第2話 ノエル

 12月25日、午前0時30分。

 世間はノエルで浮かれ騒いでいるというのに、自分はこんなところで何をしているのだろう?

 手袋をしていても指先はかじかむように冷たい。これ以上指を冷やしたくない。気温は0度を下回っているだろう。雪が少し降っていて、フードつきのマントの上にも降り積もっていく。風も吹いていて、容赦なく体温を奪っていく。

 コートのポケットには一個づつカイロを入れてきた。両手をポケットへ入れて、指先をあたためる。カイロは2個じゃ足りなかった。全身が凍るように冷えてきている。

 ああ、熱いシャワーを浴びたい。火傷しそうなほど熱いシャワーを……

 山の中腹、曲がりくねった道が続く。少し幅の広くなった路肩に駐車して、外に立って待ち始めてから1時間ほどが経過した。さいわい車の往来はないが、見られたら不審に思われるだろう。いや、エンストか何かだと思って、助けようとしてくれるかもしれない。それはそれでやっかいなことになる。

 遅い……

 これはもう来ないのではないか? 計画は中止になったのか? 中止なら中止で連絡がくるはずだが……

 雪自体は降って積もっているくらいがいい。事故の信憑性がます。雪でタイヤがスリップしたとなれば、もっともらしい理由になる。さらに降り続いてくれれば、すべての痕跡を消し去ってくれるだろう。

 問題は風だ。雪は右へ左へ流れ、時には上空へ巻き上がる。

 この辺の気流は読みにくい。

 しかも体温を奪う寒さ。

 うまくいきそうにない。中止にしたい。こんなの無理に決まってる。

 いや、そうじゃない。あの人を殺したくない……


 谷を隔てた1キロ程向こうの道路にヘッドライトをゆらして一台の車が現れる。かなりスピードを出している。危険なくらいに。

 耳につけた無線機から、指令が届く。

「それだ。やれ」と。

 身体は一秒の無駄もなく反応した。

 手袋をはずし、ケースから狙撃用ライフルをとりだし、ガードレールにできたくぼみと右肩で固定する。暗視スコープの照準をあわせ、走る車を狙う。運転席に男が見える。助手席には女も。だが今回狙うのはタイヤだ。

 呼吸を合わせ、狙い撃つ。

 右前輪のタイヤが破裂した車は、大きく車体をゆらし、ガードレールを突き破って崖から落ちていった。途中のでっぱりに何度かぶつかり、回転し、谷底につく前には真っ赤な炎が上がっていた。

 燃え上がる車を見下ろす。あれでは誰も助かるまい。運転していた男も、助手席にいた女も。

「任務完了」

 短く報告して、無線機をはずしポケットへ。

 涙は流れなかった。愛した人を自分の手で殺したというのに。

 組織の冷徹な掟は、そこまで自分の感情に、血液に、染み渡っているのか。

 すばやくライフルをケースにしまい、車の後部座席に載せる.

 薬莢を拾ってポケットへしまう。

 大丈夫、目撃者はいない。こんな時間にこんな場所を通る車はなかった。自分とあの車以外は。

 フードの雪を払い、車に乗り込む。エンジンをかけ現場を離れる。雪がすべてを覆い隠し、この車がここに停まっていた痕跡もタイヤのあとも消し去ってくれるはず。

 ああ、熱いシャワーを浴びたい……火傷するような熱いシャワーを……


 シオンには事故の前後の記憶はない。毛布にくるまれて後部座席で眠っていたのだから。空中で回転する車から放り出され、木の枝にひっかかり一夜を明かしたことも。ただの毛布がひっかかっていると思われて、見過ごされそうになったことも知らない。

 前の夜に母と二人でノエルの飾りつけをしたことは憶えている。ツリーにオーナメントを飾り、テーブルの上や窓際に花を飾った。料理の苦手な母がケーキを焼き、案の定、焼きすぎて黒こげになった。ペティナイフで削ってチョコレートクリームを塗ってイチゴを乗せた。

