デビルズケーキの誘惑
橘 七都
第1話
「一人暮らし」――なんて素敵な日常だろう!
夕焼け空が広がる中、私はコンビニの袋を揺らしながら帰路につく。
進学のため、学校近くのアパートで一人暮らしを始めて早一ヶ月。実家のある田舎とは程遠い、都会のコンクリートジャングルにいつも苦戦しながら、学校の友人や近所のおばちゃんの力を借りてなんとか今日まで過ごしてきた。
それにしても「都会で一人暮らし」は素晴らしい! 実家では見られないテレビ番組はすべて見られるし、電車の本数は五分おきにやってくる。車を出してまで行ったコンビニや薬局、デパートまでもが駅の近くにあるなんて、小説の中だけだと信じきっていた。大げさに見えるかもしれないが、田舎育ちの私には都会のコンクリートジャングルが新鮮で、眩しく映っているのだ。
学校は楽しい。いろんな県から集まった同級生が、地元とのギャップを感じながらも試行錯誤して都会に馴染もうと必死になっている。授業も高校では学ぶことが少なかった技術面をメインにカリキュラムが組まれており、時々バカ騒ぎをしながら、毎日楽しく過ごしている。
今日は授業が終わってすぐ、友人と駅近くのハンバーガーショップでお喋りをしていた。楽しい時間は忘れるほど早く流れてしまう。電車の帰宅ラッシュが始まる少し前に友人と別れ、途中のコンビニで夕飯のサラダとおにぎり、プリンを買う。朝からの実習授業からのお喋り、帰宅時の満員電車は未だに慣れず、夕飯を食べきれる自信がない。
普段は自炊を心がけている。――と、胸を張って言いたいところだが、三日坊主の性格である私の食生活は荒れに荒れていた。一週間のうち外食は二~三回、自炊は炊飯器で炊いた白米とカップスープ。何もないときは味付け海苔。そしてほとんどがコンビニの利用だった。部屋には空いたプラスチック容器が袋いっぱいに詰められ、ペットボトルと空き缶が散乱。頑張っていることと言えば、野菜ジュースのストックを切らさないことだろうか。
これでは早々に親が帰ってこいと怒るに決まっている。早くなんとかしなければ……!
頭の中で鬼の形相の母親を思い浮かべながら歩いていると、借りているアパートの前までやってきた。するとふと、優しく吹いた風に甘いバニラの香りが漂った。満員電車で気持ち悪くなっていたにも関わらず、いつの間にか空腹を訴える音が鳴る。辺りを見渡していると、角部屋にある私の部屋の窓が開いていることに気付いた。
朝から開けっぱなしだったのだろうか、窓からカーテンの端が大きく揺れていた。部屋の中を誰かに見られたかもしれない。はたまた泥棒が入られたかもしれない。様々な不安と最悪の状況を思い浮かべながら、急坂になっている階段を駆け上る。慌てて鍵を出してドアを開けると、アパートの下で漂ったバニラの香りが顔に直撃する。甘くてほわほわした、焼きたてのケーキをひっくり返したときのようなその香りは、一時の幸福を錯覚した。
そしてふと、疑問に思う。なぜこの香りが私の部屋から漂ってくるのだろう。玄関の先にはすぐキッチンがあるため、その疑問はすぐ解決した。
「――おおっ! この黄金色の焼き色……流石、俺が作ったホットケーキは最高だな!」
その時の私の表情は、誰にも見せられないほど酷いものだっただろう。
ドアを開けたその先には黒のジャージに身を包み、背中に黒い羽根をつけた私と同じくらいの男の子が、ホットケーキの入ったフライパンとフライ返しを持って鼻歌を歌っていた。
――待って、ここ、私の部屋だよね?
なんで勝手に入ってんの、なんで真っ黒なの、なんで羽根なんかつけてるの、なんで鼻歌歌ってんの。
「――なんでホットケーキ焼いてんの!?」
混乱しすぎて、頭に酸素が回らなくて、やっと出た第一声がホットケーキへの疑問だった。男の子は私の声に気付いたのか、玄関の方を向いてニッコリ笑った。
「おやつだよ。人間は腹が減ると戦ができないっていうんだろ?」
「おやつ…………」
「そう。おやつ」
「…………おやつ」
「だからおやつだって。メープルシロップと蜂蜜があるけど、どっちがいい?」
「……蜂蜜」
「オーケイ。ほら、そこに突っ立っていないで、早く入って来いよ」
「はーい……」
私は彼に言われた通り家に入って靴を脱ぎ、手を洗ってからリビングの座椅子に座ると、彼がテーブルに先程のホットケーキとフォークを置いてくれた。ホットケーキは二枚重なっており、たっぷりと蜂蜜がかけられている。
「冷めないうちにどうぞ」
「いただきます」
手を合わせて呟く。実家で教え込まれた食事への礼儀だ。
フォークで器用に切り取って蜂蜜が垂れるその前に、口へ素早く持っていく。途端、私は目を見開いた。ふわふわの食感にバニラの香りが広がると、じゅわっ……と染み込んだ蜂蜜が、口の中を占領していく。
「おいひい……!」
「だろ?」
彼が満足そうに笑うその横で、せっせとフォークを動かしてホットケーキを口へ運ぶ。もう彼がどうして部屋にいるのか、どうして羽根をつけているのか、どうでもよくなった。
「……どうでもよくない!」
皿の上のホットケーキを完食し終え、手を合わせてご馳走様と呟いてようやく私は彼に向かって怒鳴った。彼は不思議そうに私を見て、首を傾げた。
「ん? どうした?」
「あ、貴方……誰!?」
「ああ、忘れてた」
彼は笑いながら、私の隣に座る。
「俺はこの部屋に住み憑いた悪魔だ」
――え、何言ってんのこの人。
私はまた、酷い顔をして彼を見た。自分の事を悪魔だの、部屋に住み憑いているだの、正気か。
「信じられない、といったところか」
彼はそう言って、よほど私の顔が面白かったのか、笑いをこらえながら続けた。
「無理もないよな、夢の一人暮らしを初めて早一ヶ月。いきなり現れた悪魔に宜しく言われても、困るよな。……でも悪いな、もう契約しちまったから」
「契、約……?」
「それ」
指さした先にあるのは、先程私が完食したホットケーキの皿だった。しかし、これと契約と何が関係あるのだろう。彼はキラキラと輝く笑みを浮かべて続けた。
「悪魔が作ったスイーツを食べることが、俺と共に生活する契約なんだ。つまり――今日から俺と楽しい、楽しい共同生活が始まるってことさ」
「……はぁ!?」
「騙すつもりはなかったんだ。けど、初めましては好印象が肝心だろ? それに、あんなに美味そうに俺が作ったものを食べてくれるなんて思ってなかったし、一緒にいても退屈しなさそうだから。ああ、契約は無効にはできないからな。契約を解除するためには、【半年一緒に暮らさなければならない】、これ鉄則!」
彼は私に口を開く余裕を与えず、淡々と話しを続けていく。どうやら拒否権はないようだ。だからといって少しくらい、意見や反論は言わせてほしい。頬をむくれさせながら聞いていると、彼は笑って右手を差し出した。
「俺はリツ! よろしく、新しい住居者サン!」
――
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