第4話 ピエタ

 教会でその絵を見た時、なぜか身体が震えた。

 気がつくと涙があふれていた。

 その絵はピエタ。

 死んで十字架からおろされたキリストと、彼を抱く聖母マリアが描かれていた。


 宗教にはまったく関心がなかったので、それまで日曜日のミサは義務でしかなかった。ベルにつれられてたまに顔をだす程度。だからその絵が最初からそこにあったのか、途中から置かれたのかすらわからなかった。

 シオンは日曜日ごとにミサに出かけ、日曜日以外でもヒマさえあれば教会へいくようになった。

 シオンは飽きずにその絵を眺め続けた。

 死せるキリストには苦悶の表情はない。穏やかなだけだ。けれど血の気のない顔色とぐったりした姿で亡くなっているのがわかる。彼を膝に抱くマリアは若く美しく、母親というより恋人のようだ。悲しみと愛情のこもった目でキリストを見つめている。

 その絵がなぜ自分をひきつけるのかわからない。こんなに動揺させられるのかわからない。

 シオンはため息をつく。

 やがて気がつく。絵のすみの署名に。テオ・ベルナールという名前に。


「テオ・ベルナール?」

「うん。画家なんだけど、知らない?」

 彼はシオンの身体をまさぐるのをやめない。

「その画家に興味があるの?」

「最近はその人のことばっかり考えてるよ」

「やけるなあ」

 シオンは彼の胸に頬をよせる。気軽な遊び相手。それ以上でも以下でもない。

「宗教画で有名な画家だろ? 今シャンゼリゼ通りの画廊で個展をやってる」

「そうなの? 行ってみるよ。ありがとう」

 シオンの手が彼の中心に触れる。じらすように先端をなでる。

「そいつと寝てみたいって? 宗教画を描いてるような奴なんだろ? やめとけよ」

「どうして?」

「敬虔なクリスチャンなんだろ? 同性愛は禁忌だ。彼を地獄に落とすつもりかい? 君は天使の姿をした悪魔だよ……」

「僕は悪魔?」

 シオンの唇が彼のものをふくむ。舌の使い方も慣れたものだ。

「自覚がないのが始末におえない……」

 シオンは足を広げて彼のものを自分の中へ導く。

「……あ、あん……」あえぎ声がもれる。「もっと……もっと奥まできて……」

 彼はそのとおりにする。しなやかな身体を抱きしめ、なめらかな肌をなで、こころゆくまで堪能する。

 そして仄暗い思いを抱く。その画家がシオンの魅力に抵抗できるのか見てみたい。堕ちていくのなら、どこまで堕ちるのか見てみたい。

 そして堕ちた先でこういうだろう。

 愛と欲望と嫉妬がうずまく、天国のような地獄にようこそと……


 翌日、シャンゼリゼ通りを画廊を探して歩いた。

 すぐにみつかるかと思ったのに、けっこう歩き回ってやっと探し当てた。

 入り口で招待状の提示を求められた。

 もっていないというと受付嬢は困った顔をし、少し考えた末に、

「他の人には内緒ですよ」と通してくれた。

 パンフレットを渡される。

 歩きながら開いてみる。

 画家の生年、学歴などとともに近影も載っている。黒い髪に黒い瞳をした、優しそうな顔立ちの人物だった。とてもあんな激しい絵を描く人物には見えない。年齢は42歳。結婚していて、シオンと同じ年の娘がひとりいることもわかった。パンフレットには今回の出展作とともに画家の代表作も掲載されていて、その中にはシオンの心をわしづかみにした、あのピエタもあった。

 この人があの絵を描いた……

 シオンは写真をじっとみつめた。

 

 それから、画廊に並べられた絵をひとつづつ見てまわった。

 風景画、静物画、人物画。どれも写実的で生き生きとして美しかった。絵の下には値段もついていて、それが高いのか安いのか判断がつかなかったが、ほとんどの絵が売約済みになっていた。

 観覧する人はまばらで、シオンはひとつひとつの絵をじっくりと見て歩いた。

 どれも素晴らしい絵なのだろうが、心を動かされることはなかった。

 最後の1枚の絵の前で足が止まった。

 それは多分今回の目玉作品で、唯一の宗教画だった。

 幼子イエスを抱く聖母マリア。

 1歳にもみたない赤ん坊のイエスはぷっくりした両手を固く握り締め、すやすやと眠っている。口元には楽しい夢でも見ているのか微笑が浮かんでいる。わが子を見つめる聖母マリアの慈愛にみちた眼差し。その口元にも微笑が浮かんでいる。幸せそうな聖母子……

