、スラングまじりの英語を教えた。ご主人様はおぼえがよくて、日常会話程度なら不自由ない程度まできた。
2週間も過ぎた頃、大伯父、つまり執事さんに呼ばれた。
「お前は有頂天になっているようだが、我々は召使、分をわきまえるようにな」
「……うっす」
そりゃそうだ。いくら親しくなっても、毎晩俺に貫かれて尻を振っていても、ご主人様はご主人様で……つまり雲の上の人だ。そろそろやめどきなのかもしれない。このままだと、別れがつらくて、あの絵を描いた画家みてえに、お前を殺して俺も死ぬ……なんてことにもなりかねない。
は~あ。あんた可愛すぎるんだよ。
それで、その夜シオンに告げた。
「俺、アメリカに帰るよ」
「えっ、どうして?」
「どうしてって……おじきにいわれた。分をわきまえろって」
「どういう意味?」
「俺は召使で、お前はご主人様だってことさ」
シオンの目がじっと俺の顔を見る。
「……どうして泣いてるの?」
「泣いてねえよ」
シオンの舌が頬をなめ上げる。
「じゃあ、抱いてよ。忘れられない夜にしようよ」
それで、そうした。
* * * * *
アメリカにもどって、また大学に通い始めた。
親に大学くらいは出ておけといわれたからだ。
アルバイトも始めた。スーパーの荷物運び。誰にでもできる仕事だ。
昔の仲間から誘われたが、もうバイクを転がしたり、真夜中に廃墟を荒らしたりとか興味ないから、断った。俺はすっかりふぬけになっていた。
2週間くらいしたとき、惰性で受けていた講義の途中で、隣に誰かがすわった。
「ここすわっていい?」
「いいよ」
声に聞きおぼえがあって、顔をちらっと見る。思わず2度見する。
「え?!」
驚いた。人生で一番驚いた。テキスト類を全部床にぶちまけたくらいだ。
教壇で教師がえへんえへんと咳払いをし。俺はあわててテキストを拾い上げる。隣の奴が手伝ってくれる。
「なんであんたがここにいるんだ?」ひそひそ声できく。
「驚いた?」うれしそうだ。
「そりゃ驚くよ。手紙とか電話とかするだろ、普通?」
「アメリカ留学って一度やってみたかったんだ。期間は一応一年間」
シオンだった。
プラチナブロンドの髪。ライトブルーの瞳。これは夢? 幻覚?
俺、薬とかやってたっけ?
「……あんたリセの3年生だったろ? 留学するなら高校生だろ?」
「スキップっていう便利な制度があったんだよね。特待生だよ。ここの大学いろいろとゆるいね」
まったく否定できない。中退した俺がすぐに復学できたくらいだし……
って違うだろ?
「何しにきたんだよ?」
「メイクラッミー」見つめられる。
「ぶほっ!」
またテキストを落として、今度こそ教授を怒らせた。手のひらをひらひらさせて出て行けという合図。
仕方なく教室を出る。
校舎のかげでキスをした。止まらなかった。2週間ぶりだったし、あいかわらずため息がでるほどきれいだったし。
とおりすがりの何人かに見られたけど、かまってられなかった。
あそこが熱くなって困った。今すぐ押し倒したい。しかし、いくらなんでもここで始めるほど愚かではない。
「……僕の部屋にいこうよ……」耳元でささやかれる。
「部屋って?」
「大学の寮にはいったんだ。すぐそこだよ」
手をひかれた。
「同室者がいてね。いい人だけど、変わってるよ」
ふたり部屋? なにかあったらどうすんだよ? 心配になる。いったいどんな奴なのか?