 久しぶりに父が訪ねてきて、ノエルのごちそうを食べた。ケーキはやはり少しこげくさかった。父と母はワインを飲み、シオンは温めたミルクを飲んだ。楽しいゆうべをすごし、翌日のプレゼントをわくわくしながら眠った。

 真夜中にあわてた様子の父に起こされ、パジャマの上から厚手のコートを着せられ。後部座席に寝かされて、しっかりと毛布でくるまれた。

 車が走り出して、そのまま眠ってしまい……

 目覚めたら病院のベッドの上だった。

 車が雪道でスリップして崖から落ちたのだという。両親は死に、彼だけが車外に放り出されて奇跡的に助かったと教えられた。

 頭がぼうっとして何も考えられなかった。低体温症というらしい。大人たちが入れ代わり立ち代り現れて彼に話しかけたが、何も答えられなかった。

 何日かしてようやく大きな悲しみが胸の中からわきあがってきた。

 母がいない。父もいない。

 黒い塊に胸がおしつぶされそうになった。彼は泣きはじめた。

 涙はあとからあとからわいてきた。

 あの母と父がもうこの世にいないのだ。どこにもいないのだ。名前を呼んでも返事をしてくれないし、抱きしめてくれることももうないのだ……

 まわりの大人は遠くから彼を見守った。片付けなければならない後処理が山のようにあった。母の仕事はファッションモデル。しかも超多忙なトップモデルだった。ショーや雑誌の取材のキャンセル。莫大な違約金をどうするか。突然現れた隠し子をどう扱ったらいいのか。マスコミへの対応にも忙殺された。父の方の事情はもっと複雑だった。

 もう何日かがすぎ、泣き続ける彼の前に一人の女性が現れた。

「こんにちは、シオン。わたしはベル。あなたの後見人に選ばれたわ。これからはあなたの面倒はすべてわたしが見ます」

「……後見人?……」

「そうよ。お父さんとお母さんのかわりみたいなものよ」

 背の高い東洋人の女性で、長い黒髪を背中までたらした、美しい人だった。

「……パパとママのかわり?……」

「そうよ。つらかったわね。かわいそうに」

 そういって抱きしめてくれた。

 父と母がいなくなってから、はじめて抱きしめられた。それだけで十分だった。シオンはベルを全身全霊で恋い慕うようになった。


 ベルはモデルの仕事をやめ、オートクチュールの店をはじめた。居抜きで買った家は一階部分が店舗で、2階部分が住居になっていた。ベルはデザイナーとして有名になり、スタッフをそろえ、お金持ちのご婦人方がお客になった。

 仕事が忙しくて、ベルはシオンの世話を秘書のモニカにまかせていた。彼女は栗色の髪に茶色い瞳の、物腰のやわらかな女性だった。食事を食べさせ、清潔な服を着せ、学校へ送り迎えをした。非の打ち所のない仕事ぶり。母親がわりというなら、ベルよりモニカのほうがよほどふさわしかったろう。けれど、シオンは彼女にはなつかなかった。知っていたから。ときどき二人が裸でベッドで抱き合っているのを。

「わたしはいい母親にはなれそうにないわ」とモニカ。

「あなたはよくやってくれているわ」とベル。

「あなたとシーナは恋人同士だったの?」

「残念ながら違うわ。彼女はクールでミステリアスだった。誰も彼女のテリトリーには入れなかった」

「クールでミステリアスなのはあなたのほうよ。ランウェイであなたとシーナが並んで歩いているのは素敵だった。うっとりしてため息がでたわ」

「彼女は白い服で、わたしは黒い服を着て、光と影のようだといわれたわね。でもラストはいつもシーナの白いウエディングドレス姿。わたしはシーナが好きだったけど同じくらい嫌いだった」