 シオンは足がもつれて倒れそうになった。

 近くにいた人があわててささえた。

「君、大丈夫?」

 シオンはふらついてその人にもたれかかった。

「だ、大丈夫です」

 とはいったもののとても立っていられない。

 その人はシオンを横抱きに抱え上げて、すみのソファに横たえた。くつを脱がせ、えりを広げてくれる。

「貧血かなあ……」

 シオンはあっと思った。

 彼だ。テオ・ベルナール。

 シオンは胸がどきどきした。あこがれの画家が目の前にいる。

「あの……握手してください。僕はあなたの大ファンです」

「いいとも」

 彼の大きな暖かい手がシオンの手を包み込んだ。

「親御さんはどこ?」

「あ……ひとりできました」

「ひとりで?」

「……はい」

 彼はうなずいて、「少し休んだらスタッフの誰かに送らせよう」とその場を離れる。

 シオンはそのすきにそっと立ち上がって、その場を離れた。


 何という醜態だろう。

 絵を見た衝撃で立ちくらみし、しかもせっかく画家に会えたというのに逃げ出してしまった。

 彼の心配そうな表情、大きくて繊細な手の感触。忘れられない……

 シオンは彼の手がえりを広げる感触を思い出す。そこから先を妄想する。

 手に入れたい。彼を自分のものにしたい。

 そうすれば、彼の絵も自分のものになる。

 自分に涙を流させ、打ちのめしたあの絵が……


 今回ばかりは慎重にやらなければ。いつものようなやり方じゃだめだ。彼は分別のある成功した画家で、家庭もある。社交界の退屈をもてあました男達と違って、簡単に自分の誘いに乗るとは思えない。今までだって、本当に手に入れたいと思えば思うほど遠くなったではないか。少しは賢くならないと。

 彼は考え、計画する。これほど考えたことはかつてなかった。


「学校へ行きたい」とベルに切り出した。

「いいわよ。どこの学校にする?」

 シオンはパリ市内の公立の中学校の名前を告げた。

「公立? 私立の方がいいんじゃない?」

「でも、公立に行きたいんだ」

 それまでずっと家庭教師にならっていたので、学校へ行きたいというのを彼女は喜んでくれ、さっそく手配してくれた。

 運転手つきの自家用車で送り迎えつきだ。

「わかってると思うけど、上級生や先生を誘惑して、放校にならないでね」

 と念を押される。

「そんなことしないよ。もう子供じゃないんだから」

 シオンは肩をすくめて答えた。


 初日は緊張したが、家庭教師の教え方がよかったのか、授業にはちゃんとついていけた。

 教室では浮いた存在にならないように気をつけた。

 あいさつは自分からしたし、声をかけられたら愛想よく返事をした。

 途中からの入学の理由を質問されたときも、

「身体が弱くて、ずっと家庭教師についていた」といったら同情してもらえた。

 順調なすべりだしだった。

 つねにニコニコしていることに努めた。ジョークをいって笑わせるこつもつかんだ。クラスメートの中には友達みたいな連中もできた。普通に楽しかった。

 

