45.☆幸せな未来

 こんな事になるなんて、思ってもなかった。

 俺にはもうこの世に守るものなどなくて。いつ何が起きたとしても、未練などなく安らかに逝けると思っていた。

 けれどあんなに間近に死を感じてみて、新たに生まれた想い。

 あの時真っ先に浮かんだ顔は――、

「ねぇ怜、私の話聞いてた?」

 訝しげに覗き込んでくる涙華。

 ひたすら喋り続けていた彼女は俺がケガ人であることをすっかり忘れて、「ねぇねぇ」と執拗に身体を揺さぶってくる。

「痛ッ!いいかげんにしろ」

「あ、ごめん!」

「病院に来て騒ぐな」

 つい言葉を荒げて言ってしまった後で、しゅんと俯き加減の彼女に気づく。

「な、何だよ、文句あるのか」

「仕事終わってから、わざわざお見舞いに来てあげてるのになぁ~」

「頼んでない」

「あ、そーいうこと言うんだ」

「毎日来なくて良いって言ってるだろ。ハルアキだって心配してるだろうし」

「心配なんてしてないよ。私達別れたって言ったでしょ。お見舞いに来ちゃ、迷惑?」

 パッと顔を上げた涙華が、いつになく真摯に見つめてくる。その瞳が徐々に潤いを含み始めて、黙ったままの俺を急かすように唇を噛み締める。

 そんな彼女とは違い、このまま放っておけばきっと泣き出すだろうな、と冷静に考えている自分がいた。

「かなり迷惑。もういいから帰れ。退院したら、ちゃんと連絡するから」

『俺は涙華を幸せにはできない』

 そう言っていつかのハルアキの問いを否定したことに、今も後悔や嘘はない。

「そんなの嫌。退院したら引っ越すんでしょ?もう会えなくなるんでしょ?」

 今にも泣き出しそうなへの字に曲がった唇と、むぅっと怒った時の眉間のシワが一緒になったくしゃ顔。

「だったら、何?」

「私も!」

 涙華は、冷たく返す俺に掴みかかる勢いで身を乗り出す…が、きっとそうしようとした寸でのところで、俺のケガのことを思い出したのだろう。

 彼女の伸ばし掛けた手は、逡巡して力なく空を掴むと、自然と胸元に運ばれた。

「どうした、涙華」

 不安そうに瞳を泳がせる。

「私も連れて行って」

 と強く言った涙華。

 また、泣くかと思っていたのに。

 彼女がこうして胸元に手をやるのは、龍那さんの指輪がそこにあるからだと、ハルアキから聞いたことがある。

 不安や迷いがある時は、必ずそうしていると。

「なぁ涙華。もし、引っ越しってのが嘘だったらどーする?俺が行こうとしてるのは、あの世かもしれないし」

「え?」

「それでも、俺と一緒にくるか?」

 軽い、冗談のつもりだった。

 あくまでも、いつもの他愛のないやり取りの延長線上であって、深い意味などなかった。

 彼女は俺にとって、手のかかるペットのような。一番合っている表現を使うなら、親友。

 それ以上でも以下でもない存在。

 そうだったはずなのに、

「いいよ」

 なんて、彼女が言うから、

「怜となら、いいよ。一緒に逝く」

 だから俺は、一瞬にして捕らわれた胸の苦しさに耐えきれず――、

「……え?」

 思いのままに、涙華を抱き寄せた。

 強く。

 無事だった方の右手で彼女の腕を捕まえ、強引に引き寄せただけだけれど、驚いて、俺の名を呼ぶ声が耳元で掠れる。

 許されないと知りながら、けれどこのまま、ずっとこうしていられたらと。

 そんな気持ちの方がきっと何よりも勝っていたから、俺は抱きしめる腕に精一杯の力を込めた。

「涙華、ありがとな」

 言うと、ようやく胸のつかえが取れ、普通に息ができるようになったと気付く。

「れ、怜?」

 上擦ったような涙華の声に呼ばれて、俺は我に返る。夢を見ている場合じゃないと、軽く息を吐いて身体を離した。

 もうこれが、最後。

「何を言うかと思えば…バカだな」

「だって…怜の幸せを壊したのは、私だから」

「涙華…」

 彼女が兄貴に沙奈瑚の居場所を教えなければ、と当時はそんな風に思った事もあった。瞬間的にだが、胸ぐらを掴みあげてしまう程に頭にきていた。 

 けれど、涙華がそうしなかったとしても今、沙奈瑚が俺の傍にいたとは限らない。むしろあの時怒りのぶつける場所があったからこそ傷は浅く、ハルアキと涙華の助けがあったからこそ堕落の道からも抜け出せたのに。

