34.◇告白

 今日は珍しく残業も飲み会もなく、真っ直ぐアパートに帰ってきた。

 けれど、淋しいひとり暮らしの部屋には当然、冷蔵庫に何も入っていない。

 残業がある日は、だいたいコンビニ弁当で軽く済ませていたから、たまには何か作ろうかと思っていたのに、米もなければ味噌もない。

 だからと言って今から何か買いに行くのも面倒だ。

 どこかにパスタがあったはず、と棚の隅から隅まで探していた時、滅多に鳴らないインターホンが鳴る。

「誰だよ忙しいのに」

 と、俺は返事をするよりも先にドアホンを確認する。

 すると、玄関の前に佇む人影。

 俯き加減で顔は伺えないけれど、顔に流れた髪を耳に掛ける緩慢な仕草は、愛しい彼女のものだとすぐにわかる。

 本当は飛び上がるほど嬉しいけれど、出来るだけ普通に、平穏を装ってドアを開けると、ハッと顔を上げ、強ばった頬を無理やり笑みに変えた涙華。

「どうした?」

「ハルアキ、ごめんね。この前せっかく来てくれたのに追い出しちゃったでしょ?お礼も言ってなかったしさ。おかげですっかりよくなったから」

「そっか。まぁ、入れよ。寒いだろ」

 うん、と口端だけで笑ってみせる彼女は、どこか切なげで。

  どうしてもっとうまい嘘が吐けないのか。

 今は、そんなイジワルなことは聞かずに、ベッドに座らせて好きなだけ黙らせておいた。

 龍那とケンカした時なんか、理由も述べずに呼び出されたりなんてことはしばしば。

 何か嫌なことがなければ、俺の所になんて来ない。

 今にも泣き出しそうに顔を顰めておいて、何が「お礼言ってなかったしさ」だよ、ふざけるな。

 そう思いながらも、彼女の好きなホットミルクティー(甘め)を作っているのは、理由はどうであれ、いざという時頼ってくれることが嬉しいから。

「ありがと。やっぱりハルアキが作ってくれるのが一番おいしいや」

「だろ、今更気づいた?」

 一口飲んで落ち着いてから、ようやく顔を上げた涙華。

「ごめん」

「なーに謝ってんだよ」

 ベッドに腰掛けて深く項垂れている涙華の頭をペチ、と軽く叩くと「う」と呻いたっきりで他の反応は見られない。

「あー泣くなよ」

 それだけで、わかってしまう。声も出さずに泣いている事くらい。何かを抱えていることくらい。

「腹空いたろ?おいしいパスタでも作ってやるから。な?」

 再び頭を叩いて、わしゃわしゃと髪を撫でると、「んー」と低く唸る声。

 そんな弱り切った彼女の肩を、優しく抱き寄せてやれたら。涙の理由わけなんて話さなくて良いから、俺を求めてくれたら。俺を好きになってくれたら…そしたらもう、傷つく事なんてないのに。

「やめたやめた!一服してくるから、その間に泣きやめよ。飯はその後だ」

 逃げるように踵を返し、ベランダに出ようとした俺の背中に、

「待って!」

 声を張り上げて縋り付いてきた涙華。

「何だよ」

 ずっとずっと、待ち望んでいた言葉。

「行かないで」

 思わぬ状況に、胸は勝手に高鳴る。満足するどころか、その先すら期待して気持ちが急く。

「おい、おい、何だよ。泣く胸を貸してくれる男もいないのか?」

「だ、だって」

 シャツを握りしめて、ぴったりと背中に張り付いてくる涙華。

 彼女の息づかい、わずかな体温を感じる。

 柔らかなそれの形さえもわかってしまう程に密着していて、俺の理性を掻き乱す。

「べつに、いいけど。鼻水つけるなよ」

「……ごめん、ついた、かも、しれない」

 短く言葉を切って言う涙華の声は徐々に小さくなり。

 語尾はもう溢れてきた感情を抑えることができず、涙に消えた。

 きっと、きつく噛み締めた唇を震わせて、それでもなお堪えようと声を押し殺して。

「涙華」

 彼女は、俺の背中におでこをくっつけて、小刻みに震える

 ぎゅっと。

 もう、これ以上は……

「……キ、ハ……ル、アキ」

 解読するのに時間が掛かったけれど、涙に掠れた声で何度か俺の名を呼んだ。

 呼んだ、から…だからもう抑えきれなくて、

「え?」

 気づけば俺は正面から涙華を抱きしめている形になっていた。

 肩を抱いて、強引に閉じこめる。

「……結婚、しよう」

「え?…やめてよ、冗談なんか」

「俺はいつもマジメだけど」

 涙華でないとダメだと、今更になって気づく。

 俺でないと彼女を幸せにできないとわかった。この想いだけは、変わらない。

 けれどあの頃のように、迷いや不安はないから。

 何度ふられようと、やっぱり俺には涙華しかいない。今なら彼女を愛せたことを誇りに思える。

「傍にいることくらいは、できるから」

 もう泣かせはしないから、そんなカッコイイことは絶対に言えないけれど、いつか言える日がくるように努力するから。

 と、そんな想いも込めて。

「絶対涙華より長生きするから……人間ドック行くよ」

 失う痛みはもう与えたくない。

「ハルアキ」

 一方的に抱きしめていた彼女の身体から力が抜けて、そっと寄り添うように体重を預けてくる。

「良いの?私なんかで」

「仕方ないだろ」

「本当に?」

 涙を拭いて囁くように言った涙華。

 意外に高い彼女の体温を、抱きしめた腕から感じる。

 返事など疾うに知っているくせに、と思いつつ、「いいよ」と改めて答えてやる。

「じゃぁ……愛して」

 言われなくても愛してる、なんてことは言わない。

 これから、俺の存在価値を彼女に叩き込まなくてはならないから。

「まかせとけ」

 そんな軽い言葉を添えて、更に強く抱きしめた。

 こうすればその心さえも手に入るかのように、強く。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る