そいつは部屋にいた。
ジロリとにらみつけてやった。
気の弱そうな、やせてメガネをかけた男だった。
「あれ、講義は?」ちらちらと俺のほうを見る。
「うん、追い出された……ねえ、1時間、じゃなくて2時間くらいどっか行ってくれない?」
「僕は昼からしか講義ないんだけど……いいよ。うん。じゃあね」
素直に出て行く。にらんで悪かったな。
「彼ね、ひまさえあればギターひいてノートパソコンで曲を作ってるんだ。僕にささげる曲を作ってくれるってさ」
やっぱり危ない奴じゃないか。
それからたっぷり2時間かけて愛し合った。
俺も寮にはいることにした。同室の奴をおどして部屋を交換させる。奴は素直に従った。よかった、殴り合いにならなくて。
アルバイトにいくとき以外はずっと一緒にいた。講義も同じのをとったし、ごはんも寝るのも一緒で、ラブラブだった。
授業中に机の下で触ってくることもあって、触り返した。さすがにまわりが気になって最後までいかなかったが、スリルがあって楽しかった。
ちなみに俺は3年生でシオンは1年生だ。講義は何年生でも聴講可能で、時間数が足りて試験を通れば単位がとれる。単位がある程度たまれば終了資格がとれて、論文をひとつ書いたら卒業だ。2~3年で卒業する奴もいれば、10年くらいいる奴もいる。ゆるい大学だった。
その割りには部活動もさかんで、中でもアメフトは花形で俺はクオーターバックだったから、あの頃はすごくモテた。過去の栄光ってやつだ。なんで特定の彼女を作らなかったのだろう? そしたら今とは全然違っていたかもしれない。
肘の故障でアメフトをやめても、大学に残ったかもしれないし、フラフラしてるのを見かねて、フランス行きを命令されたりもしなかったろう。シオンとも出会わないで、こんなことにもなっていなかったかもしれない。
今だに俺は有名人らしくて、あっという間にうわさになったみたいだが、誰も正面からは文句をいってこなかった。
「ふぬけになりやがって、見てられないぜ」
文句をいってきた奴がひとりだけいた。アメフトをやめて、ついでに大学もやめて、いじけてたときにつるんでいた昔の友達だ。
俺が人生の変遷を味わっていた間、こいつはのんびりキャンパスライフにつかっていたらしい。学生の自主性を重んじるとかいいながら、ヤクの売人やってても、つかまらなければおとがめなしとは、ゆるすぎる学校だった。
「俺の勝手だろ? ほっとけよ」
「お前がいないとチームが締まらないんだ。もどってこいよ」
「だからもうそんな気はないって断ったろ? あきらめろ」
「このオカマのせいか? きれいな髪だが、どうせ染めてるんだろ?」
シオンの髪に触ろうとしたので、腕をつかんで止める。
「シオンに触るな!」
シオンはきゃっと叫んで俺のうしろにかくれる。なんだかうれしそうだ。
ふーんとそいつは良くない目で俺をねめつける。
「随分と入れ込んでんだな……もどりたくなるようにしてやるよ」
そうだ、忘れてた。こいつは執念深いんだった。ここでノシとくか? いやさすがに学内はまずいだろ。
奴は去った。
「今の人、知り合い?」無邪気そうにきく。
「昔、ぐれてたときにちょっとな」
「もどりたくなるようにしてやるって言ってたね? きっと僕を人質にして、君にいうこときかせる気だよ」なぜか楽しそうに見える。「守ってくれるよね?」
ああ、そういうことか。こいつはなにか面白いゲームかなんかだと勘違いしてる。
「あいつは相当なワルだから気をつけろよ」
「気をつけろって?」
「お前がもってるスマホ、緊急呼び出しボタンがついてるだろ?」
「うん、まあね」
「それでいつでも助けを呼べるようにしとくんだよ」
「えー、でもこれ使ったら、やっぱり危険だってつれもどされちゃうよ。せっかく自由なのに」
不満そうだ。
ケンカをするときは相手の顔の形が変わるまで殴るとか、女を犯すときも見かねて止めるまでやるとか、歯止めがきかなくて狂犬みたいに危ない奴だった。でも必要以上にシオンを怖がらせたくもない。
「つれもどされてもいいだろ? またお前の屋敷で俺をやとってくれよ」
「うーん、ご主人様と召使って関係も捨てがたいよね……」
こいつの頭の中はお花畑か?