「……どうしてシオンを引き取ったの?」

「適当な人が他に誰もいなかったからよ……」

 全部は理解できなかったけれど、シオンをうちのめすには十分だった。


 シオンはベルの関心を引きたかった。愛されていないのは仕方ないとしても、無視されるのは耐えられない……

 幼かったので、はっきりそう言葉にしたわけではないが。


「ねえ、こっちへきて。僕と遊ぼうよ」

 声をかけられる相手は大抵びっくりする。それからシオンの顔をまじまじと見て、

「君がシーナの子供か。よく似ている」という。

 シーナの子供。似てる。このふたつの言葉はシオンについてまわる。まるで呪いのように。

「こっちへ来て」

 手を引いて、案内する。誰もいないところへ。庭のベンチとか、居間のカウチとか、カーテンの裏側とかへ。

 服を脱いで、相手の手を肌に導く。

 素肌をなでられるのは好きだ。気持ちがいい。キスをされるのも。抱きしめられるのはもっといい。

 シオンの胸には大きな穴がぽっかりとあいていて、それが一瞬うまったような気がした。

 でも大抵は、途中で相手がはっと我に返り、あわてて手を引っ込める。何かおぞましいものでも見るようにシオンを見て、逃げていってしまう。つまらない。


 ベルがシオンの遊びに気がついたとき、ベルはシオンの頬を叩いた。

「どうしてそんなマネを?」

 シオンは叩かれた頬を押さえて涙をこぼす。

「……やっと僕を見てくれたね」

「いつも見ているでしょう?」

「だったらどうして今まで気がつかなかったの?」

「……いつからなの?」

「ずっと前から……僕が女の子だったら、僕を愛してくれた? モニカにするみたいに抱きしめてくれた? ……」

 ベルは同性愛者だった。業界では知られていて、レズビアンの女王のように思われている。シオンにはうまく隠していると思っていた。知られていたとはうかつだった。でも自分はシオンの後見人として、彼を立派な大人に育てる義務と責任がある。


 当然、相手の男性をとがめた。けれど彼らは口をそろえて少年の方から誘ったという。

 どうして? まだほんの子供なのに……


 夏のある日、シオンは裏庭で日光浴をしていた。シオンの肌があまりにも青白いので、少し日に焼いたらどうかとモニカがすすめたのだ。彼の肌は日にあたると赤くなってひりひりするだけで、モニカの望むような小麦色にはならず、すぐにもとの白い肌にもどるのだったが。

 庭師の青年が花壇の手入れをしていた。イスラム系だろうか。黒い髪に黒い瞳、褐色の肌。シオンは上半身裸でベンチにねそべっていた。シオンは青年に声をかける。

「ねえ、僕と遊ぼうよ」

 青年は触ったら火傷をするのではないかというように、おそるおそるシオンの肌に触れた。触れられた部分がむずがゆいような、うずくような感覚。

 禁じられた遊びはしばらく続いた……

 結局見つかって青年はクビになり、シオンはまたベルに叩かれた。


 シオンの行状が一向におさまらないので、ベルはシオンを病院へつれていった。

 さまざまな心理テストを受けさせられ、脳のCTスキャンやMRI検査が行われた。

 退屈したシオンは診察の途中で医者の手をとって言った。

「もっと気持ちいいことをして……」と。


「脳のこの部分は情動をつかさどる部分ですが、シオン君の脳にはここに小さな欠損が見られます。生まれつきのものか、事故によるものかは不明ですが」医者が説明する。

「事故の時も検査したはずですが?」ベルが質問する。

「事故の直後には見つからなくて、しばらくして現れるというのはよくあるんですよ。一週間後くらいに検査していれば、その時にみつかったかもしれませんが」

「それで、どういった症状が?」

「これは女性に多いのですが、非常に性欲が更新します。一般にニンフォマニアという病名で知られています。独身の女性なら性的に無軌道になり、既婚者でも夫以外の男性を、それも複数求めるようになります」

