第3話
青い空、白い雲。人で賑わう最寄りの駅。平日はサラリーマンや学生が多い中、休日の日曜日である今日は家族連れやカップルが目立つ。
改札口近くのコンビニに寄りかかりながら、私は不安と緊張に押しつぶされそうになっていた。
――それは一週間前の夜のこと。リツの一言がきっかけだった。
『さっき見ていた雑誌に、気になるケーキ屋を見つけたんだ。……行かない?』
普段家で料理を作ってくれる彼に、何もできない不器用な私は恩返し……というか、少し大袈裟な気もしなくもないが、何かお礼をしたかった。その時、リツは少し照れながらケーキ屋に行かないかと誘ってくれたのだ。
彼が気になると言っていたケーキ屋は、最寄り駅から電車で二駅。私が通っている学校の近くにあるらしい。後で雑誌を見せてもらったけど、入り組んだ路地裏にあるらしく、私も知らない場所だった。
「行くのはいいけど……人間が作ったものは食べれないんじゃ……?」
「まあ……【悪魔】ならね。だからちょっと仕込みをしてから行くから、駅で待ち合わせな」
「わ、わかった」
――……というのが、昨日の晩の話だ。
仕込みをしてから、と言っていたせいか、約束の時間から少し遅れている。やっぱり人が多い場所だから、悪魔の羽根や尻尾を隠すのが大変なのだろうか。
「……真っ黒なジャージ姿でくるのかな」
目立つ。かなり目立つ。
するとふと、あることに気付いた。悪魔とは言え、リツの見た目は男の子だ。年齢はパッと見た感じ、私と同い年か少し下くらい。身長は数ミリの差でリツの方が高い。悔しい。隣を一緒に歩けば、傍から見ればこれは――。
「デートってやつ!?」
いろんな人が賑わう駅。行きかう人のほとんどが、私の大きな独り言に顔を向けた。痛い視線が集まる中、私は恥ずかしさに顔を真っ赤にしていた。
生まれて十九年、中学時代にできた彼氏とは二ヶ月も経たないうちに振られた。原因は、放課後の帰り道。田舎にある中学校の通学路は田んぼが多く、車道のすぐ横が田んぼになっている道を一緒に歩いていた。彼が気を利かせて車道側を歩いてくれた時、石に躓いて転んでしまった私は、とっさに彼のカバンを掴んで一緒に田んぼへ転がり落ちてしまったのだ。お互い泥だらけになると、彼は怒ってその場で別れると言い、私の答えを待つ暇もなくその場を去っていった。何も話せないまま数日が経ち、彼に新しい彼女ができたことで、私の恋に区切りがついたのは、今では笑い話となっている。
その後、特に恋愛に興味もなく、平凡に過ごしてきた。恋人がいてもいなくても変わらない生活に、飽きることもなく過ごしていた。
――どうしよう、緊張してきた。
男の子と一緒に出掛けること自体、中学以来だ。悪魔という人間外存在であるとはいえ、一度意識してしまったら、人はこんなに緊張するものなのだろうか。
急いで身の回りを確認する。気にしてはいなかったけど、花柄のワンピースにジーンズ生地のジャンバー、少し踵が高い茶色のショートブーツは、ずぼらな私にとって珍しい恰好だ。
「……あれ、キミ一人?」
キョロキョロしていると、見知らぬ男の人に声をかけられた。革ジャンにジーパン、ジャラジャラとつけたアクセサリー。見た目からして大学生くらいだろうか。すごく嫌な予感がした。
「今暇なの? これからお茶しない?」
これは……漫画や小説に出てくる『ナンパ』というものだった気がする。
いやいや、これは物語だけでいいって。こんな平凡な学生を捕まえても楽しくないよ。
私は苦笑いをしながら、じりじりとナンパ男から離れようとする。
「と、友達を待っているのでし、し、失礼しまー……」
「そんなこと言わないで。良いお店知っているんだよー」
行こうとした道に、ナンパ男の腕が伸びて来た。後ろはコンビニの壁。逃げ道がない。
ああ、これは絶対絶命のピンチだ。物語なら、物語ならきっと誰かが助けてくれる。
