48.◇失えない人
涙華が出て行った後の部屋は、あまりにも閑散としていた。
自分の心と同じで、乾ききった空気に圧迫され、今にも押しつぶされそうだった。これが俺の望んだことだったのだろうか。
出て行けと追い出して、涙華をひとりにすることが?
偉そうに怜と約束なんかしておいて…
「何やってんだ、俺は」
互いの存在は、一番安らげる場所でなくてはならなかった。
俺たちはもしかしたら、その正反対の存在でしかなかったのかもしれない。
いつも、「ただいま」と玄関のドアを開ける前に、ひと呼吸置いて作る笑み。
それは、どんなに相手を想ってのことだとしても、偽りでしかない。
ふたりでいて疲れるような相手なら、一緒になんていない方が良い。
弱さをみせないことが優しさではないと、気付いた。
愛しているから言えないことだってある。心許し合える関係だからこそ言ってはならないこともある。
でも、互いにそんなことばかりに気を遣っていたから。
だから俺たちは、本当に大切なことにも気づけなかった。
彼女を想ってこそ、と正当化して。
でも俺は、ただ傷つく自分をかばって本当のことが言えないでいただけだ。
一緒にいたのに、違うところばかりを見ていたから。
別れを決めたのは、自分のため。
彼女を愛していることに変わりはないけれど、それがこんなにも辛く苦しいことなら、いっそ忘れてしまいたかった。
泣かせてしまうくらいなら、傍にいない方がいいと思った。
彼女の涙を止めることは、俺にはできないから。
それでもこうして彼女を捜し回っているのは、どうしてだろうか。
そんなこと、俺が一番わからないのに。
考えれば考えるほど、腹が立つ。
霊園や近所のコンビニにも行ってみたけれど、彼女はいなかった。思い当たる人や場所は一通り当たってみたけれど、空振りに終わった。
となると…最後は小学校の近くの、公園。
昔、龍那とケンカをして部屋を飛び出した涙華を何度か迎えに行ったことがあったから。
善意からではなく、迎えに来てと一方的に電話を切られ、慌てて駆けつけてみればくだらないケンカの愚知を散々聞かされる、という何とも不本意な出来事。
それも今思えば、微笑ましい思い出の一つ。
そして、いつの間にか降りだした、雪。漆黒の空から明かりを灯したようにふ、と現れては、静かに消える。
「涙華」
ほわりと吐き出した白い息の向こうに、彼女の姿を認めた。
公園前の街灯の下で、降り続ける忌々しい雪から逃れるように、頭を抱えて小さく蹲る愛しい人の背中。
駆け寄って、名を呼んで、身体を揺さぶって、叫ぶ。
「泣くな!」
昔から、そう。
龍那とケンカして落ち込んだ彼女に、俺はそんなことしか言えないでいた。
龍那が死んだ、あの時も。
何を言ったらいいのかなんて、わからなくて。
彼女が今どんな言葉を欲しがって泣いているのか、何を言ったら心を動かせるのか、心に響くのか。
こんな時龍那なら、何て言うだろう。
そんなことばかりが頭を巡って、結局何も言えずに彼女が泣きやむのを待っている。
蹲って恐怖に硬直しているその背中を、優しくさすってやることしかできない。
無力すぎて、笑えてくるほどに。
しばらくして落ち着きを取り戻した彼女が、
「ごめんなさい」
と呟く。
ようやく顔をあげ、泣き濡れた顔で、俺を見る。
「いっぱいいっぱい傷つけて、ごめんね」
ぎゅ、と力一杯抱きついてきた涙華に驚いて、俺は思わずバランスを崩す。体重を支えきれずに、その場に尻餅をついた。 それでも、ごめんねと繰り返し、俺の胸に顔を埋めている涙華。
「涙華?」
これは夢なのだろうかという猜疑心を捨てきれずに、恐る恐る彼女の髪に触れてみる。
さらり、と撫でて。軽く肩をつかんで身体を離す。
最近になってやっと少しだけふっくらしてきた輪郭を、柔らかい唇をなぞるように指で触れて確かめる。
言葉なんて要らないのではないかと思うほどに、今ふたりわかり合えたような気がした。例えそれが今だけ、この瞬間だけであったとしても、幸せだと感じた。
知っている言葉だけでは言い表せないほどに、嬉しくて。胸の奥に、ぱぁっと温かい何かが染み渡ってくるよう。
相変わらず、一言で涙華を虜にしてしまうような名台詞なんて、浮かばない。俺なんかの小さな脳みそでは、考えるだけ無駄だとわかっている。
「バカかお前は!」
結局、そんなことしか言えない。
だからその変わりに、頭を引き寄せて髪を乱すように胸に掻き抱く。
精一杯そうすることしかできないから。
彼女が消えて無くなってしまいそうで、怖かった。
涙華の声、匂い。
いつものあの温もりと、涙。
まだ失っていない…間違いなく愛しい涙華だと確信する。
彼女と離れた時間の長さは、計り知れないほどの闇でしかなかった。それをわかっていながらまだ耐えきれず逃げ出して、気づく。
彼女にわからせたくて、存在に気づいてほしくて駄々をこねたところで、いつも逆に思い知らされる。俺にとって彼女がどれほど大きな存在なのかを。
「ずるいんだよ!いつもいつも勝手すぎるんだよ!」
俺から離れて、近づいたと思ったらまた、遠ざかる。
いろんなことがありすぎて気が滅入っていたのも事実。
彼女を想ってのこととはいえ、小さなすれ違いが重なって離れてしまった心の隙間は、思ったよりも大きかった。
失ったものを取り戻すことはできない。壊れたものを修復するのはそう簡単なことではないから。
「何で…こんなところで何をしてんだよ。お前なんか、怜と一緒にどこへでも行ってしまえばいいんだ」
それを少しでも埋めようとして、腕に力を込めることしか。
「ごめんね」
幸せになるのであれば、その隣にいるのが怜でもいいと思った。
幸せに満ちた涙華を見ていれば、いつか忘れられるだろうと。
けれどそんな強がりは、彼女が部屋を飛び出していった直後から重い後悔となって襲ってきた。
なぜ、あんなにもひどいことが言えたのだろうか。
幾度となく自分を責め、その悔やみきれない後悔の渦の中で徐々に芽生えた、新たな想い。
大事な親友を失って、更に彼女まで。
そんなことになったらもう、生きてなどいられないから。
誰かの手の中ではなく、この手で幸せにしたいと。
これから先もずっと、誰にも負けないくらい涙華を愛していきたい。
彼女の過去の痛みや哀しみごと、すべてを――。
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