 アバンチュールを控えることはできなかった。それができたら普通の中学生になれただろう。

 シオンの心には大きな空洞があいていて、それを満たしてくれる相手が必要だった。

 さみしい、さみしいと常に訴える獣がいて、ときどきエサを与えないと暴れだしてしまう。


「例の画家には会ったの?」

「うん、会ったよ。握手してもらった」

「へえ、それだけ? まだものにしてないの?」

「接点がまるでないもの」

 シオンに電話で呼び出されて、公園のすみに停めた車の中で抱き合ってる。

 たまにはこういうのもいい。

「そんな面倒くさい相手はやめて、こっちで遊んでいればいいのに」

「それがね、その面倒くささも面白くてさあ……」

 それでこっちは抱いてほしいときだけ呼び出されるってわけか。

 まあ、喜んで呼び出されるのを待っているわけだが。

「学校に行き始めたんだって? もうパーティーには顔を出さないつもり?」

「うん、しばらくはね」

「学校の中で誰かみつけないの? 例えば教師とか」

「小学校のときにやって放校になってるから、それはやらない」

「すごいな。やってるんだ……」

 くすくすと笑う。

 小学生のシオンはさぞぞ可愛かったろう。そんな子が教師を誘惑する……

 めまいがしそうなほど退廃的じゃないか。

「笑わないでよ。ずっとがまんしてたから、もう暴れだしそうだったのに」

「この前会ってから1週間もたってないけど?」

「……1週間が限度ってことかな? 彼と寝るまで操を守ろうと思ったのに……」

 もう笑いがとまらない。

「操ねえ……ニンフォマニアって病気だっけ? 暴れだしたらどうなるの?」

「裸になって町に出て行って、だれかれかまわず声をかけるとか、体育館一杯の男たちに身を投げるとか」

「……警察につかまるか、精神病院に入れられるよ……」

 もう笑い事じゃない。そんなに深刻だったとは。

「僕は頭がおかしいのさ。こわくない? あなたのこともセックスしてる最中に殺しちゃうかも」

「ああ、それは理想的な死に方だ」

 車の中は狭くて、ハンドルやギアが邪魔で腰が動かしにくい。

「……もうちょっとシートを倒そう」

「……うん……」

 自分ならシオンを毎日だって抱いてやれるのに。さみしい思いなんてさせないのに。

 でもそれを口にしたら終わりになる。

 自分に夢中になりすぎる相手をシオンは嫌う。そういう連中をたくさん見てきた。

 夢中にさせて手ひどく振るのが趣味かとすら思っていた。

 気軽な遊び相手。その位置で十分だ。


 樹かげで少女は本を呼んでいる。近づいて、

「何を呼んでいるの?」と声をかける。

 少女は本を閉じてシオンを見上げる。精一杯笑顔を作ったのだが、少女は黙ったまま走り去ってしまう。

 そんなことが2、3度あった。

「もうあきらめろよ」

「もっと可愛い子にしろよ」

 友達が忠告するが、

「でも、あの子がいいんだ……」

 あきらめきれない。彼女の名前はエレナ・ベルナール。テオの一人娘だ。

 エレナと親しくなって家に招待してもらう……

 残念ながらその計画はいったん保留にすることにした。


「ねえ、昔の家に住みたいんだけど、いいかな?」

 シオンが母親と暮らしていた家は学校の近くにある。古くて大きくて立派な家だ。今も売らずに、定期的に手を入れて、いつでも住める状態を保っている。

「いいけど……急にどうしたの?」

「あそこなら学校も近いし、友達も遊びにきやすいから」

「友達って……乱交パーティーでも開くの?」

「違うよ。普通のクラスメートだよ」

 まったく僕を何だと思っているのだろう。信用がないにもほどがある。

「一人暮らししたいの?」

「心配ならベルも一緒にくるといいよ。部屋ならいっぱいあるし、そこから店に通えばいいよ」

「そうねえ……」

 自立しようとしているのかもしれない。それなら邪魔しないほうがいい。

「じゃあ、引っ越しましょう。わたしはそっちとこっち、半々くらいで住むことにするわ」

 話はまとまり、さっそく次の土曜日には引っ越した。

 執事や召使や料理人や庭師や運転手も新しくやとう。今までとは比べ物にならないくらい経費がかかるが、シオンの財産から払えば問題ない。シオンはイギリス人だった父親から爵位と財産を受け継いでいる。本人が使いたいと思い、後見人のベルが承認すればいくらでも使うことができる。今まではベルのお金で暮らしていたが、実は大金持ちなのだ。


 ベルはひそかに考えた。これを機会にシオンの好みそうな黒髪の美青年を2、3人みつくろってはどうだろう? 今までシオンが好きになるのは黒髪の男性が多かった。もちろん因果を含めてシオンの相手をさせる。公爵様が男妾を囲うという図式だ。

 彼女はシオンが成長すれば脳の欠損部分が自然に回復して、例の病気も良くなるという医師の言葉を大いに期待していたのだが、ますますひどくなっていく気配だ。もうあきらめて、お金で解決できる相手を用意したほうがいいのかもしれない。