襲撃は突然だった。シオンはナイフを首筋につきつけられてたが、スマホを右手に持ってたし、押す寸前だったから大丈夫だと思ってた。
ところがシオンはボタンを押すかわりに足元に落として、そのうえ蹴り飛ばした。スマホは植え込みのかげにすべっていった。
俺はあぜんとし、油断した。うしろから鉄パイプで頭を殴られて、地面に倒れて気を失った。
気がついたのは病院のベッドの上だった。
頭がずきずきする。包帯を巻かれてて痛むところを手でさわったら血がべっとりついた。
ふらふらと立ち上がる。
「まだ動かないで。挫滅創は縫えないから血が止まりにくいのよ。CTでは頭蓋内出血はなかったけど、朝になったらMRIも撮る予定だし」
説明しながら俺を寝かせようとするナースを押しのける。
「俺はどれくらい気絶してたんだ?」
「えーと……半日くらいかな……」
必死でひきとめようとするナースから俺の服と荷物を取り返し、多めに金を置いて病院を出る。
外はすっかり夜だった。
俺のスマホからシオンのスマホへ電話をかける。誰も出ない。まだあそこに落ちたままか?
くそうっ。頭がずきずきするし、足がふらふらする。
タクシーを拾って、さっきの現場までもどる。
もう一度スマホを鳴らす。
植え込みのかげでシオンのスマホが光ってメロディをかなでている。スパイダーマンのテーマだった。
拾い上げて、緊急呼び出しボタンを押そうとして、やめた。
胸が引きちぎられるように痛んだ。
あいつが押さなかったのに、俺が押してどうする。
タクシーで奴のマンションまでいった。
壁のパネルの受話器を取り上げて、奴の部屋番号を押す。すぐに奴が出た。
「俺だ」
「遅かったな」
「さっきまで病院で気絶してた。俺が死んでたらどうすんだよ?」
「あれくらいで死ぬタマじゃねえだろ?」
「……シオンはそこか?」
「ああ、上がってこいよ」
防弾ガラスのドアが左右に開く。俺は受話器を置いて中へはいった。
エレベーターで目的の階までいき、ドアをコンコンとノックする。
ドアが開く。中に入って、ドアを開けた奴に飛びかかった。
アメフトのタックルの要領で肩からぶつかる。二人、三人……
家具がふっとび、ガラス製品が砕ける。
横から鉄パイプで殴りかかってくるのを手で受ける。もぎとって床に落とし、そいつを殴りつけた。
最後のひとりに向かって歩く。そいつはベッドの足元にすわっていた。
「ま、待てよ……話をしようぜ……」
頭がすきずきするし、足がふらふらする。怒りで何も考えられない。
シオンは両手を頭の上で縛られてベッド柵にくくられてた。裸だった。連れ込んだ女をよくこんな風にして楽しんでいた。シオンにも同じことをしたのか?