――……そんなこと、あるわけないか。
私は小さく息を吐いて、逃げようとした反対側を横目で見る。一瞬隙を作れば逃げ出せそうかも。最悪殴ろう。
――そう思った次の瞬間、ナンパ男が突然悲鳴を上げた。
「痛ってえええ! 何すん……!?」
「――あ?」
ナンパ男の視線は私とは反対の方向へ向いている。振り向いてみると、そこにはナンパ男の腕を掴み上げ、じろっと睨みつけるリツの姿があった。
「クソッ……おい! 離しやがれ!!」
「…………」
「オイ! 聞いてんのか!?」
リツにしては低い声で、身長もたった数ミリの差だったのにその何倍も大きくて、黒ジャージ姿からあまり想像できないくらいがっちりした腕をしていて。男の子というより男の人だった。何も喋らないリツにナンパ男は怒鳴り散らすと、彼は口元を小さく緩ませて嗤った。
「――何か用?」
その嘲笑った顔に、ナンパ男はビクッと体を震わせた。少しばかり、壁に置いている手が汗ばみ、膝が笑っている。
呆然としながらリツを見ていると目が合った。顎をクイッと小さく動かし、「こっちに来い」と合図を送ってくる。私はナンパ男の領域からそっと抜け出し、リツの後ろに隠れるように行くと、男から手を離したリツが、今度は私の手を握って改札へ向かった。
改札を抜けてホームまで行くと、お互い、緊張の糸が切れたように、大きく息を吐いた。
「はー……ナンパは都会の中心部にしか存在していないと思っていたが、こんなところにまでいるのかよ……。大丈夫だったか?」
「あー……うん。ありがとう、助かったよ」
「そっか」
ふっと笑みを浮かべる彼は、やはりあのリツだった。袖をまくった青のジップパーカーに白のTシャツ、黒のチノパン姿は地味だけど、思っていた以上に着こなしている。じろじろと見ていると、彼は気付いて苦笑いした。
「そんなに珍しいか、この姿」
「うん。だっていつも黒ジャージだし、身長だって……」
「あー……まあ、そうだよな。流石にあの恰好じゃ、お前の一人歩きになるからな。悪魔の姿は契約した人間以外見ることができない。だから人間の姿に化けてみた。まあ、なるまでに時間がかかるから遅れちまったわけなんだけど……」
リツはそう言って言葉を区切ると、私の頭をそっと撫でて、ホッとしたように微笑んだ。
「お前に怪我がなくてよかった」
「……リツ、流石に怪我する前に殴ってたよ」
「ああ、お前ならできそう」
冗談で言ったつもりだったので、納得したように頷く彼の横っ腹を突く。先程の震えはなくなり、私はいつの間にか笑っていた。慣れない服装も不安も緊張も、きっと私はこの日が楽しみで仕方がなかったんだと、彼の笑った顔を見て確信した。
それからたわいもない話をしながら、電車に揺られて二駅。学校の最寄り駅でもあるため、ケーキ屋から近い改札に行く為に地図と睨めっこする必要もなく、スムーズに駅を出る。いつも見慣れている風景ではあるものの、隣にリツがいるだけでなんだか新鮮に思えた。
「お前の学校って、こんな都会っぽいところにあるんだな」
「そうだよ。リツは外に出ないの?」
「滅多に出ないな。部屋にこもって料理作ったり雑誌を読んでいることの方が多い。……ところで、前から気になっていたんだけど、何の学校に通ってんの?」
「……笑わない?」
「ものによる。まあ、言ってみろって」
「…………調理学校」
「…………」
普段家で料理をしないこともあり、料理の腕は壊滅状態である。――というのは、本当の話。一度彼の前でカレーを作ったとき、盛大に指を切ったので、それ以来私は彼にとって不器用という印象をつけていたのは、今までの彼の行動を見ていれば鈍感な私でもわかる。だからこそ、私が通っているのが調理の専門学校と答えるのは気が引けたのだ。
笑うなら盛大に笑っておくれよ。
