29.◇笑顔の理由
『友達と飲んでたとこ』
これにウソはない。
けれど正しくは、友達とその知り合いの女の子たちと合コンしてた、となる。
今現在の涙華と俺との微妙な関係を理解してくれる友はいないだろう、と勝手に決めつけて、誰にも話すことができないでいた。
けれどこの気持ちをひとりで抱え込む事なんてとても無理だった。
結局仕事仲間には、失恋したとだけ愚痴を漏らしてしまった。すると彼らが俺のために今夜、合コンをセッティングしてくれたのだった。
ここへ来れば涙華に会えるかもしれないと、そんな些細な期待はあった。
けれど、ただ彼女がここへ誰と来るかなんてことは、全く考えていなかったけれど。
涙華の姿を見つけた瞬間から、合コンなどどうでもよくなってしまった。
彼女と楽しそうに飲んでいる男は一体どんな奴なのかと、気になって仕方なかったから。
酔って、少しでも彼女に触れるようなことがあれば、その面を殴りつけてやろうと、意気込んでいたのに。
「龍那…?」
思わず口にしてしまっていたその名前。俺の呟きに「え?」と驚いて顔を上げた彼。
「あ、いや。…ご一緒しても良いですか」
断られたとしてもこの場を去るつもりなどなかったけれど、怜と呼ばれた彼は何も言わず、すっと席を立ち、ひとつ奥のイスに座り直した。
「あ、すみません」
彼が譲ってくれた真ん中に座ると、涙華が右隣でむぅとする。
「何だよ涙華、文句あんのか」
「あるわよー!今大事な話をしてるのよぉ?ジャマしないでよね」
「大事な話ねぇ。どうだか」
「自分だって女の子と飲んでたんでしょ」
「悪い?お前には関係ないだろ。この酔っぱらいがっ」
軽くおでこを叩くと、肘を突いて顔を支えていたつっかえ棒がスコンと外れてカウンターに突っ伏した涙華。
「あ、やべ」
痛い!といつ怒鳴り声が飛んでくるのかと構えていたが、いつまで経っても顔が上がってこない。
心配になってのぞき込むと、すぅすぅと可愛らしい寝息が聞こえた。
「ったく。…怜さん、でしたっけ?初めまして、ハルアキといいます」
反対に向き直って改めて挨拶をすると、どうしてもマジと見つめてしまう龍那と同じ顔。
「初めまして」
「あなたも大変ですよね、こんな後輩をもつと」
なるべく視線を外し、まるで保護者にでもなったかのような口調で。そうでもしないと、冷静でいられる自信がない。
「いいえ。まぁ仕事は遅いですけど丁寧に最後まできちんとこなしてくれてますから」
「そう、ですか」
俺が知らなかった、彼女の以外な一面。
それを知っている彼が、羨ましい。妬ましい。龍那と同じ顔を持つ彼だからこそ、余計にそう思うのだろうか。
「俺、そんなに似てますか?」
怜はビールを手酌しながら聞いてくる。
「え?あ、どうも」
俺は、怜の差し出したグラスを受け取って、冷たいそれを一気に飲み干す。
「龍那さん、って涙華の亡くなった彼なんですよね?初めて涙華に会った時、突然そう呼ばれて…」
「そうでしたか」
きっと初めて彼を見た時、涙華はやっと龍那に会えたと喜んだに違いない。ようやく救われると安堵したのもつかの間、彼は全くの別人でおまけに恋人までいる事実を知るなんて。
苦しみ傷つき死まで考えた彼女には、あまりに酷な巡り合わせではないだろうか。
「こいつ、昔から後先考えず突っ走るタイプなんで。すみません」
隣ですやすやと眠る彼女の顔に、さらりと流れた細い髪。艶やかなそれを指先で構いながら、ついでに頬に触れる。
アルコールのせいで真っ赤に染まった頬は、火照ってわずかに熱を帯びていた。
「酔っぱらいやがって」
「そんなに飲んでないと思うんですけどね」
「飲めないくせに、無理して」
腹は立つけれど、涙華らしさに、つい笑みがこぼれた。
は、と目が覚めるなり、かじりついた目覚まし時計は、いつもより30分も先の時刻を指していた。
これは夢だ、と決めつけてもう一度眠ってしまいたかった。
学生だったら迷わずそうしていただろう。
けれど、この歳になってそんな甘えた事言ってられないだろ、と自分を叱咤してベッドから這い出る。
「やばい……急げば間に合うか?それとも仮病で休むか?」