シオンは俺から目をそらさずに、「ギル、遅いよ」といった。
顔を殴られて目の上や唇が切れていた。身体にも青アザがある。
左のふとももの内側にナイフで刻んだ傷が見えた。まだ血が流れている。
刻まれた文字はLOST、ロスト。
* * * * *
四人は床に倒れてうんうんうなるか気絶していた。元クオーターバックの肩タックルをまともに受けたんだ。骨折してるか、内臓破裂してるか。
奴は隠してたナイフを出して、襲いかかってきた。
腕をつかんでひねりあげる。ナイフを取り落とす。こいつは威勢だけで、抵抗できない相手をいたぶるのは得意だったが、ケンカは弱かったっけ。
腹を殴り、顔を殴った。怒りがおさまらない。
首をひねって折ってやろうとしたら、シオンが止めた。
「やめて! 殺しちゃだめだよ!」
俺は手を離した。奴はずるずると床に伸びた。すでに気を失ってた。
シオンの縛られた手をほどいてやる。
「何で泣いてるの?」シオンが不思議そうに聞く。
「泣いてなんかねえよ」
シオンはアザができて皮膚が破れた手首をさすった。
「……すまなかったな。俺のせいでこんな目に会わせて……」
やっと正気がもどってきた。室内を見渡す。物が壊れ、ひっくり返り、男たちが倒れている。まるでトラックが通ったあとみたいだった。
シオンはため息をついた。
「このくらいどうってことないよ……僕のほうこそごめんね。もう少しで友達を殺しちゃうとこだったね」
「こんな奴、ダチじゃねえよ……」
それから左のふとももの内側を見つめた。
「これって失うとか無くすって意味だよね?」
「ロスト……俺たちのチームの名前だ。俺はアメフトを失って、こいつも何かを失ってた。だからそうつけたんだ……」
シオンは少し考えて俺に聞いた。
「……僕のスマホ拾ってくれた?」
「ああ」
ポケットから出してわたす。
シオンは緊急呼び出しボタンを押した。
今さら?
「シャワー浴びるね。一緒においでよ」
シャワールームへ手を引かれる。
シャワーを浴びながらシオンは何度もうがいした。
俺も裸になって中へはいった。
シオンは俺にキスした。
「洗ってよ」と言われてた。
石鹸を手にとって泡立ててシオンの身体を洗った。腕、胸、腹、背中 そして足。ふとももの傷は深かった。一生消えないかもしれない……
頭の包帯が塗れて重くなってきたので、はずして捨てた。
「中も洗ってもらわないとね」
シオンの手が俺のペニスに石鹸の泡をなすりつける。
こんなときでもそれは正直ですぐに大きくなってくる。
背中を向けて、「入れてよ」と言われる。
後からシオンの身体を抱きしめる。ゆっくりと挿入した。
シオンがうめき声をもらす。
これは中を洗ってることになるのか? そういえば何度も抱き合ったのに、立ちバックは初めてだった。
「……さわって僕のお腹……ギルの形がわかるよ……」
腹をなでると、俺の形にふくらんでるのがわかる。
シオンのペニスをそっと握り、乳首をつまむとあえぎ声が大きくなる。
俺も腰を使った。
「……いい……すごくいいよ……」
頭がぼうっとしてきた。腰に力が入らない。
シャワーのお湯は流れ続けて、頭から流れだした血を洗い流していく。
のぼせそうだった。それでも続けた。
シャワールームはガラス張りで外の様子が透けて見えた。
黒い服の男たちがはいってきて、中を片付けはじめる。倒れた奴をかかえて外へ運び出している。
やがてほとんど同時に達した。ふたりではあはあと荒い息をはく。
シオンが身体をひねってまたキスした。
「……ありがとう……こんな大ケガしてるのに、助けにきてくれて……」
ガラスがコンコンと叩かれる。
「坊ちゃん、その男はどうしますか?」
「うん……病院へ運んで……もう限界みたい…」
一緒にシャワーとか、そもそもムリだったんじゃ……っていうか、お前はどこまで俺を……
言葉は声にならず、胸のひりつくような痛みは幸福感に流されていき、頭の中が真っ白になった。
* * * * *
「目の前で坊ちゃまをさらわれるとは、あきれて物も言えません……自分の力を過信していたんじゃないですか?」
そのとおりなんで反論できない。うつむいていると、
「少し修行してきなさい。いい学校があります」
