44.○別れの予感
怜を失うかもしれないと思ったあの時は、龍那の死を連想させた。
あまりの痛みと哀しみに、心が砕け散ったようで。もうこんな思いをしたくなかったのに、どうして。
「ただいま」
誰かに向けたわけでもなく、自然と出た言葉に返る声は、ない。
すっかり日付が変わってからの帰宅なのだから、ハルアキが起きていないのも当たり前だった。
しかし、
「おかえり」
静かに部屋の明かりを灯すと、同じタイミングでハルアキが寝室から顔を出す。
「あ、起こしちゃった?ごめんね」
「今何時だと思ってんだ?
「んー0時31分」
嫌味とわかっていながら、私はわざわざスマホで時間を確かめて正確に答えた。
「そーいう意味じゃねぇよ。どこ行ってたんだよ、こんな時間まで」
「終電逃しちゃって、タクシーで帰ってきたの。仕方ないでしょ」
あの日から、何だかハルアキとはずっと気まずいまま。
曖昧に答えを濁すと、大きくため息を漏らす彼。
「病院か?」
「わかってるなら聞かないでよ。遅くなるって電話もしたでしょ」
「面会時間なんてとっくに過ぎてるだろ。…お前、また飲んできたのか?」
「悪い?」
「は?」
ハルアキは不快そうに眉根を寄せ、低く言葉を吐き捨てる。
「何をキレてんだよ」
「私、もう寝るから」
私はまともにやり合う気など更々なかった。
「おい涙華、聞いてるのか」
「聞いてるよ!怜のお見舞いに行って何が悪いの」
「悪いなんて言ってないだろ。俺はただ、心配で…」
「余計な心配しないで!」
私は強く言い切って、寝室に駆け込んだ。ドアを閉めて内側からカギを掛ける。
「涙華!出てこいよ」
「嫌っ」
ドアを強く叩き、声を荒げる彼に対して、私も負けじと叫ぶ。
「もぉ放っといて!」
「放っとけるかバカ女。毎日毎日酒飲んで帰ってきて。何やってんだよ」
「わかってる。わかってるよぉ!」
散々叫び散らすと、今度は喉が痛くて、声を失う。
代わりに、涙が溢れた。
「涙華?おい、涙華」
ハルアキとの間にはこのドアだけなのに、ひどく遠い隔たりに感じて、呼ぶ声が、心が、見えなくなる。
「涙華?」
「嫌…私、もぉ嫌だよ」
お酒に頼るのは、苦しいから。辛いから。
「どうしたんだよ。ここ開けろよ…頼むから」
こんな風に、いつもそこに居てくれるから。だから、余計にどうしたらいいかわからなくなる。
「嫌。もう誰も、失いたくない。こんな思いをするくらいだったら、あの時龍那と一緒に逝っていれば良かった」
口にしてはならないこと、そんなことの区別もつかないくらいに、苦しくて。
「どうして、助けたりしたの?」
息が詰まりそうで…私ひとりではもう、どうにもできないから。
「ねぇ。どうして……」
かちゃ、と解錠した音を合図に、ハルアキは勢いよくドアを開けた。
当然のように苦渋に歪んだ、彼の顔。
傷ついた瞳と、心。
「ハルアキ」
そう言ったつもりだったけれど、きっと音にはならずに掠れただけで、消えてしまう。
彼は、ささくれだった心を優しく癒してくれる。いつもいつも、こうやって。
そんな彼だからこそ、わかって欲しかった。
もう、嫌だから。
もう、あんな思いはしたくない。
誰かを失うことだけは。
「お願いハルアキ、何か言ってよ」
ほとんど吐息だけで懇願すると、突然手首をつかまれ、そのまま彼の胸の中に抱き留められた。
ひとつになろうとするかのように、片腕が腰に回され、開いた方の手で頭を支えられる。
息苦しくなって身を捩ってみても、あまりの力強さに身動きが取れない。
幼なじみで同じような環境で育ってきたのに、彼の力は女の私が簡単に振り解けるものではない。改めて体格の違いを知る。
「ハルアキ…苦、しい」
言うと、わずかに力が緩和される。
私は慌てて、その隙間から酸素を求め肩で息をする。
呼吸を整えてから、ゆっくりと彼を見上げた瞬間、私は思わず目を見張る。
「え?」
彼の瞳からこぼれ落ちた涙と共に、大きく心が崩れる音を聞いた気がしたから。
「ハルアキ?泣いてる、の?」
言うと半ば強めにキスをされた。ただ押し付けただけのような自分勝手なそれのはずなのに、震える唇から伝わる温かさに、なぜか胸が締め付けられる。
強引に抱きしめられたことは初めてではない。けれどその後でこんな風に、優しさと温もりに満ちた愛を全身で感じるようなキスは、初めてだったから。
だからもう、これが……
「涙華…」
名残惜しそうに、束縛が解かれる。
熱い息が、耳元に触れる。
「もう、終わりにするか」
愛の言葉を囁く、いつものあの声で。
「お前といるのはもう、疲れた」
私は何も言えなかった。
心のどこかではきっと、いつかこうなることをわかっていたから――。
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