36.☆別の感情

「でも正直、断られるかと思ってたよ」

 ハルアキが言う。

 照れくさそうに、けれどそれを俺には悟られたくないのか、声の調子は淡々としている。

 沙奈瑚がこの手の中に居ない今、大勢の知り合いの内のひとりでしかなかったハルアキと涙華が、唯一心を許せる存在になった。

 いつの間にか。

 彼らがマンションに押しかけてきたり、今日のようにふたりのアパートに無理やり呼びつけられたりするのが主で、ひとりでいる時間が今はほとんどない。

 それはきっと、俺を気遣ってのことだろう。立ち直らせようとしてくれている。

「結婚か、おめでとう」

 ふたりが幸せになることを嬉しく思う。

 彼女にはもう二度と哀しい思いをしてほしくない。

 心から、そう思う。

「良かったな、俺も嬉しいよ」

「ありがとな。まぁ、正式にいつ、とはまだ決めてないけどさ」

 酔いつぶれてコタツで眠っている涙華の小さな寝息と暖房以外は、何も余計な音のない静かな部屋。

 涙華が眠ったことによって、ようやく隠していた日本酒を片手に男同士で話せるわずかな時間。

 彼女がハルアキのアパートに引っ越してきてから、物置だった部屋を片付け、ようやくここまで落ち着いたという。

 小さな小物や可愛らしい家具が増え、もはや男の部屋だったとは思えないほど、彼女色に染まりつつあった。

「まぁ、でも何か俺、間違ってるのかな、って思って。今の俺なんかが涙華を支えてやれるのか、だんだん不安になってきてさ」

 あはは、と肩で笑い、真向かいに座るハルアキは顔を上げた。

「怜は、どう思う?」

 苦笑したままの情けない顔で、同意を求めてくるハルアキ。

 きっと、怒りを鎮められずに涙華に掴みかかってしまったあの時の俺のように、救いを求めて。

「怜の率直な意見が聞きたい」

 涙華の心がわからず、あと一歩が踏み出せないでいるハルアキの姿がいつかの自分と重なって見えた。

「心配することはないだろ。ハルアキが変わることもないし、今を変える必要もない」

 こんなに弱気な彼を、初めて見た。

 弱い部分をさらけ出してくれるということは、信頼されている証拠だろうか、とふと思ってみて、少しだけ心が軽くなった

 俺の方が救われているなんて。

「ハルアキは、そのままが一番お前らしい。無理に龍那さんの影にしがみつこうとしなくていいんじゃないか?」

「べつに俺は、しがみついてなんか」

「ない?でも涙華の一番は龍那さん、自分は次で良いって思ってるだろ」

 コタツの中で俺たちの間に足を伸ばし、丸くなっている涙華の寝顔。

「まぁ、そりゃ」

 呟くように言ったハルアキは、そんな彼女に視線を落として、続ける。

「だってそうだろ、龍那には勝てない」

 眉間に寄っていた皺がすぅっと無くなって、涙華を見つめるハルアキの目が心なしか柔和になる。

「勝敗なんて関係ないだろ。涙華に全力でぶつかれよ」

「全力って…」

「変に気を遣いすぎて自分押し殺してたら長くなんて続かない。どーせなら、お前ってもん全てを愛してもらえ」

「何だよ、それ。怜らしくない」

「確かに。でもまぁ、お前らは、幸せになれよって意味」

 お前らだけは、きっと

「お前らは、って?怜は幸せにならないわけ?」

「俺は」

 突然の問いにどう答えて良いのか、わからなくて。

 俺はハルアキたちのように幸せにはなれない。なるだけの資格がない、とそう言いたかったけれど、何故と聞かれたら彼が納得するような理由は答えられない。

 どう答えたなら、一番この気持ちを表現できるのかなんて、わからないから。

「そのうち、な」

 とだけ言って、俺は残りの酒を一気に煽るしかなかった。

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