「治療法は?」

「女性の場合はホルモン療法とカウンセリングを行いますが、シオン君の場合はちょっと難しいでしょうね。わたしもこんなケーズははじめてです」

「治らないんですか?」

「シオン君の場合は、まだ子供なので、成長とともに脳の欠損部分が自然に修復される可能性があります」

「手術で何とかなりませんか?」

「手術の適応じゃありませんね。位置が悪いし、かえって余計な後遺症を残すでしょう。時間をかけて経過を見るしかないですね」

「そうですか」落胆する。

「……僕も誘惑されましたよ。びっくりしたなあ。あんなきれいな子供があんなみだらな目で男を誘うんだから。怖かったですよ。まさに魔性だ」

「……先生……」とあきれた声。

「いや失敬。とにかく誰にでも誘いをかけるということは、とても危険なことなんです。僕みたいな善人ばかりじゃありませんからね。最近は物騒な事件も多いし」

「わかりました。ありがとうございました」


ベルはシオンのことで学校へ呼ばれる。

「お子さんは問題行動が多くて、うちの学校ではとても面倒みきれません。学校をかわってください」と。

「問題行動とは?」

 察しはついたがたずねてみる。

「上級生や、教師に対して、破廉恥なマネをするんですよ。おたくはどういった教育方針で育てていらっしゃるんですか?」

「……はあ……」

 シオンをつれて家へ帰る途中できいてみた。

「ガールフレンドはいないの?」

「いないよ。女の子には嫌われてる」

「どうして?」

「知らない。顔が気に入らないんじゃない?」と肩をすくめる。

「普通の男の子の友達はいないの?」

「いないよ。いじめられたりはしないけど、遠巻きってかんじ」

「どうして?」

「さあね。顔が気に入らないんじゃない?」

「そうなのね……」

 転校しても同じだろう。家庭教師をつけるしかないか。女性の家庭教師にしないとだめね。


 事故から3回目のノエルの夜。その日はシオンの9歳の誕生日でもあった。

 ベルは外出していて、モニカと二人でノエルのごちそうとケーキを食べた。

 シオンは「もう寝る」といって部屋へ引き上げる。

 モニカは時計を見て、まだ宵の口なのを知り、別のパーティーへ出かけることにする。


 シオンはモニカが出かけたのをみはからって、ベッドを抜け出した。

 パジャマからきちんとした服に着替える。パーティーに出席してもおかしくないような服に。子供用の背広とスラックス、色はミストグレー。ゴムひものついた蝶ネクタイ、ピンクと白の水玉模様だ。その上からふわふわの白いコートをはおって出かける。

 街の中はノエルのイルミネーションで輝いている。車道をいきかう車も多く、人通りも多い。少しお酒が入っているのか楽しそうなおしゃべりをしながらすれ違っていく。

 シオンはもくもくと歩いた。雪が少しふっていて、地面に触れるとすっと消える。髪にもコートにも落ちて、積もらずに溶けて消える。まるで街の熱気にあてられたように。

 どこからかにぎやかな音楽が聞こえてくる。どこの家も木々や壁をイルミネーションで飾りたて、中では楽しいパーティーが行われている。

 しばらく歩いて目的の家についた。門が大きく開け放され、車寄せには沢山の車が停まっている。数人の客が出たり入ったりしている中にまぎれて、家に入る。広間では大勢の客が、シャンパングラスを片手に談笑していた。

 中は暖房が効いている。シオンはコートをクロークに預けて、ゆっくりと歩き回って、その人物を探した。


 彼の名前はフランシス。ベルの夫だ。彼女が結婚していたと聞いてびっくりした。まだモデルをしていた4年前に知り合って、すぐに籍を入れたが、一度も同居したことがない。年はベルより15歳年上で今39歳。ハンサムでプレイボーイ。離婚歴があり、別れた奥さんに子供がふたりいるという。

 彼は繊維会社の社長で一般用の生地とは別に、ファッションショー用の特殊な生地も生産している。ベルの店で売られる美しい服の生地は彼の工場で特注され、それが人気になるとまた注文が殺到するというウィンウィンの関係。

 ベルの方はフランシスの社会的地位と財産が目当て。フランシスの方は若くて美しくて浮気をしても文句をいわない妻が欲しい。ベルが同性愛をカミングアウトしていることもあり、ふたりは偽装結婚で実際は夫婦関係はないのでは? とまでいわれている。しかし、夫婦同伴が必要なパーティーや式に出席する時、ベルをエスコートするフランシスの姿は堂々としていて、お似合いの二人だった。

 シオンと顔を合わせたこともあったが、挨拶程度。妻の被後見人に興味はないらしい。

 しかし、今夜シオンはフランシスを必要としていた。ノエルの夜、自分が生まれた夜、両親が死んだ夜。この特別な夜をひとりで過ごすのは寂しすぎる……


「おや小さな天使の降臨だ」

 シオンを見つけて、フランシスは美しい女性との会話をやめて少年の方を向く。

「何か食べ物は? キャビアのカナッペはどう?」

「いらない」

「飲み物は? シャンパン、いやジュースがいいかな?」

「いらないよ」

 フランシスはかなり酔っ払っていて、上機嫌だ。

 ふと気がついて、あたりを見回し、

「ベルが来ているのか?」と聞く。

「来てないよ。一人できたから」

「一人で? 危ないじゃないか」

「危なくないよ。ウチからここまで3ブロックしか離れてないもの」

「それにしたって……」

 それから腕時計を見て、

「もう子供は寝る時間だ。家まで送るよ」

「……ベルは外出してるし、僕が寝たと思ってモニカもでかけたから、一人なんだ。こんな夜をひとりで過ごすのは寂しいよ」

 フランシスは少し考えて、

「よし、それならウチに泊まればいい。客室ならいっぱいある」

 シオンに手をさしだす。

 シオンはそっとその手を取り、にっこり微笑む。

 極上の天使の微笑み。

 フランシスは思い出す。この子はあのシーナの子供なのだ。とてもよく似ている、と。


 客間は簡素で清潔な作り。

「ここは競馬の時期やゴルフの時期に、外国からきた友人を泊めるんだ」

「うん、素敵な部屋だね。でも僕はあなたの部屋が見たいなあ」

「プライバシーの侵害だぞ」おどけていう。

「ねえ、お願い。ちょっどだけ」

 こんなに可愛くお願いされて、拒める者がいるだろうか?

「じゃあ、ちょっとだけね」

 自分の寝室に案内する。

「わあー、素敵だ」

 高級な家具と内装。大きな天蓋つきのベッド。ナイトテーブルと猫足のソファ。ロマンチックな意匠の飾り棚やチェストやスタンド。

 シオンは上着とくつを脱いで、上掛けをはぎとりベッドに飛び乗った。スプリングを確かめるようにはねる。まるでアトラクションにきた子供のよう。

 青い小花模様のシーツをなで、

「すごく手触りがいいね」うっとりしたように言う。

「麻で作らせた最高級品だからね」

 それから、咳払いをして、

「もういいかい?」ときく。

「ねえ、ベルもここに泊まったことあるの?」

「それは非常にプライベートな質問だね」

「あるんだね。夫婦だもの。僕もここに泊まりたい」

「それは困る。……まあ、つまり、その……予約が入ってる」

「さっき話してたきれいな人?」

 どうも子供というのはどう接していいかわからない。

 無邪気なようで、どきりとするようなことを言う。

 シオンは服を脱ぎはじめる。

「ねえ、ドアを閉めてこっちへきて。僕と気持ちのいいことをしようよ」

 彼は頭を殴られたような衝撃を感じる。

 この子供は何を言ってるんだ。聞き間違えか? 俺を誘っているように聞こえたが……


 彼の男色の経験といったらお粗末なもので、若い頃好奇心に負けて2~3度試したくらい。あまりいいとは思えなかった。彼の好みは豊満な妙齢の女性。

 もちろんそういう嗜好の人達が大勢いるのは知っている。いわゆるおネエ系の友人もいる。彼らは総じてセンスが良く、ナイーブで会話も面白い。

 しかし、これは?

 シオンはいくつだったか?

 まだ10歳にはなっていないはず。

 とてもきれいな子だが、もうパリの悪徳に染まってしまったのか?

 ベルは後見人としてちゃんとやっているのか?

 色んな思いが頭の中をぐるぐる回る。

「いや、俺は……」

「抱いてほしいんだ。あなたがダメなら、もう誰でもいいや。そのへんの男の人に声をかけて抱いてもらうよ。一人でいたくないんだ……」

「それはダメだ」

「ならこっちへ来て」

 天使の微笑みで誘いかける。いや魅惑的な小悪魔の笑み。

 こんなに純粋無垢な顔でもう男を知っている? そんなばかな…… でも……

 彼はドアを閉めて、鍵をかけた。

 彼がベッドにちかづくと少年の手がネクタイをはずし、上着を脱がせる。手馴れていて、昨日今日はじめたようには見えない。

「……ちょっと待って……ベルは知ってるのか? ……君がこういうことをしているのを?」

「もちろん知ってる……でもベルは関係ないよ」

 シャツをはだけて彼の胸に唇をよせる。

「ねえ……早くしようよ……」

 理性が飛ぶというのはこういうことかと思った。


 彼はシオンを抱いた。女性を抱くように。

 キスをして舌をからめる。甘い。肌をなで愛撫する。白くて手の平にすいつくようだ。吐息のようなかすかなあえぎ声。

「……あ……ああ……」

 首筋に、胸にキスマークをつけた。

「う……うん……」

 全部自分のものにしたいと思った。

 腕にも脚にも背中にもキスマークをつける。白い肌に薔薇の花びらが散ったようだ。

 細い四肢を組み敷いて後から犯した。

 少年の身体がのけぞる。とても狭くて、無理やりにねじこんだ。

 嗜虐的な快感を感じながら、激しく腰を動かした。

 シオンはふるえ、うめき、もだえた。

 全部自分のものだ。もう誰にも渡さない……

 彼のとぼしい知識では、男同士のセックスで後を使うのは常識だった。

 少年が叫び声を押し殺すために自分の腕を強くかんでいるのにも気がつかなかった。

 何度も突き上げて、射精したとき、かつてないほどの快感を感じた。

 何という快感だろう。やみつきになてしまいそうだ……

 ぐったりした少年の上に自分もぐったりと身体をのせて、

「よかったよ……」という。

 だから身体を離したとき、少年の身体からおびただしい出血があふれでたのに驚愕した。

「これは……」

 何かひどく間違ったことをしてしまったのではないか? そう気がついたのはすべてが終わったあとだった。


「だ、大丈夫か?」

 シオンが自分の腕をかんでいるのに気がついてはずさせる。

 くっきりと葉型がついて、血がにじんでる。

 声を上げまいとして腕をかんでこらえていたのか?

 泣いている。声を押し殺して泣いている。涙で濡れた顔。

「お前、初めてだったのか?」

「……うん……ごめんなさい……シーツ汚して……」

「シーツなんてどうだっていい!」

「……指を入れられたけど、……小さすぎるって……身体が裂けそう……」

 そうだ。自分もそう思った。でも、経験済みだと思ってためらわなかった。

 シオンの目から涙がぽろぽろこぼれてシーツをぬらす。

「もう泣くな!」

「……ごめんなさい……怒らないで……」

 か細い声。血の気が引いていく頬。

「怒ってなんかない!」

 いや違う。ものすごく怒っている。自分に対して。こんなに幼くて、何も知らないような子供に、何てことを。

「……僕を抱きしめて……ずっとそばにいて……」

 胸を突かれる。そうだ、この子はただ一人でいたくないだけだったんだ……

 とにかくこの出血の量はただごとではない。

 彼はパニックに襲われる。

 死んでしまうのではないか?

 医者を呼ぶ? それでは間に合わないかも知れない。

 受話器を取り、救急車を呼んだ。


「未成年者に対する性的虐待と暴行、これであなたも立派な前科者ね」

 警察の事情聴取が終わって、しばらくしてベルがやってきた。

「遅かったじゃないか」

 彼はもうぐったりして立ち上がる気力さえない。

「病院に寄ってきたわ……バカなことしたわね」

「ああ、すまない」

「そうじゃないわ。救急車を呼んだことよ。いくらでも裏で処理できたのに」

「そこまで頭が回らなかったよ。シオンが死んでしまうと思ったからね」

「あなた善人だから……大丈夫よ。肛門が裂けただけで、直腸は破れてないって。生命にかかわる傷じゃないそうよ」

 彼は複雑な表情になる。こんな美女が平気で肛門とか直腸とか口にする。今さらだが慣れない。

「そうか、よかった」

「よくないわよ。パーティーにきた全員が知ってる。あなたもうパリ中でウワサの的よ」

「俺はどうなるんだ? 刑務所行きか?」

「不起訴にしてもらったわ。感謝してね」


 帰っていいと言われて、ベルの車で送ってもらった。

「それじゃしばらく田舎にひっこむか。南フランスに別荘がある」とフランシス。

「そのほうがいいわね」とベル。

「……シオンもつれていっていいか?」

「バカなこと言わないで」

「バカなことじゃない。なんであんなことになったと思う? あの子はただ寂しかっただけなんだ。あの子を愛してやる人間が必要なんだよ」

「あの子の魔性につかまったってわけ?」

「そうじゃない」

「そうとしか聞こえないわ」

「君はあの子をもてあましているだろう? 俺ならあの子を幸せにしてやれると思うんだ」

 ベルはフランシスの顔をしげしげと見た。

 どうやら本気でそう思っているらしい。

 そうなった場合のメリットとデメリットを考える。


 車の中に盗聴器はない。毎日念入りに調べている。

 GPS発信機はついているが、そのくらいは許容範囲内だ。

 危ない話をしても大丈夫。

「シオンが幸福かどうかは関係ないのよ。あの子が21歳になったとき、ボスの座を継げるかどうかが問題なの」

「まだ10年以上ある」

「10年なんてあっという間よ。それに……その前に組織があの子を殺せと命じるかもしれない。その時あなたに殺せるの?」

「無理だろうな……その時は全力で逃げる。君がシオンと距離を置くのは、そうなった時が怖いからか?」

「そうよ……組織から逃げられた者はいない」

「君と俺が協力すれば可能だ」

「わたしに組織を裏切れと?」

「シーナを殺したことを後悔してるだろう? だからあの子の顔も満足に見られない。心を殺すなよ。自分に正直になれ」

 痛いところをついてくる。なら方向を変えよう。

「シオンがあなたについていくと思う?」

 彼はじっくりと考えた。

「……多分、無理だな」

「じゃあ、今いったことは全部なかったことにしましょう」

「俺は忘れないよ。君も憶えててくれ。もし俺の助けが必要になったら、いつでも頼ってくれていい」

「やっぱりあなたシオンの魔性につかまってるわ」


 フランシスを自宅まで送り届けて、家へ帰ることにする。

 あの時、シオンも一緒に死んでくれていれば、今こんなに悩むこともなかったのに。

 子供が生き残っていたと知ったときの驚きととまどい。後見人に指名されたときの不安。

 はじめてシオンを見たときは安堵と幸福感で思わず抱きしめてしまった。

 でも、自分の手は血で汚れている。抱きしめてはいけなかったのだ。

 今も後部座席にはケースに入れた狙撃用ライフルが乗せてある。

 仕事をしてきたばかりだからだ。

 帰ったら、熱いシャワーを浴びよう。火傷するくらいに熱いシャワーを……


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