49.○最後の雪

 ハルアキが、私を呼ぶ。

 忌まわしき雪が舞い始めた夜の公園で、うまく呼吸が出来なくなっていたはずなのに、禁煙中の彼の服になぜか染み付いたタバコの匂いと僅かな温もりで随分と落ち着いてきた。

 タバコの匂いなんて大嫌いなはずなのに、それも彼の一部になっているのか、本当にハルアキなのだと安堵してしまった。

 いつもいつも傍にあった、この温もり。

 当たり前すぎて。

 それがあったからこそ生きて来られた事実にさえ、気付かなかった。

 でもだからこそ、

「ハルアキ、私ね、龍那を忘れる事なんてできない。…怜の、ことも」

「うん。わかってる」

 嘘はつけない。今度こそ。

「でも、ハルアキのことも大好きだよ。いつもいつもわがまま言って傷つけて、ごめんなさい」

 傷つけることで、わかってもらおうとしていた。

 私はこれだけ辛いの、と叫んで。何とか救い出してもらおうとしているくせに、いつもそこにいてくれた彼に手を伸ばしはしない。

 抱きかかえ連れ出してくれるのを待って、駄々をこねて泣いてばかりいた。

 手を引かれるままに身体を委ねていれば、それは自分で選んだ道ではないからと、妙な後ろめたさや罪悪感など持たなくて良いから。

 誰かのせいにしていられたから。

 けれどそんな人任せな人生など、想いなど、くだらないと気づいた。

 互いに幸せになろうと言ってくれた人がいるから、逃げてはいけないと思った。

 傍にいて欲しいと思うことが愛ではないと言われれば、そうなのかもしれない。

 確かなことはよくわからないけれど、わからないなりにたどり着いた揺るぎない想いが、ひとつだけある。

「私、生きたい。ハルアキと一緒に生きて行きたい」

 ふたりで、少しでも幸せな未来を描いていきたい。

「今は、そんな風にしか言えないけど……」

 小さな夢を、少しずつ叶えていきたい。

 ハルアキと、ふたりで。

 例えその先にあるものが、明けない闇であったとしても、彼と一緒なら、きっと。

「涙華」

 しばらく黙っていた彼が、突然低い声で切り出した。

「顔あげろ」

 でもそうしたらきっと、別れを告げられる気がして嫌だった。

 身体を離したらきっと、今度こそ最後になってしまう気がして、私は、「嫌」と首を横に振る。

 せめて雪が止むまでは、こうしていて欲しかったから。

「さっきニュースで、この雪が今シーズン最後になるだろうって、言ってた」

 胸元にしがみ付いて離れない私を、彼は優しく慰めるように頭を撫で、ゆっくりと口を開く。

「龍那は海が好きだったけど、雪が降ると何だか嬉しそうだったよな?」

「うん」

「俺は寒がりだからあんまり冬は好きじゃないけど、龍那の好きだったものは、俺も好きになりたいと思う。好き嫌い言って泣いてたら、龍那だって安心できないだろ?」

 耳の傍で囁かれる声は、諭すかのように自信に満ち溢れていて、心に染みる。

 ただ黙って傍にいてくれるいつもの彼とはまた、違う一面を見た。

「ちゃんとひとり立ちしないとな、俺たち。じゃないと、龍那に顔向けできない」

 私が可哀想な自分を哀れんで泣いている間に、ハルアキはこんなにも強くたくましい心を手に入れたのか、と思い知る。

「うん」

 ひとり立ち。

 そこに込められた思いを悟って、私は身体を離す。

「互いに頼りすぎず、ひとりでも立てるようにならないとな」

 仰ぎ見た彼の瞳は、降りしきる雪をも凌ぐ強い色を放つ。

 惹き付けられる程に決意は堅いのだと知る。

「俺は‥ずっと涙華が好きだった。龍那と涙華が出逢う前から…ずっと」

「うん」

「それはこれからも変わらない」

「うん」

「だから、」

 初めからやり直そうと、彼は言った。

 嬉しかった。

 だから、どちらともなく交わされた口付けが心の奥にほ、と明かりを灯す。

 もっと触れていたくて、私はコツと額をぴったりくっつけて答える。

「嬉しい」

 嘘も不安もない、真実だけを。

「涙華、愛してる」

 ゆっくりと、心に染み入る声。

「俺なんかじゃ、きっとまた泣かせるだろうけど…あいつらの分まで、大切にするから」

 あの頃はあって、今はないもの。

 あの頃は隣にいて、今はいない、かけがえのない人。

 けれど、

 あの頃はなくて、今はあるものもある。

 あの頃も隣にいて、今かけがえのない存在だと気づいた人がいる。

 失ったものを取り戻すことはできないけれど、私にできることは、今ある大切なものを守ること。

 しっかりと、この手で。

 目の前にいる人と出逢えたこと、そして好きになれた奇跡を、これからも大切にしたい。

 私を愛してくれた龍那のためにも。

 それに気付かせてくれた怜のためにも。

 誰にも恥じない生き方を。

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