小さく呟きながらそっと彼を見ると、想像していた反応とは大きく違った。彼は目を輝かせ、とても嬉しそうに笑っていた。
「なんだよー。そういうことなら早く言えって。今度何か一緒に作ろうぜ!」
「え……?」
「え? じゃなくてさ。専門学校でやる料理って本格的じゃん? 最近売っているレシピ本は『簡単・安い・保存が効く』の三拍子が多くて作り甲斐がないんだよ。でも【ゆな】がレシピを書いて一度作ってから家に帰って一緒に作ればさ、俺も楽しいしお前の復習にもなる! 一石二鳥じゃん!」
誰かと一緒に料理するのが夢だったんだー。と、嬉しそうに笑いながら言うリツに、私は呆気を取られた。
「本気……?」
「本気だけど。え、ダメ?」
「駄目じゃないけど……え、私も一緒に作っていいの?」
「当たり前じゃん! 先に学校で習っているんだから、お前は俺の先生になるんだぜ?」
「先生って……教えてあげられるかな?」
「大丈夫だって。失敗しても食べるの全部お前だし」
「処理係!?」
どうやら彼の中の「料理ができない住居者サン」の印象は消えているらしい。料理の話になると輝く目が、さらにキラキラとしている。
「大丈夫。【ゆな】と一緒に作ったものが不味いワケねーよ!」
そして先ほどから気になっている、彼のある言葉に、私は問う。
「……今日は【住居者サン】って呼ばないんだね」
「流石に外だからな。不審過ぎるだろ」
「でもリツ、私は【ゆな】じゃなくて【ゆいな】だよ」
「……あ、あれ? 結ぶ菜の花だから【ゆな】じゃ……」
「漢字はあっているんだけど、読み方が違うの」
「マジか!?」
キラキラと期待の笑みを浮かべたと思えば、一瞬で驚いた顔に。さっきからリツは忙しそうだ。
「いいよ。ゆなって呼んで」
「そ、そっか。……なんか悪いな」
「ううん。呼ばれるの久々だったからびっくりしたよ!」
地元の同級生のほとんどが幼馴染であったため、私のことをニックネームとして「ゆなちゃん」と呼ぶのが大半だった。こっちに来てから結菜と呼ばれることが多くて、久し振りに呼ばれるとホッとする。
「嬉しそうだな」
私が一人でにやにやと笑っているのを見て、リツが不思議そうに聞いてきた。そりゃあ、一人でニヤついていたら、誰だって不思議そうにするだろうけど。
「お前がそんなに幸せそうに笑うの、ケーキ食べているときくらいしか見ねぇ」
「私、そんなに暗い子じゃないよ!?」
「知ってるよ」
リツはそう言うと、私の頭をポン、と軽く叩いて先を歩く。
「新しい環境に慣れない最初の頃に比べたら増えたよ。本当に嬉しいときにしかしない、ゆなの笑った顔はさ」
彼の言葉にハッとして、私は足を止めた。
一人暮らしが素晴らしいと謳ったその裏でずっと渦巻いていたモヤモヤを、彼はずっと前から気付いていた。慣れないコンクリートジャングルに一人投げ出され、置いてかれた孤独感が耐えられなくて、外に出ることで自分がいることを感じていた時期があった。それを家事が苦手と括り付けるのは単なる甘えにしかならないけど、何もやる気が起きなくて、コンビニ弁当に頼ってばかりな日々が続いていたのは事実だった。
「ゆな?」
私が止まっていることに気付いて、リツが振り返って名前を呼ぶ。
もし彼が私の前に現れなかったら、あのホットケーキを食べなかったら。――ここに私は居なかったかもしれない。
「……っごめん! ちょっとびっくりしただけ!」
「びっくりって……お前、今日で何回驚いてんだよ?」
「いいの! 沢山驚けば楽しいでしょ!」
慌てて彼の隣へ駆け寄る。彼が悪魔だと忘れてしまうくらい、居心地がいいと思ってしまうほど馴染んでしまったのは仕方がないことだ。
小さく溜息をついて笑うリツと一緒に、何を食べようかと話しながらケーキ屋に向かった。
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