31.☆儚い幸せ

 2つ上の兄、煉が高校を卒業した頃、両親を事故で亡くした。

 煉は俺のために夜遅くまで働きながら、暇を見つけては好きだった写真を撮っていた。

 遺産や貯金も少しはあっただろうが、初めは他のバイトも掛け持ちしながら、俺の大学の資金など奨学金で賄えない分をすべて負担してくれた。

 自分のことよりも、俺のことばかりを優先に考えるおかしな奴だった。

 いっつも、笑って。

 バカみたいに明るくて。

 昔から俺とは正反対。

 

「いいか、怜。玄関入ってすぐのところがお前の部屋。リビングがあって、この奥の部屋が僕。お前の部屋の方が少し広いんだから文句言うなよ?」

「ちょ、ちょっと待った。じゃぁ煉の隣の広い部屋は誰が使うわけ?」

「いいからいいから、取り敢えず自分の荷物片付けろ」

 突然、あまりにも突然、引っ越しだ!

 と今思いついたかのように言われてから数日後。

 何の相談もなくいきなりマンションに連れてこられ、

「今日からここが我が家だから♪」

 と、案内された312号室。

「ここからだと大学少し遠いんだけど」

「そんなこと気にするなー。兄ちゃんが送ってやるよ」

「結構です」

 そんなくだらないやり取りをしていた時、

「すみませーん」

 突然玄関から、細い女の声がした。

「あ、開いてるから入って」

 と、煉の声の後に、

「こんにちは」

 誰?そう聞いた俺の声は掠れ、音にならないままに消えて。

「会うのは初めてだっけ?これが、僕の弟」

「あなたが怜さん、ね?初めまして沙奈瑚です」

 軽く目を伏せて頭を下げた彼女。肩からさらりと流れた髪から漂う香り。小さい割に良く響く透き通った声。

 綺麗な整った顔立ちをしているけれど、きっと暑すぎる環境にも寒すぎる環境にも適応できないような、そんなか弱い印象だった。

「怜には言ってなかったけど、僕達入籍したんだ」

「はぁ?」

 煉は昔から勝手に物事を進めて、何かと驚かせられることが多かった。

 けれどこんなことまで後から聞かされるとは、思ってもなかった。

 あまりにも、衝撃的だった。

 煉が勝手に入籍していたことはもちろん、俺にとって、沙奈瑚という女性との出逢いは。

 まさにこれは、一目惚れ。

「これからは、三人で暮らすんだよ」

 脳天気な煉が言った。

 それからの毎日は、俺にとって地獄でしかなかった。



「怜?どうしたの、怖い顔して」

 ねぇ!と顔をのぞき込まれてようやく、現実に引き戻される。

「え?あ、あぁ」

 今、職場の屋上にいることを思い出した。

 昼休み、また給湯室で寛いでいた涙華を捕まえ、ここまで連れ出したのだった。

 今日は雲ひとつない、すっきりとした青空がどこまでも広がっている。

 けれど風だけはまだ、冷たい。

 まだ雪は降るのだろうか。

「顔色、良くないよ?」

 涙華はベージュのストールを肩から掛けて、白い息を吐く。

「煉が、帰ってきた」

「あ、やっぱり怜に会いに行ったんだね」

 楽しそうに言う涙華。

 どうしてそんなに綺麗に笑うのだろう。

 人の不幸を。

「あぁ、来た。悪かった、なんて謝られた」

「そう」

 ゆるく巻いてある長い髪を後ろで束ねている涙華。

 露わになっている耳たぶと、小さな鼻の頭が、寒さからか赤く染まっている。

 唇の色素も薄く、彼女の方こそ顔色が悪い。

「どうして、沙奈瑚の居場所を教えた?」

 本当は、こんな事で彼女を責めるつもりなんてなかったのに。

 この苦しみをわかって欲しかっただけで、わざわざ寒い屋上に呼び出す程のことでもなかったのに。

 俺の意志に反して、唇が勝手に動き出す。

「俺がどんな思いであいつからの電話を無視してきたかわかるか?」

「え?」

「煉は2年も沙奈瑚を放っておいた男だ。どーせ他の女にふられたから戻ってきたに決まってる」

「煉さんはそんな軽い気持ちじゃないよ。だって、すごく真剣だったもん」

 何も知らないくせに、得意げに煉の肩を持つ涙華。

 彼女が煉をかばうことさえ、腹が立つ。