 彼女はふうっとため息をついた。

 もっと早くそうすればよかった……


 テオのマネージャーが喜色満面で依頼をもってくる。

「ロシュフォール公爵が肖像画を書いてほしいってさ。風景画や静物画もいくつか購入したいって」

「貴族様が? 肖像画?」

「そうさ。人物画は得意だろ?」

「人物画と肖像画は別物だよ。肖像画は本人に似せないといけないだろう? 苦手なんだ。絶対に苦情がくる」

「本物よりかっこよく描けば苦情はこないさ。さっそく迎えの車がきてる。いくぞ」

 迎えの車は高級車で、即日屋敷へ招かれた。

「相手は公爵様だ。失礼のないようにしろよ」

「他の仕事も入ってるのに……」テオはちょっと不満だ。

「そっちはあとまわしでもいいだろう? 締め切りはまだ大分先だ。この前の個展も大成功だったし、運が向いてきたな」

 マネージャーは有頂天になっている。

 屋敷についた。運転手が車寄せに車をとめてうやうやしく後部座席のドアをあけてくれる。

 古くて大きな屋敷だった。庭の芝生は刈り込まれたばかりで青々とし、薔薇の花が咲き乱れている。

 玄関をはいり、執事らしき人に応接間に案内される。


 窓際に立っていた人物がふりかえった。

 プラチナブロンドの髪、ライトブルーの瞳、目の覚めるような美少年だった。

「こんにちは。僕がシオン・ロシュフォール、この家の当主です。あなたの絵の大ファンです。握手してください」

 シオンは胸がどきどきした。また倒れるかと思った。そんな失態を犯すわけにはいかない。

 シオンはテオと握手した。

「……君は個展にきていた……」

「はい。あのときは失礼しました。お礼も言わずに帰ってしまって…倒れたのが恥ずかしかったので」

 おぼえていてくれたのがうれしい。うっすら頬がピンク色に染まる。

 それが画家の目には初々しくうつる。

 まるで天使のようだ。

 ふたりは握手したまま、しばらく見つめあった。

 マネージャーがおほんとこれみよがしな咳払いをしたので、シオンは彼とも握手した。

「はじめまして、よろしくお願いします」

「こちらこそ、どうぞよろしく」

「ところで公爵はどちらですか?」とマネージャー。

「……父と母は僕が6歳の時に亡くなりました。交通事故で……今は僕自身がロシュフォール公爵です」


 学校があるので絵を描くのは平日の5時から8時。そのあと夕食を一緒にしたい。土日は10時から15時まで、途中で昼食を一緒にしたい。期間は絵が完成するまで。どちらかの都合が悪いときは前日までに連絡する。それで合意した。提示された画料は破格のものだった。


「驚いたね。あんな子供が公爵様とは。しかもすごい美少年だ」とマネージャー。

「うん……肖像画でなくて、天使画を描いてみたい……」とテオ。

「おいおい、依頼は肖像画だ。へたをうって依頼を不意にするなよ」

「わかってるさ。ただ、こんなに創作意欲を刺激されたのは久しぶりだ」

「食事つきとはうらやましい。貴族様は普段どんな食事を召し上がっているのかなあ。ワインとかすごい年代物が出てくるかも」

 自分が代わりたいようなうらやましがりようだ。


 屋敷の一室をアトリエにして画家は絵を描き始めた。イーゼルをたて、キャンバスをかける。大量の絵の具と絵筆とオイルを持ち込んでテーブルの上に並べる。差し込む夕方の日差しを考慮して、シオンは壁ぎわによせた藤椅子に腰掛けてモデルになった。

 服はミストグレーのスーツと蝶ネクタイ。シオンのプラチナブロンドの髪とライトブルーの瞳によく映えた。

 シオンの後見人だというパトリシア・ベルという女性にも紹介された。長い黒髪を背中までたらした東洋人の美しい女性だ。クールでミステリアスな美貌で、彼女にも創作意欲が刺激された。

 食事は豪華でどれも美味で、ゆっくりとナイフとフォークをあやつる様はさすが上流階級といったところ。庶民の自分からは想像していた以上の暮らしぶりだった。

 ベルはようやく合点がいった。シオンが最近教会へ頻繁に通うようになって、宗教に目覚めたのかと思っていたら、目的は教会に飾ってあった絵のようだ。その作者がこの画家で、学校も引越しもこの画家が目当てだったのかと。シオンにしてはまわりくどい手を使ったものだ。いや賢くなったといったほうがいいか。やみくもに欲しがっても手に入らないものもある。