オジキにいわれて俺はチベットの修行学校とやらへ行かされることになった。つい先日パリへもどったばかりなのに、今度はチベットとか……めまぐるしすぎる。
その夜会ったときにシオンにその話をする。
「えー、チベット? 僕も一緒に行く」とシオンがすねる。
「むりっす。ご主人様のいくところじゃねえっす。修行なんで」
「どのくらい行ってるの?」
「長くて3年だそうっす」
「3年も?」
「でも俺はもっともっと強くなりたいっす。ご主人様を守れるくらいに」
「それはそんなに大事なことなの?」
「そうっす」
「……いつ出発するの?」
「明日っす」
「え? 明日?」
「そうっす」
「……いきなり明日からいなくなって、長ければ3年なんて……僕がそんなに待ってると思うの?」
「ご主人様は自由っす。別に俺を待ってなくても、好きな人ができたら、俺に遠慮はいらないっす」
「ひどい!」シオンの目から涙がぽろぽろとあふれだす。「僕がこんなに好きなのに……ギルは僕を愛してないの?」
あまりにも可愛いので思わず抱きしめる。
「逆っすよ。お前が俺のことを忘れても、俺はお前のことを忘れない。そういう意味っすよ」
シオンはきょとんとし、それから涙をぬぐってちょっと笑った。
「……ねえ、アメリカじゃそんな話し方じゃなかったよね?」
「これは目上の方に対する敬語っす。俺、召使なんで」
やっぱ中途半端なフランス語と使いなれない敬語で変なしゃべり方になってるんだろうなあ。
「ふふふ、敬語なんだ。それもいいかも……」
ご主人様は何でもありなお方だった……
最後かもしれないと思うと名残惜しかった。
いつもより念入りに愛撫した。
この身体を、この声を、この表情を脳裏に焼き付けてしまいたかった。
チベットの学校は戦闘訓練の場所だった。
標高1000mの高地で、空気の薄さに身体がなれるだけで一苦労なのに、いきなり10キロ走らされた。これは毎日の日課だという。
拳銃の使い方、ナイフの使い方、棒術や体術の格闘技の訓練もあった。
生徒は国籍も肌の色もまちまちで、言葉が通じない奴もいた。毎日過酷な訓練をこなすのに精一杯で、生徒同士で仲良くなるヒマもない。というか、周りの奴はみんなライバルで敵という雰囲気だった。
ボディーガード養成学校かと思っていたのだが、明らかに雰囲気が違った。殺し屋養成学校みたいだった。
みんな殺気立っていたし、格闘技でも本気で当てに来る。いつ事故で死人がでてもおかしくないような状況だった。
知らない間に生徒が増えたり減ったりした。やめたのか、卒業したのか、死んだといわれても納得しそうだった。
少しづつ俺は慣れた。油断したら死ぬかもしれない。それは望んだことだったはずだ。そのくらいでなければいざというとき役にたたない。
俺の身体と精神は研ぎ澄まされていった。
3ヶ月くらいたった頃、卒業試験をすると告げられた。シオンには長くて3年といったが、短かったら3ヶ月という期間もいわれていたのだ。そんなことをいって期待はずれになったら恥ずかしいので黙っていたが。
俺は最短距離で卒業試験を受けられるレベルに達したのか? いや慢心してはいけない。試験が超難しくて合格しないとか、その試験で死ぬという可能性もある。俺は緊張して試験場にむかった。
部屋にはいる前にプロテクター一式をつけられた。ヘルメット、ゴーグル、ベスト、肘当てと膝当て。アメフトのプロテクターを思い出した。
部屋は広かった。30メートル四方くらいある。床、壁、天井はコンクリート製であちこち壊れたり、染みがついたりしている。それを補修してまた壊れてといった感じで、要するに弾丸や爆発や刃物のあとが無数にあった。これが試験場? やばすぎる。染みって、あれかな? やっぱ血のあとだよな?
むかって右側の壁際にテーブルがあって、武器が乗っていた。大小さまざまな銃や刃物、手榴弾や機関銃まである。教官が俺をその前に連れて行き、
「好きな武器を選べ」といって回れ右して部屋からでていった。
正面の壁際にも同じようなテーブルがあって、同じような武器が並んでいた。女がひとり、その武器を眺めていた。プロテクターはつけていない。長い黒髪をひとつにまとめて背中へ流している。着ているのは黒のスエットの上下だけ。中に防弾チョッキを着こんでいるのか?
