28.○彼の笑顔
あの日は結局ハルアキのアパートで眠ってしまい、翌日は前の日と同じ服装で出勤という何とも最悪な状態だった。
あれからハルアキとは会っていないけれど、何度か連絡は取り合ってくだらない昔話で盛り上がったりしていた。
一方、怜とは職場ですれ違うことはあっても、お互いに何だか気まずくて、ほとんど言葉を交わすことはなかった。
「あぁ~私は一生こんな雑用ばっかりやってんのかなぁ」
いつものように朝一のお茶出し準備に専念していて、ふとそんな嫌な予感が頭を過ぎる。
まぁいつもの事だけれど、給湯室が私のため息でいっぱいになった頃、
「おい、早くしろ」
「は、はい!」
後ろから聞こえた厳しい声に背筋がしゃんとして、上擦ったような高い声が出てしまう。
恥ずかしさで顔や耳までもが、かぁと熱くなるのを感じる。
「グズグズするな」
「す、すみませんでした」
怒鳴り返したくなるような言葉を軽く流して、私は笑顔で振り返る。
すると、先程の声の持ち主とは思えないほどの涼しい顔の怜が、片頬だけを上げて笑みさえ浮かべていた。
「れ、怜!」
驚く暇もなく、胸の奥からムカムカと沸き上がってきた怒りに火が付く。
「どーせ私はグズグズしてますよ!」
む、としてきつく睨み付けながら答えても、怜の余裕な表情は崩れない。
「何だその態度は、先輩に向かって」
彼は軽く腕を組みながら、入り口近くの壁に背中を預けて私の言動を窺っている。
「何よ!先輩なら後輩を傷つけるようなこと言っても良いの?」
「まだ怒ってんのか?会社に私情を持ち込むな」
「だって」
「…沙奈瑚に、全部聞いた」
「え?」
一瞬だけ交わった視線を、フイと大きく外して顔を背けた怜。
「……悪かった」
腕組みをしながら、見下したように上から謝られても実感がわかないけれど、怜の口から謝罪の言葉が聞けるなんて思ってもみなかった。
「勝手に決めつけて責めるなんて、最低だよな」
「怜……」
だから、彼が照れているのか、怒っているのかなんてそんなことはどうでもよかった。
突然胸に熱いものが込み上げてきて、彼を呼ぶ声が小さく震えた。
「泣くなよ?」
「う、うるさい~今必死で堪えてんの!」
「謝ってやってるのに泣くなよ」
「やってる、って何よ」
「いや、冗談」
柔らかく、怜が笑う。
「今夜また飲みに行かないか?お詫びに、奢るから」
「え?いいの?」
「久しぶりに、話したいこともあるし」
元々細い目を更に細くする彼の笑顔は、いつも傍で見ていたくなる。
どうしてこうも鼓動が高鳴って、胸の奥を温かくさせるのか。
ふっ、と鼻で軽く笑うようなそれでしかないのに、胸が熱くて、痛くて……もう、どうしようもないくらい、苦しかった。
「なぁ涙華?アルコールは飲まない、って条件付きだったはずなんだけど」
冷たい横顔が、こちらを見ずにさらりと告げる。
「怜が飲んでるのに私だけお預けなんてそんなひどい話ある?」
いつもの居酒屋で、飲めないくせにすっかり馴染みの客になってしまっていた私。
あの時と同じカウンターで同じビールを酌み交わすなんて、何だか特別な感じがして、嬉しかった。
「今日は送らないからな。襲われるとマズイし」
「失礼ね!ひとりで帰えれます」
けれど特別と思っているのは私だけ。
彼にとっては使えない後輩を慰めるために飲みに誘っただけなのに。
「で?…話って何?」
「あぁ。話は、沙奈瑚のことなんだけど」
「え?」
彼女の名前は、私に己の立場をしっかりと自覚させてくれるかのように、心に響いて。
強く、深く突き刺さる。
「……沙奈瑚さんが、どうかしたの?」
一拍おいた後に、冷静を装って言葉を返す。
声のトーンは、妙に強ばっていなかっただろうかと、不安になってしまう。
「突然変なこと聞いて悪いけど。涙華は、まだ死んだ彼のこと…愛してる?」
「え?何よ急に。沙奈瑚さんのことじゃなかったの?」
ドキ、っとして隣を見やっても、怜はクイとビールを飲んであっけらかんと答える。
「そうだけど」
「うーん。まだ、ってのはちょっと違うかな。龍那のことは、今までもこれから先もずっと変わることなく、愛してる」
この先誰かが忘れてしまっても、私が狂ったとしても、この想いだけは変わらず、心に残っていて欲しい。
「なんて、ね」
龍那本人に愛の告白をしているかのような錯覚に囚われて、鼻の奥がつん、とした。
怜は、龍那じゃない。
冗談交じりに返して笑って見せたその時、反対方向から違う声が割り込む。
「そ、龍那は永遠に涙華のものだもんな」
聞き慣れた声が空気を裂き、私は声の主を捜す。
「またその逆もしかり、だろ?」
と、長くは保てなかった私の作り笑いから、怜の目を遠ざけてくれたのは、ハルアキだった。
彼は後ろから私の髪をくしゃ、として「違った?」といたずらっぽく笑って見せた。
「ハルアキッ?どーして、ここに」
「ここ教えてくれたのお前だろ?今日は向こうで友達と飲んでたとこ」
言って彼が指した奥のお座敷は、襖が閉められていて中は見えなかったけれど、男物の靴の他に低めのヒールがいくつかそろえられていた。
「ふーん。友達と、ねぇ」
「何だよ。そーいう自分は?」
「私は先輩に説教されてたとこ。怜、ってゆーの、ほら、沙奈瑚さんの彼」
チラ、と怜を見ると、彼はハルアキに軽く微笑んで会釈する。
できれば、ハルアキだけには怜を会わせたくなかった。
ハルアキがヤキモチを妬くとか、何かするかもしれないとかそんなくだらないことではなくて、あの時の私と同じように、驚いてしまうから。
「え?ウソだろ…龍、那?」
同じように、いろんなことを思い出してしまうから。
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