 今さらシオンの遊び相手に画家がひとり加わったからといって驚きもしない。


 絵は順調に仕上がっていく。線画から下塗りへ、そして本塗りへと。休憩のたびに絵をのぞきこみ、自分の姿がどんどん絵の中にできあがっていくのを見る。不思議な気分だ。写真とも違う写実性。油絵の具が作り出す光と影。微妙な色彩。けれどシオンが求めるものはその絵の中にはなかった。とても美しい素晴らしい絵というのはわかる。けれど、何かが足りない。それが何なのかわからない。

 モデルになれば誘惑するのは簡単だと思っていた。違った。絵を描いているときはとても真剣で真摯で声をかけられない。邪魔することなど考えられない。休憩時間もとても紳士で、同じ姿勢をとりつづけるのは疲れないかと気遣ってくれる。ふたりきりで過ごす時間はあっという間にすぎていき、2週間はかかるだろうと思っていた絵は1週間もたたずに完成してしまった。


「あとは絵の具が乾燥するのを待って、額縁をとりつけるだけですよ」

「ありがとうございます」

 シオンはもうあきらめかけていた。

 それも仕方がない。縁がなかったと思えばいい。

 筆を洗うテレピン油の匂い。油絵の具の匂い。画家が去ってしまえばもう嗅ぐこともないだろう。

 完成した絵を見てシオンはため息をつく。

 まるで自分とは思えない。光輝き、どんな影もよせつけない美しい貴公子の絵だ。それはロシュフォール公爵の絵で、自分とは別人だ。

「……気に入らないのでしょう?」

 といわれてはっとする。

「そんなことは……」

 画家はものうげに続ける。

「肖像画というのはとても難しいですね。ただ姿をうつせばいいというものではない。その人が自分をどう思っているのか、それがこの絵には映っていないのでしょう?」

 シオンは本心をいい当てられたような気持ちになる。

 気がつくと涙が一筋こぼれていた。

「……僕はこんなにきれいじゃないから……汚れているから……」

 画家は首をかしげる。

「どうしてそんなことを? あなたは天使のようにきれいですよ」

 シオンは画家に近寄り、その首に両腕を回して背伸びをしながら唇にキスをした。

「……あなたが好きです……僕は小さい頃から天使みたいだって言われていました……でも少したつとこういわれるんですよ。悪魔みたいだって……化け物ともいわれたな……」

 画家は驚き、あとずさる。

 シオンは背中を向ける。

「もう行ってください……さようなら」

 画家は静かに部屋をでていき、シオンはひとり残された。

 告白して、キスもできた、それだけで十分じゃないか……

 それでも涙は止まらなかった。


 テオは仕事に没頭した。

 描きかけていた絵を完成させ、次々に新しい絵を描いた。

 シオンの絵は額装されて屋敷に届けられた。

 もう何の係わり合いもない。

 なのにあの少年のことが忘れられない。気がつくと少年のことを考えている。

 自分のことを悪魔だといった。汚れているとも。化け物とすら。

 好きだといわれてキスされた。柔らかくて甘い唇だった。

 そして泣いていた……

 気にならないはずがない。

 シオンをモデルにして天使の絵を描きたいという考えが頭から離れない。

 それは彼がこれまで描いてきた宗教画や人物画とはまったく別のものになるだろう。

 未知の領域……?

 今のままでもいい。今のままがいい。そういう声も聞こえる。美しい妻と愛する娘がいて、将来を約束された画家としての未来がある。

 すべてを失っても描かねばならないのか?

 自分の絵の限界を超える、それは必要なことなのか? それとも悪魔のささやきか?

