43.◇約束

 どうすればいいのかなんて、俺にはわからない。

 涙華を愛しているのに、傍にいたいのに、俺は彼女を傷つけてばかりいる。

 毎日病院に通い続け、今日もずっとここにいる、と言って聞かない涙華を病室に置いて一度はアパートに戻った俺。

 しかしひとりきりの部屋でのんびりと寝ているわけにもいかずに、居たたまれなくなって結局病院に戻ってきてしまった。

 勝手にしろ、と強気で言って離れた彼女に合わせる顔などなく、俺は怜の病室の前をうろついていた。

 個室からの会話は聞こえない。寝ているのだろうか、と軽めにドアをノックをする。

 返事はなかったけれど、躊躇しながらも恐る恐る部屋の重たい扉を開けると、ベッドごと半身を起こした怜と、傍らのイスに腰掛け布団に顔を伏せて眠る涙華の姿があった。

 彼女の背にはブランケットが掛けられ、その頭を怜が愛おしそうに撫でていた。

 愛おしそう、俺にはそんな風に見えた。

「怜?」

 訝しがる俺の視線に気づいて、怜が、はっとして涙華から手を離した頃には、何か黒いものが俺の心中を渦巻いていて。

 ちくちくと、胸を刺す。

「ハルアキか」

「悪い…ノックしたんだけど」

 俺はそう言って、見ないふりをするのが精一杯だった。

 怜の左腕に厚ぼったく巻かれたギプス。まだ頬や額の擦り傷が痛々しい。

「もう、だいぶ良いんだろ?」

「あぁ。おかげさまで」

「そっか、ホントに良かった」

 嬉しいはずなのに、何かが引っかかっていて心から笑えない。

 どうして、と自問したところで答えは得られないのに。

 まさか、今さら嫉妬?くだらない。

「なぁ怜……ひとつ、聞いても良いか」

 知りたくて、知りたくて。

 けれど怖くて、聞けずにいたこと。

 今まで、そのことに何とか触れないようにと避けて通ってきた。

「涙華のこと、」

 それを、俺は告げる――。

 答えによっては、俺たちの今を壊しかねないことだけれど、このままではきっといつか後悔するから。

 驚いたように一瞬目を瞬かせた怜は、フンと鼻で笑った。

「改まって何を聞くかと思えば、愚問だな」

「それでも俺にとっては重大な問題なんだよ」

「安心しろ、そこまで女に困ってない」

 よく見るとあまり顔色の良くない怜が、楽しそうに笑う。

「マジメに答えろよ。涙華のこと、好きなんだろ?」

 こっちの気も知らないで、憎らしいくらい健やかな寝息を立てて眠っている涙華。

「ん~」と煩わしそうに声を発してもそもそと動いては、また静かになった。

 涙華の、さらつやで柔らかい髪。いつも手を伸ばせばすぐに触れられたのに。

 どうしてこうも遠くに感じるのだろう。

 やっと、近づけたと思っていたのに。

「どうなんだよ怜」

「もちろん好きだよ」

 また冗談かよ、と睥睨した怜の表情は、先程とは違って真剣だった。

 その黒い瞳が、真っ直ぐに見つめてくる。

「どうしたハルアキ?聞いといてシカトか?俺は、涙華が好きだよ」

「え……」

「バーカ!なんて顔してんだ」

 わかっていたことなのに、妙に胸が騒ぐ。

 気持ちが急いて、隠しきれないほどに不安が募る。重たい石が、胸を塞ぐ。

「涙華だって、怜のことが…」

「ハルアキ!何を焦ってんだ」

 やや強めに言われたそれに遮られて、

「弱気でどうする?俺は、涙華を想う気持ちと同じくらいハルアキも大切なんだ」

「怜」

「俺は、涙華を幸せにはできない。お前なら、大丈夫だ」

「そんなこと」

 幸せにできていたなら、少なくとも今こんなにも切ない気持ちにはなっていないだろう。

 誰もが。

 俺があまりにも無力だから、幸せになんてしてやれない。

 もう、不安などないはずだった。

 変わっていくものがあったとしても、俺だけは変わらず傍にいようと、彼女を愛していようと決めた。

 けれどそれが枷となって涙華が動き出せずにいるとしたら。

 俺は、どうしたらいいのか。

 あの時、愛しているからこそ離れたのに、結局また彼女を愛して。離れられなくなって。

 俺は、いつまで同じ事を繰り返すのだろう。

「…きっと犬を飼っていたら、こんな気持ちなんだろうな、って思うよ」

「犬?」

「そう。涙華犬」

「こんな時になんだよ」

「だよな、ごめん」

 自嘲する彼の瞳は何を映しているのだろう。元々影のあるような性格だし、遠い目をしているとは思っていたけれど、より儚く弱々しくも見える。

「ハルアキ…俺、仕事辞めるんだ」

「え?」

「疲れたなぁ。遠くにでも引っ越そうかな」

 怜の声が、遠くに聞こえた。

「怜、まさか…もう会えないなんて言わないよな?」

「んーどうかな」

「おい、なんでそうなるんだよ」

 冗談だよ、なんて笑う彼の表情があまりにも哀しげで、嘘くさい。

「だからそんな顔すんなよ、ハルアキ。…いつかまた、会えるさ」

 そんな風に言われる気がしていた。また親友が俺から離れていく。

 もう何を言っても無駄だと、何故、どうしてと引き止めたところで、怜の意思が絶対に覆らないこともわかる。

 だから、

「なぁ怜、ひとつだけ約束しろ」

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