「あいつの何がわかる?」

「わかんないけど、でも」

 たかが一度会ったくらいで、俺がずっと一緒に育ってきた兄貴の何がわかると言うのか。

 腹の底から沸々と沸き上がってくる苛立ち。

 いつの間にか噛み締めていた奥歯が、ギチと耳障りな音を立てて擦れ合う。

 いつもの俺だったら、こんなことくらい冷静に処理できていただろう。けれど、沙奈瑚のこととなるとどうしても抑えが利かなくなる。

 涙華の前だと、余計に。

「でも、何だよ」

「わかんないけど、でも私、煉さんが沙奈瑚さんを愛してるってことはわかった。沙奈瑚さんだって――」

 誰よりも俺自身がわかっている事実を突きつけられて、俺は瞬時に沸き上がった怒りを抑えることができなかった。

 彼女が声を失ったかのように突然言葉を切ったのは、俺が彼女の胸ぐらをつかんで拳を振りかざしていたから。

「ご、ごめんなさい」

 涙華は抵抗もせず、覚悟を決めたかのようにぎゅっと瞳を閉じた。

 しかし謝罪の声は、今にも消えそうに震えていて。

 そうしてようやく、己の愚かさを知る。

「でも私、間違ったことしたと思ってない」

 けれどもう、遅くて。

 恐らく震えだした唇を噛み締めながら、涙を堪えて…けれど耐えきれずにポツリ、ポツリと地面に落ちた涙。

 それを認めた瞬間、ドクンと大きく心臓が跳ね上がった。

 考えるよりも先に、身体が動く。

 つかんだ涙華の胸ぐらをぐ、っと引き寄せ、頭を抱えるようにして抱きしめると、彼女の小さい悲鳴が、胸元でくぐもる。

 はらり、と地に着いたストールのことなど気にも留めずに、強く強く小さな身体を包み込んだ。

 そして、耳元に告げる。

「ごめん、悪かった。涙華のせいじゃない」

 驚いて身体を固くした彼女。

 けれど、もう一度「ごめん」と言った俺の声を合図に、泣き崩れた。

 幼子のように、声をあげて。

 一緒に泣いてしまおうかと思った俺の分まで、涙を流して。

 沙奈瑚の幸せは、煉がいて初めて成立するのに、それに気づいていながら見て見ぬふりをしてきた。

 おまけに何も悪くない彼女に掴みかかるなんて、最低な人間だ。

「煉が涙華に会ってなかったら、俺は…」

 沙奈瑚が傷つかぬようにと、狭い檻の中に入れておいただろう。

 本当は逃げ出さぬようにと、そこに閉じ込めて、自己満足に浸っているだけなのに。

「怜は悪くない。ただ、沙奈瑚さんを愛していただけだもん。誰も、悪くない」

 涙華はそんな最低な人間を優しく抱きしめ返し、いつになく凜とした大人びた声でそう言った。

 もしかしたらきっと、誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。

 俺は悪くないと、沙奈瑚を愛していたのは間違いではないと、誰かに認めて欲しかった。

 その時は永遠にも思えた短い昼休みの間中、涙華はずっと俺の傍にいてくれた。



 電源を落としたテレビ画面に映るのは、相変わらず冷めた瞳をした自分。淡いルームランプに照らされて余計に卑しさを増す。

 腰掛けたベッドの、乱れたシーツとそれを纏うようにして眠る女。

 そうしてようやく、自らの軽率な行動に気づいて後悔する。けれどもうどうすることもできない。

 バカげていると知りつつ、そうせずにはいられない壊れた心。

 この部屋にはつい先程まで、熱い息づかいと厭らしい音だけが響き渡っていたのに、今は隣で寝ている女の寝息だけ。

 あんなにも激しく熱を分かち合ったというのに、それさえも今は煩わしくて仕方ない。

 欲だけを貪ってすべてを吐き出してしまえば、後は冷めるだけ。

 それと共に襲ってくる自己嫌悪に、いつも押しつぶされそうになる。

 少しも癒えやしない。

 彼女とは先週バーで知り合ったが、名前以外は何も知らなかった。

 知る必要もないけれど。

 そんな日々を繰り返して、俺は一体、どこにたどり着くのだろうか。

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