 しかし、画家としての本能が告げる。

 何を犠牲にしてもいいから描け! と……


 テオはシオンの屋敷を訪れた。

 面会を申し込んで、しばらく待たされる。

 やがて庭の東屋にいるからそこへ行ってくれと伝えられる。

 庭の芝生を踏んで東屋に近づく。芝生はよく手入れされて青々とし、朝露でほんのり湿っていた。

 そこでシオンと黒い髪の美青年が裸で抱きあっているのを目撃する。

 驚きはない。そういう予感があった。だからそのまま近づいていった。


「はー、やれやれ」とその男はいった。「本命の登場ですか……まあいいさ。シオン、俺が必要になったらいつでも呼んでくれよ」名残りおしそうにシオンの髪にくちづける。

 服を身に着けて出ていくとき、テオにささやいた。

「天国のような地獄へようこそ」と。

 

 シオンは膝をかかえてうつむいている。

 うれしいのか、恥ずかしいのか、憎いのか、よくわからない。

 あきらめようとしていたのに、希望を持ってしまうではないか……

「……どうしてもどってきたの? せっかく逃がしてあげたのに……」

「わたしに見せつけるためにわざとここへ?」

「……そのほうが説明するより早いと思って……」

「もう一度君の絵が描きたい。描かせてくれないか?」

 シオンは顔をあげて涙にぬれた瞳で彼をじっと見る。

「僕の全部が知りたいなら、触れないとだめだよ。あなたにはそれができるの?」

「できるさ」

「敬虔なクリスチャンなんでしょう? 地獄へ堕ちるよ……」

「かまわない」

 シオンは彼に向かって手を伸ばす。

「……じゃあきて……」

 彼はシオンの手を取る。

「……僕を抱きしめて……ずっと離さないで……」

 彼はシオンを抱きしめる。

「そうしよう」


 画家はそのままシオンの屋敷に滞在した。

 アトリエにあったものをまるごと持ってこさせた。

 絵を描いていないときは抱き合って過ごした。

 シオンの身体はしなやかで魅惑的で、彼はしびれるような快感を味わった。

 みだらで、背徳的で、そのくせ純粋だった。


 シオンの舌が彼のものをなめる。もういいと言わなければいつまででもそうしていそうだ。

 上にまたがって腰を沈める。吐息が唇からこぼれる。

「……あ…ああ……」

 ゆっくりと腰を動かす。ときどき深く沈める。

 うるんだ瞳で彼を見下ろし、自分の乳首を自分でつまみ、自分のものをこする。

「…う……うん……」

 少年の中は狭くて柔らかくてあたたかくて、彼はいくらももたずに爆発してしまう。

 はあはあと荒い息になる彼を、少年は抱きしめて、

「…好き……大好き……」という。


 シオンの背中に縦に走る無数の白い傷あとをなでながら、

「この傷あとはどうしたんだ?」と聞く。

「前、縛られてムチで打たれたことがあるんだ」

 テオは驚く、そういうプレイがあるというのは聞いたことがあるが。

「ひどいことをする」

「うん。ずっと熱っぽくて、うずいて痛かったよ……醜い?」

「そんなことはないよ」

 右腕の傷あとにも触れる。

「これは?」

「海岸で真珠を拾おうとして岩のかどで切った」

 右手の甲に歯型があるのもみつける。

「この歯型は?」

「自分でつけた」

「自分で?」

「叫びたくなかったから、口を押さえてたんだ……」

 どういった状況ならそんなことになるのだろう。何年も前の傷のようだが。

「よく気がつくね。大抵の人はそんなこと気にしないのに」

「大抵の人?」

 そこでシオンはしゃべりすぎたと気がつく。

「もういいじゃない。抱いてよ。気持ちよくして」と。

 左の鎖骨の下と右のかかとに1cmくらいの小さな傷あとがあるのにも気づく。これは多分GPS機能のついたマイクロチップを埋め込んだあとだろう。金持ちの間では誘拐対策にそうするらしい。

 画家の観察眼で傷あとからシオンのたどった過去を無意識にトレースしてしまう。

 まだこんなに若くて美しいのになんという残酷な過去だろう。


 抱き合って眠り、そのまま目覚める。

 朝日の中で少年の髪が金色に輝く。まるで天使の輪のように。

 目覚めると宝石のような青い瞳が彼を見つめて、にっこり笑う。あでやかな微笑み。

 そしてまた彼をむさぼりはじめる。

 甘い陶酔と、同じくらい苦い嫉妬を感じる。

 少年の背後に沢山の男の影を感じる。

 いったいどれほどの男たちがこの少年をもてあそんだのだろう?

 いったいどうやってこんな手練手管を身につけたのだろう?