「涙華と一緒になんて俺はゴメンだね。足手まといになるだけだし」

「ひどいなぁ。そこまではっきり言わなくてもさ~」

 むぅ、とふて腐れる、いつもの彼女に、つい笑みがこぼれる。

 しかし身体を離した時の胸の疼きが、先程から消えない。増すばかりで。

 それは折れた肋骨のせいなのか、決してぶれず、どこまでも真直に見つめられているせいなのか。

「怜?」

「嘘だよ。もしそうなれたなら、俺は嬉しい。一緒に、死ぬか?」

 まっすぐに俺を見て頷いた涙華。

 不安そうに胸元の指輪を握る手は、もうない。

 このまま、溢れ出る彼女の優しさに包まれていたかった。本当に彼女と一緒になら…と、一瞬思った。

「でも、ダメだ」

 ハルアキは涙華を失ったら、どうなるだろう。

 しかも俺が一緒に連れて逝ったと知ったら。

「こんな事、あいつが許してくれないよな」

「……ハルアキは、あの時も私を龍那と一緒に逝かせてくれなかった。生きてる方が、よっぽど辛いのに」

「そうだな。でも、ハルアキの方がもっと辛かったんじゃないか?」

 俺だったら、どうしただろう。

 俺がハルアキの立場だったら、彼女の気持ちを考えて一緒に逝かせてやっただろうか。

 それとも黙って、ただひたすら傍にいてやれただろうか。

「涙華、あいつの気持ち考えたことあるか?」

「え?」

「ハルアキは龍那さんを忘れろなんて言わないだろ?」

 きっと俺だったら、沙奈瑚にしたように強引にでも手に入れようとしただろう。

 彼女の気持ちなど考えもせずに、いつかその心を開いてくれる日のことを、夢見て。

 やはり俺はハルアキとは、違う。

 彼のようにただ“傍にいること”なんてできない。

 それがどれ程辛く、苦しいことなのか、よくわかっているから。

「龍那さんと一緒に逝かせることの方がどんなに楽なことか。そうさせなかったのは、涙華と生きていきたいと思うから、だろ」

「そんなの!」

 突然、何かが弾けたかように切り出した涙華。

「そんなの、ハルアキの勝手でしょ」

「じゃぁ、誰のおかげで今生きてると思ってんだ?」

 彼女の瞳が、わずかに大きくなる。

 黒い瞳が傷ついたように一瞬震えて、それでも強く俺を射る。

「少しでも、ハルアキとの幸せを夢見たんだろ?あいつとなら幸せになれる、って言ってたのはどうした?」

「もう、無理だよ。疲れた、って言われちゃったもん」

「そんなんであっさり引き下がるのかよ。あんな良い男逃がすなんてもったいない。本当にそれでいいのか?」

「……わかんない」

 でも、こうなることが彼にとっても私にとっても一番良いことだからと、涙華は呟くように言った。

「だから、俺と死ぬのか」

「だって…怜には、哀しい思いをして欲しくない。ひとりで傷ついてる怜なんて、見たくないもん」

 だから、一緒に死んであげるだなんて。

 それが愛だとでも、言いたげに。

「何だよ、それ」

 優しさに満ちた、涙華の笑み。

 これを失わせてはならない。

「くだらねぇな。そんな気持ちなら、いらない」

 相手を幸せにしたいと思うことが本当の愛というのなら、俺が今まで描いてきた愛は、全くの偽物になる。

 今この瞬間に思ったことを実行して、欲を満たしていただけに過ぎない。その時沙奈瑚が何を思っていたかなど、考えもせずに。

 それと同じように、涙華が俺に対する気持ちに、未来は存在しない。

 俺たちが惹かれ合うこともまた、情や一時の迷いでしかないはずだ。

「なぁ、涙華?」

 そんな哀しいことが、本当の愛であって良いはずがないから。

「一緒に死にたいと思える相手と逝くよりも、一緒に未来を描ける相手と添い遂げる方が、ずっといいだろ」

 たとえその道が、どんなに辛いものになるとわかっていても。

「そう思わないか?」

 俺は、沙奈瑚と一緒に死ねるなら本望だと。

 ずっとそんな風に思っていた。

 けれど、死を覚悟できる愛など、あまりにもちっぽけで哀しいことだと気づいた。

 傷の舐め合いなんかではなくて、しっかりと未来を見据えて、共に生きていきたいと思える相手と一緒にいられることの、奇跡。

 自分が心から想う相手から、同じように想われる。

 そんな些細なことでさえ、本当は素晴らしい奇跡であって、簡単な努力なんかで誰もが叶えられるものではない。

「涙華、俺は……」

 一瞬、脳裏に浮かんだ彼女との未来を打ち消して、

「俺もいつか、そんな人と出逢いたいと思う」

 涙華は膝の上で堅く握りしめていた拳を開いて、口元を押さえた。

 泣かないと決め、頑なに守ってきた決意を裏切って溢れだしたそれを、恐らく堪えることができなかったのだろう。

「うん」

 と何度も頷きながら、漏れる嗚咽。

 流れる涙には、どんな思いが込められているのか。

 そんなことは、聞かない。

 もう、抱きしめることもしない。

 この胸にある想いが同情や共感、もしくはもっと別の何かだとしても、そうすることはしない。

 俺が彼女の愛した人と瓜二つだったことも意味があったのかもしれない。

 そうでなければ出逢うこともなかったのだから。

「涙華…互いに、幸せになろうな」

 ハルアキとの約束。

 あの時、最後にひとつだけ約束しろ、と切り出した彼は、

『次に会う時は絶対、幸せだ、って言えよな』

 と、大粒の涙を流した。

 そうなりたいと思った。何が幸せなのかよくわからないけれど、あの時俺は力強く頷いた。

 いつか、その約束を守れるように。

 いつかどこかで彼らに逢った時、胸を張ってそう言えるように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る