40.☆温かい心

『お前は、幸せにならないのか』

 あの夜、ハルアキに言われた一言が心のどこかに引っかかっていて、何故かすっきりと晴れないままで。

 俺が幸せに?

 沙奈瑚が傍にいない未来に、幸せなんてあるのだろうか。

 ひとりで幸せになんてなれるはずがないのに。

「怜大丈夫か?」

「え?」

「タバコの灰、落ちそうだけど」

 ハルアキに言われて初めて、俺は我に返る。

 ほとんど吸っていなかったそれが、危うく指に挟んだまま根本まで燃え尽きるところだった。

「あ、悪い」

 俺は慌ててそれを灰皿に押しつけて、火を消した。

「どうした?」

 怜らしくない、だなんてわかったようなことを言うハルアキ。

「いや、べつに」

 確かにそう言われれば、そうかもしれない。

 今の俺は、俺らしくない。

 仕事の接待で不味い酒を飲まされ、めずらしく酔いがまわっていた。

 頭痛までしてきた身体を叱咤しながら、何とかタクシーを捕まえようとしていた時、幸運にもハルアキに拾われたのだった。

「接待で少し飲み過ぎただけ」

「そっか。大変だったな」

 彼の車に乗ってすぐに降り出した雨。大降りになるかと思ったけれど、ほんの少し地面を濡らしただけで通り過ぎていった。

「怜から接待なんてワードが出るとは思わなかったな」

 隣で軽いメンソールを吸い始めたハルアキが、鼻で笑う。

「何だよ、バカにしてるのか?…ハルアキこそタバコなんて珍しいな」

「まぁな」

「でも禁煙中だろ?」

「いいだろべつに」

 涙華に言うなよ、なんて言いながらもう一度吹かしたタバコの煙をゆっくりと吐き出したハルアキ。

「考えとく」

「頼むわ。…それにしても、嫌な物は嫌、好きな物は好きと割り切ってる怜がよく上下関係が厳しい会社でやっていけるよな」

「社会人なんだからある程度は我慢するさ。でもだからこそ出世したいんだよ」

「へぇ~俺には無理かも」

 赤信号で車を止めた彼は、つけていたラジオのボリュームを下げてからチラリと俺を見る。

「そ?ハルアキみたいに言いたいことも言わずに溜め込む方が俺には無理」

「そうかな?」

「言うと相手が傷つくと思ってるのか?それとも言ったことで嫌われるのが怖いのか?まぁ、俺にはわからないけど」

 恐らくハルアキはムッとして、すぐに言い返してくるだろう。と冷静に傍観していたけれど、彼は予想に反して楽しそうに笑った。

 そして信号が青に変わると、ゆっくりとアクセルを踏み込み、正面を見つめたままで、言う。

「そうかも。おまけに、心が通じ合っていれば言わなくてもわかってくれる、だなんて信じてるのかも」

 女みたいに、と自嘲気味に笑う彼。

「きっとわかってもらえなかった時もひとりで傷ついて、その傷も誰にも言わずに自分の中で消化するんだろ?」

 憶測でしかないけれど、何度か一緒に酒を飲んでいるうちに見えてきたハルアキの性格。

 彼はしばらく「ん~」と考え込んで、

「まぁ、そうなる、かな」

「そんなの辛くないか?言いたいことははっきり言った方が良い。俺みたいに言い過ぎるのも良くないかもしれないけど」

 言った方が相手のためになると思って言ったことでも、時には深く傷つけてしまうこともある。

 けれど言わなかったことで、取り返しの付かない後悔に苛まれることだってあるから。

「俺たちって全く考え方逆だな」

 俺は、ハルアキとは違う。

 自分は二の次で、常に相手のことを考えてあげられる優しさを持った彼だからこそ、幸せになれる権利があって、俺なんかには無理な話だ。

「なぁハルアキ…この前、俺に幸せにならないのかって聞いたよな?」

「は?聞いたっけ、そんなこと」

「あぁ言った。そーいうお前は今、どうなんだ?幸せか?」

 やはり今日は飲み過ぎたな、と思った。

 運転しているハルアキは完全な素面なのに、俺は何てことを聞いているのだろう。

 恥じらいもなく。

「まぁ、それなりに」

 答えた彼の横顔は、冷めた口調とは裏腹に、柔和で優しさに溢れていた。

 それだけで、十分だ。

「あ、もうここでいいから」

「え?マンションもう一本奥の通りだろ」

「ここからなら歩ける。酔いも醒めるだろうし」

「本当に大丈夫か?」

 時間の割に、比較的交通量の多い大通り。

 ハルアキに無理を言って、近くのコンビニの駐車場で車を停めてもらった。

「あぁ、助かったよ」

「今度奢れよ」

 と、片手でグラスをくい、と傾けるような仕草をしたハルアキに「気が向いたらな」と曖昧に答える。

 そして俺が車を降りようとした時、

「なぁ怜」

 改まった声で呼び止められ、俺は「ん?」と背を向けたままで問う。

「俺と怜は考え方が全く違うけど、でも根本は一緒だろ?」

 思いがけない彼の言葉に、俺は肩越しに振り返る。

「ハルアキ?何言ってんだ?」

「まぁいいから聞けって。怜が思ったことをすぐ口に出すのは、俺と一緒で相手のことを信じているから、だろ?」

「何だよ、急に」

「それを言ったことで崩れる関係でもないし、わかってくれると信じているから」

 俺にはわかるよ、といつになく真率で、力強いハルアキの声。

「一見、冷たそうで何を考えてるかわからないけど、俺は怜のそういうところ好きだな」

 人生というものでも諭しているかのように、俺には彼の言葉全てが心に響いて、目頭が熱くなった。

 うっかり、泣いてしまうかと思うくらいに。

 今まで、これ程まで誰かに心動かされた事なんてなかったから。

「告白か?言う相手が違うだろ。涙華に妬かれても困るしな」

 でも、嬉しいよ、と付け加えて、俺は逃げるようにして車を降りた。

 ハルアキの車を最後まで見送ってから、ゆっくりと歩き出す。

「根本は一緒、か」

 そんな風に言われたのは、初めてだった。

 誰にもわかってもらえなくても良いと思っていたのに、ハルアキはどうして簡単に人の心を温かくさせることができるのだろうか。

 車のヘッドライトや街灯、看板などがチカチカと映える街並みの中では闇を感じることはないけれど、今はいつもより明るく、世界が温かく見えた。

 少し前の俺には有り得なかった感情。

 沙奈瑚以外、何も見えていなかった俺が、彼女を失って完全に生きる術を無くした時、何とか自分の力で立ち直ったと思っていたけれど、間違っていた。

 あのふたりがいてくれたからこそ、今があるのだと気付かされる。

 いつか俺も、あいつらのように幸せに…

 そう思った瞬間、妙に車のヘッドライトが明るく感じ、俺は咄嗟に手をかざす。

 カッと痛いくらいの光が目睫に迫ってきたのを最後に、世界が真っ白に……染まった。


 それからのことは、何も覚えていなかった――。

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