 それは形の見えない嫉妬で、彼を苦しめる。

 嫉妬? まさか……

 自分には少年愛の素養はないと思ってきた。

 今ですら求められているから応じているだけで、シオンがあきて終わるまでの関係だと思っている。

 好きだという言葉をどれだけ本気にできる? 自分にそれほど魅力がないのはよくわかっている。

 シオンの愛と欲望にまみれた可憐な肉体。純粋で汚れのない魂。

 絵を描くためといいわけして、本当はシオンの魅力のとりこになってしまっただけでは?

 最初は天使のようだといわれ、少しすると悪魔のようだといわれる……

 その言葉がふに落ちる。

 少年の身体を抱いて快感の絶頂で感じる、次はどの男のものになるのだろうという不安。

 自分はあの東屋の男のように、あっさりこの少年を手放せるだろうか……

 天国のような地獄とは、よくいったものだ。


 画家は絵を描きはじめる。

 120号の大きめのキャンバスを3枚用意した。この大きさなら等身大で描ける。連作にするつもりだ。

 これ以上の大作にすれば自分の体力がもたないだろうという気がした。

 一度に3枚を同時に描きはじめた。構図は頭の中で出来上がっている。

 1枚目は天使がりんごをキリストにさしだしている絵。旧約聖書でイブを誘惑するのは蛇の姿に化けた悪魔だが、これはそんな常識を無視している。天使は極上の微笑みでキリストを誘惑する。この禁断の果実を味わってみよ、と。

 2枚目は翼を折り取られた天使がうつぶせになって苦しみもだえている絵。背中の傷から血を滴らせている。顔は見えない。表情は想像させるだけだ。もしかしたら歓喜にふるえているのかもしれない。千切れた翼が下に転がり、飛び散った羽毛が周囲を覆う。この絵にはキリストは登場しない。

 3枚目は悪魔に変わってしまった天使が膝に死んだキリストを抱いている絵。聖母マリアを堕天使におきかえたピエタだ。悪魔の角と尖った耳、口元からのぞく牙。肌はほの青く変化し、背中には黒い翼が復活している。赤い瞳から血のような涙をこぼしている。しかし表情は静かで悲しみと愛情に満ちた視線を死んだキリストに注いでいる。

 教会関係者が見たらぎょっとするような絵を描こうと思っている。これまでの名声も栄光も地に堕ちるだろう。

 でも描かずにいられない。


 シオンは裸でモデルになった。カウチの上で座ったり寝そべったりする。表情もくるくるかわる。あどけない顔だったり、退屈そうだったり、誘うような微笑みを浮かべたりする。