女が振り向いた。
「久しぶりね。中々優秀だって聞いてるわ。どのくらいか見せてちょうだい」
「え?」
奥様だった。マダム・パトリシア・ベル。シオンの後見人で一緒の屋敷に住んでいる。だが不在がちで、顔をみかけたことはあるが、話したことはない。
「なんで奥様がここに?」
「わたしもここの卒業生だからよ。いつもは別の教官が相手をするのだけれど、今回は頼んで代わってもらったの」
ものすごくやばい気がする。奥様がここの卒業生で、オジキは俺をここへ送り込んだ。もしかしたらじっちゃんもうちの親もみんなグルで犯罪組織の一員なんじゃ……
「手加減は無用よ。始めましょうか」
彼女はピストルを手に持って、ぱんぱんと2発撃った。弾は正確に俺の額と心臓に当たった。プロテクターごしでもその衝撃はすさまじかった。のけぞって倒れる、痛みで気絶しそうだ。
「それでシオンが守れるの? わたしがシオンを殺しに来た殺し屋だったらどうするの? 戦いなさい」
俺は立ち上がり武器の中からピストルを選んで彼女にむけた。
足だ。足を狙え。
撃ったが当たらない。
彼女は素早い動きでかわし、今度はアーミーナイフを手に取って俺に迫る。
「遅いわね。それじゃウサギにも当たらないわ」
切りつけられる。動きは早く、正確で、プロテクターのない腕や足を狙ってナイフがきらめく。
間一髪でよけて、俺もナイフを手にする。
しかし、切りつけられない。防戦一方で、どんどん壁際に追い詰められる。
「がっかりだわ。そんなものなの? 役立たずはいらない。ここで死になさい」
無表情な冷たい目。ナイフの切っ先が俺の肌を浅く切り裂いていく。
俺は役に立たないナイフを捨てた。
素手のほうがまだましだ。
「まさか、素手でどうにかなると思ってるの? 甘いわね」
ゴーグルの中がくもってきたので脱ぎ捨てる。
ヘルメットもベストも肘当ても膝当てもいらない。動きが制限されるだけで邪魔だ。
彼女もナイフを捨てた。鋭い回し蹴りが飛んできた。腕でブロックするが打撃が重い。腕がしびれる。蹴りや打撃が矢継ぎ早にくりだされる。何とか全部受けきって、胴体めがけてタックルした。
床の上で彼女に馬乗りになる。両肩をつかんで床におしつける。
顔が間近にあった。一瞬見つめあう。相変わらず表情は読めなかった。
彼女がおとなしくなった。
「……合格よ。卒業を認めるわ」
俺は荒い息をしながら立ち上がった。身体中が痛い。あちこち切れてるし、打撲だけじゃなくてどこかにヒビくらい入ってそうだ。彼女のほうにダメージは見当たらない。息も切れてないし、すらりと優雅なたたずまいだ。
ピストルもナイフも体術すらプロとはこういうものかと思わされた。やばすぎる。こういう相手が何人も襲ってきたら勝てない。
「良かったわね。ノエルに間に合って。シオンが待ってるわ。あの子ね、12月24日が誕生日なの。両親が死んだのもその日。特別な日なのよ」
「……それで手加減してくれたんすか?」
「続きはパリで個人レッスンしましょう。弟子をとるのは二人目よ」
「一人目は誰っすか?」
「今は日本にいるわ」
「……聞きたいことが山ほどあるっす」
「あとでね。卒業したらコードネームを決めなきゃならないの。ちなみにわたしのコードネームはラモール」
「『愛』っすか。いい名前っすね」
「それはアモール。ラモールの意味は『死神』よ」
ぎょっとした。死神?
「あなたのコードネームはこれしかないでしょ? LOST、ロストよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます