第2話
【悪魔】――特定の宗教文化に根ざした悪しき超自然的存在や、悪を象徴する超越的存在をあらわす言葉。仏教では仏道を邪魔する悪神を意味し、煩悩のことであるとも捉えられる。
「煩悩……」
学校が終わって電車に揺られながら帰路へ向かう中、スマートフォンで検索をかけた言葉の意味を小さく呟いた。
電車を降りてそのまま真っ直ぐ家へ向かう。最近はコンビニに寄ることが少なくなった。家に入ると、リツが笑って出迎えてくれた。
「ただいま」
「お帰り、住居者サン!」
玄関のドアを開けてすぐ見えるキッチンでは、リツがいつものように鼻歌を歌いながらチキンライスを作っていた。
リツと生活を始める際、彼は私にこう言った。
『住居者サン、家事苦手でしょ? 洗濯は流石にできないけど、料理と掃除は俺に任せてよ』
まさか悪魔にご飯を作らせてしまうなんて、と思ってはいるけど、初めて会ったときに食べたホットケーキの感動が忘れられず、彼に任せた方がいいと思ってしまった。それでもリツは文句も何も言わず、美味しいごはんを作ってくれる。
今作っているチキンライスの近くには、溶いた卵がボウルに入っている。今日はオムライスのようだ。フライパンに後から入れたケチャップの酸っぱい香りが鼻をくすぐる。
「後は卵だな。ふわっふわに仕上げてやるから待ってろ」
「ありがとう。机の上、片付けておくね」
私がそういって笑うと、リツも笑ってくれた。その表情を見るたびに、彼は作るのが好きなんだなってわかる。
手を洗って着替えを済ませ、机の上に散らばった雑誌を片していると、完成したオムライスを持ってリツがやってきた。机の上に置くと、半熟の卵が小さく揺れる。とろとろの半熟卵のオムライスなんて、外食でも食べたことがない。
「今日は結構自信作! 味わって食べろよ」
「頂きます!」
リツに促され、私はすぐスプーンを手に取った。
彼の作るオムライスは、オムレツを作るよりシンプルだ。半熟を残すためにフライパンに流したら手早くかき混ぜ、底面が焼き固まったところで、先にお皿に盛りつけておいたチキンライスにフライパンから滑らせて乗せる。すくったときにどちらかが偏って多くなることは避けたいが為だけに、私自身で決めた黄金比になるようにスプーンを動かす。すくい上げた途端、とろっ……と卵の半熟部分が揺れる。口に入れた途端頬が落ちるかと錯覚してしまうくらい、チキンライスの甘酸っぱいケチャップの香りと卵のとろとろ感をたった三十秒で体感した。
「美味しい! しっかり焼いた卵で包むのも好きだけど、やっぱりオムレツは半熟だよね!」
「そりゃよかった」
私が食べているのを、リツは嬉しそうな笑みを浮かべて見ている。
同居を始めた時、一緒に食べようと誘ったことはあるが、リツは首を横に振った。悪魔は人間の食べ物を口にしてはいけないというルールがあるらしい。それでも作ることは好きだから、この部屋に憑りつく前まで、沢山沢山作っては捨てていたそうだ。
「ねぇ、リツ。人間のごはんを食べちゃいけないのなら、味の確認とかはどうしているの?」
「勘……と言いたいところだけど、米粒を五粒程度だったら問題ねぇよ」
規定の数値が曖昧すぎる。つまり味見しかできない。むしろ味見も怪しいくらいの分量だ。
一緒に食べることができたらいいのに、なんて思うことはいけないことだろうか。私がしばらく無口だったせいか、彼は急に私の頭を優しく撫でた。
「今、俺も食べられたらいいのにーとか思っただろ?」
「まあ……近しいことは思ったよ」
「そっか。俺は自分で食べるより、俺が作った料理を嬉しそうに食べてくれる人間がいるなら、それでいいんだ。ありがとな」
「そっか……」
人間に事情があるように、悪魔には悪魔の事情がある。他人である私が口出すことではないってわかっていても、寂しそうに笑っている彼に何かしてあげたいと思うことも迷惑だろうか。
私はまたスプーンを動かし、オムライスをすくう。少し冷め始めていたが、ケチャップの甘酸っぱい香りは変わらない。
するとふと、帰りの電車の中で見た悪魔についてのサイトに書かれていたことがよぎった。――【悪魔】の正体が煩悩だというのなら、彼は私の煩悩の塊なのだろうか。それだけは信じたくない。いくら家事が苦手でも、疎かにしていたとしても――結果していたことに変わりはないが――同居する中で、彼をそんな目で見ることはしたくなかった。
「……ねえ、リツ」
「ん?」
オムライスを食べ終え、リツと並んで食器や調理器具を洗う。後片付けをしているのにも関わらず、鼻歌を歌いながらスプーンを磨いているリツは楽しそうだ。
「その……何かしてほしいことがあったら言ってね。私、料理できないし器用じゃないけど、リツにはいつも美味しいごはんを作ってもらっているから……」
「住居者サン……」
自分で言った割にはとても恥ずかしい。リツの顔を見るともっと気まずくなりそうだったため、視線を逸らすと、その先にある蛇口に小さく映る自分の顔は、近づかなくてもわかるくらい、真っ赤になっていた。
「……住居者サン、今週の日曜日空いてる?」
リツの言葉に視線を戻すと、彼もまた耳を赤らめてそっぽを向いていた。そして横目で私を見ると、小さく笑って言った。
「さっき見ていた雑誌に、気になるケーキ屋を見つけたんだ。……行かない?」
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