取り敢えず顔を洗って、鏡の中に映る、前髪のはねた男に問いかける。
「あー何で目覚まし鳴らないんだよ」
いつもだったら、目覚まし時計のけたたましい音に気付かないはずがない。
ついに壊れたか、無意識のうちに自分で止めてしまったか。
そのどちらかだろうと思った時、過去にも何度かこんな事があったな、と嫌な予感が頭をよぎる。
寝癖を直しながら慌てて寝室に戻ると、案の定ベッドに蹲る小さな固まりが一つ。
その周りに散乱する女物の服。
下着までもが剥ぎ取ったように、俺の足元で丸まっているではないか。
「うわぁ。俺としたことが」
回転しない脳で必死に昨夜の事を思い返してみる。
昨日は、酔いつぶれた涙華を放っておいて、あの後も怜と遅くまで飲んでいた。
本当は恋敵であるはずなのに、仕事の愚痴や世の中の不平不満で意気投合し、つい飲み過ぎてしまった。
涙華は俺が送るから、と言ったまでは覚えているけれど、何故今涙華が俺のベッドで寝ているのか。
……わからない。
けれど、これで目覚ましが鳴らなかった理由はわかった。
彼女が無意識のうちに目覚まし時計を止めたとなれば話はわかる。
昔から、そうだったから。
「おい、起きろよ涙華」
「んーもぉ飲めないよ~ハルアキぃ」
足蹴りをしてでも無理に起こしてやろうと思っていたけれど、彼女が呼んだのが俺の名前だったから。
「涙華……」
彼女の全てが愛おしい。
抱きしめてしまいたくて、俺はそっと手を伸ばす。
「嫌だってばぁ~怜ぃ」
しかし怜の名を聞いた途端、身体が硬直する。
「おい!」
ついイラッとした気持ちを抑えられずに怒鳴り散らすしかなかった。
「お~き~ろ~ッ!お前も仕事だろ」
「ん~頭痛い~休むぅ」
「アホか!学生じゃないんだからな」
早く起きろよ、と「急げば間に合う」の選択を半ば諦めながらベッドに腰掛ける。
こんな毎日が戻ってきたなら。
ふと頭をよぎった甘い考えを振り払って、思わず自嘲する。
結局何も変わっていないだなんて。
きっと俺だけは、ずっとここから動けない。
「何やってんだか」
彼女の脱ぎ散らかした下着が目について、恐る恐る涙華が蹲る布団を足元からちらりと捲ると、露わになる小さな爪先。細すぎる足首。そして更に布団を持ち上げようとした時、
「何すんのよ、えっちぃ」
む、と唇を尖らせながら、布団から顔を出す涙華。
「は?ふざけんな」
彼女はちゃっかり俺のスウェットを着込んで、化粧まで綺麗に落としているではないか。
「えっちぃ、じゃねぇーよ!何だよその格好は!」
「あ、ごめん。夜中に目が覚めて気持ち悪かったから勝手にお風呂入っちゃった。それとスウェットも借りました」
んーしょ、と半身を起こして、あはは~と軽く笑うスッピンの涙華。
半分ほど目が細くなって、今はもう思いっきり別人だ。
「あれ?いけなかった?ごめんね」
「おい~脱いだ物はちゃんと畳んでおけと言ってるだろ。こんなに脱ぎ散らかして……俺はてっきり」
「何?襲ったかと思った?」
「るせぇ~」
涙華は、怜という彼が好きなのだろう。
龍那を失って以来、大きな穴の空いたその心を焦がし、傷ついたりしながらも彼を想っている。
だから、龍那に似ているからという単純な理由で彼を好きになったのではないことくらいわかる。
いつまでも龍那だけを愛していたいと強く思っていた涙華の心を、彼は開いた。
そして奥深くに入り込んで、気づかないうちに彼女の中から離れなくなっていたのだろう。
「よし、とりあえずお前は帰れ。送って行くから」
「はぁーい」
にこにこ、と嬉しそうに笑った涙華。
この笑みからは想像もできないような悲劇を味わってきた彼女だからこそ、俺には涙華の笑顔が痛い。
それを取り戻すきっかけとなったのは、俺ではないから。
彼女には今度こそ、幸せになって欲しいと思う。失われることのない愛で、涙のない幸せを手に入れて欲しいと思う。
例えその未来で、隣にいるのが俺ではなかったとしても。
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