 途中経過は見ないでほしいと頼んだ。完成したときに3枚同時にみてくれと。そのほうが見たときの感動が大きいからと。シオンは残念そうだったが承知してくれた。

「一度に3枚も描くなんてすごいね」

「絵の具が乾く間に次のに筆を入れるから大丈夫だ」

 というと、ふーんと感心したようにうなづく。

 欲しい絵の具があればどんどん買ってくれる。どんなに高価なものでもだ。画材の心配がないというのはいい。最高のパトロンだ。


 心配したマネージャーがひっきりなしに電話をかけてくる。

「いったいどうなっているんだ?」

「絵を描いている」

「もう肖像画は描き終わってるだろう?」

「天使の絵を描いてる」

「天使の絵?」

「ああ、集中したいから、もう連絡しないでくれ」

「あ、ちょっと……」


 画家の妻と娘が尋ねてきたのを、シオンは取次ぎもせず門の前で追い返した。

 美しい妻はおもやつれしていて、

「あの人に会わせて」と頼んだ。

 娘の方はシオンをにらみつけた。

「会いたくないっていってるから」とウソをついて背中を向けた。

 シオンは気づかなかったが、画家は窓からすべて見ていた。


 ベルが夕食を共にした時、彼女は画家に言った。

「一度家に帰られたらどうですか?」

「絵が完成したら、一度帰ろうと思います」と画家は答えた。

 シオンは不安になって、

「家に帰ったらもうここへは来ないの?」と聞いた。

「いや、もう元の生活にはもどれないだろう。君さえよかったら、ここに住まわせてくれないか?」

 シオンはほっとする。

「もちろんだよ。ずっといてね」

 ベルはシオンにも尋ねる。

「学校へはもう行かないの? だったらまた家庭教師の先生を頼むけど?」

「絵が完成したら、また行こうかな」

「あの学校でいいの?」

 シオンは少し考えて、

「やっぱり私立にしようかな」

「わかったわ。転校の手続きをすすめるわね」

 話はそれで終わる。二人の関係を問いただすでもなく、非難するでもない。淡々と事務的なことを話すだけだ。

 表情の読めない顔と冷たい瞳。シオンは放置されている? もしかしたら心の冷たい女性なのかもしれない。

 シオンの学校……そうだ、まだ学校へいく年齢なのだ。娘のエレナと同じ位……

 胸を刺すような痛みが走る。後悔? いまさらだ……


 テオは絵を描くことに没頭する。

 集中したときの常で身なりにかまわなくなる。無精ひげをはやし、食事もシャワーもおざなりになる。

 シオンがかまってほしそうにしても無視したりする。

 シオンはいつまでも無視されると怒り出したりすねたりする。

 そうして結局抱き合うことになるのだが、終わるとまたすぐ絵のほうにもどる。

 シオンは裸のままカウチでうとうとする。

 画家は眠るヒマも惜しんで絵を描き続ける。


 赤い色がうまく出せない。

 画家は苦悩する。りんごの赤。背中に流れる血の色の赤。悪魔の流す涙の赤い色。

 どれも思っているような赤ではない。

 何度も削っては塗りなおす。気に入らない。

 いろいろな赤い絵の具を混ぜ合わせ望みの色を出そうとする。

 うまくいかない……


 食事をとらないので画家はどんどんやせてくる。

 シオンは心配でならない。

 こんなにも精魂を傾けなければならないものなのか?

 一度に3枚も描こうとしているのが無謀なのではないか?

 食事を食べてほしいし、せめて眠ってほしい。

 シオンは不吉な予感におびえる。

「食事をして。せめて眠って。あなたが死んでしまいそうで怖い……」

「大丈夫。心配しないで。いつもこんなものだよ」

 と頭をなでられても、全然安心できない。

 シオンは完成するまで絵を見ないと約束したことを後悔する。

 どんな絵なのかわかれば安心できたのに。

 いや、かえって不安をつのらせたかもしれない。

 でも律儀に約束を守っていた。

 シオンもつられるようにやせてくる。もともとやせているのにさらにやせるのだから肌が透き通るようになって、とがった肩甲骨がますます折り取られた翼のあとに見えてくる。

 絵が完成したとたんにテオが死んでしまうのではという不吉な予感が打ち消せない……


 絵はほとんど完成に近くなる。あとは赤い色をのせるだけだ。

 夜なのか昼なのかわからなくなってくる。

 画家は睡眠不足で頭がぼうっとしている。

 真夜中だった。

 抱き合ったあとでシオンは浅い眠りにつき、画家はいとしそうに髪をなで、背中をなでる。

 またキャンバスにむかう。

 血の色の赤……

 そうだ本物の血を混ぜてみたらどうだろう?

 それはうまい思いつきに感じた。

 パレットナイフで左の手首を切って、パレットに落とし赤い絵の具に混ぜる。

 いい色に見える。

 リンゴを塗ってみる。

 ああ、この色だ。

 もう少し深く切って油壺に血をためる。

 天使の背中に流れる血をその色で塗る。

 これだ。この色だ……

 画家は一心に塗り続け、左手首から血が流れ続けるのに気がつかない。

 絵が完成したら一度家へ帰って、それから……

 画家は意識がもうろうとしてくる。

 思いどおりの絵が完成して、至福のときが来る。

 シオンに教えてあげよう……

 天使も悪魔も同じだ……だから何の問題もないと……


 夜があけて、シオンは目をさまし、画家が倒れているのに気づく。

 驚いてかけよる。

 血まみれだ。

 抱き起こす。

 声をかけるが返事はない。閉じたまぶた。血の気のない顔。ぐったりした身体。

 死んでいる……

 シオンは悲鳴を上げる。

 その目が3枚の絵の上をさまよう。

 ふるえるような絵だった。

 画家の身体を膝にのせた自分の姿がピエタの構図を作っているのにも気づかない。

「……いやああああああ!……」

 もう一度振り絞るような悲鳴を上げて、気を失った。


 

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