26.◇心の闇

 彼女が会社の先輩に教わったという居酒屋。

「良かったよ。涙華も、幸せにやってるんだな」

 涙華、それを強調したのが、あれから何も変わっていない俺を隠すせめてもの強がり。

 俺も幸せだという意味の込められた些細な仕返しなど、全くの無意味に終わってしまうのに。

「ハルアキ、違うの。怜にはとっても美人の彼女がいるの。あ、ほら一度会ったことあるでしょう?沙奈瑚さん。私なんか、入り込む隙もない」

 目を細めて笑う涙華の表情は、どこか切なげで、急に大人びて見えた。

 どうしてこうも胸を締め付けるのだろう。

 居酒屋の薄暗い照明がそう映させるのか。離れていた時間が彼女を大きくしたのか。

 もう会わないと決めたあの時の決意も、会えずに苦しみもがいた心も何もかもが、この一瞬で崩れ去った。

「だからね、怜と私はそんなんじゃないし、そういう人もいない。私は幸せなんかじゃないの」

 涙華は、その怜という彼とは何でもないと言った。

 けれど、彼女の中で少しずつ彼の存在が大きくなっていることくらい、わかってしまう。

 痛いくらいに。

「これからどうする?」

 時計はすでに、日付を変えようとしている頃を指す。

 彼女が帰ろっか、と言いかけた声を制して、

「俺んち、来る?」


 ただいま、ぽつりと言ってみても一向に返事のない狭くて暗い玄関。

 電気をつけたところで、向こうからあの大好きな笑顔が駆けてくるはずもなく。

 そこでやっと気づかされる、ひとりの淋しさにようやく慣れ、彼女の声を探すこともしなくなったのに。

「思ったより綺麗にしてるんだね」

 足元の覚束ない幼子のように真っ直ぐ歩けない涙華を担いで、布団が丸まったままのベッドに座らせる。

 カーペットも何もない、まっさらなフローリングに座るわけにもいかずに、仕方なく俺も彼女の隣に腰掛けた。

「ただ物がないだけ。今度コタツでも買おうと思ってるんだけどなかなか買いに行く暇がなくてさ」

 必要な家具のみで、この殺風景な1DKの部屋からは、どうやっても幸せな自分は想像できない。

 改めて見回してみて、強がった自分が恥ずかしくなった。

「ハルアキ、ごめんね」

「急にどうした?まだ酔ってんの?」

「もぉ大丈夫。私ね、あの頃…」

 あの頃、その続きはずっと聞きたいと願っていたことなのに、俺は急に怖くなって、彼女を強く胸に抱き寄せることで、遮る。

「何も言わなくていいよ」

 あの頃、彼女の気持ちが俺になかったことくらいわかっていた。

 わかっていながら目を瞑ってきたことだけれど、俺にとっては貴重な日々であって、すべてだったから。

「どうしたの?酔ってるのはハルアキの方だよ」

「そう?これが目的だったんじゃないの?…あの頃みたいに」

「何、言ってるの?」

 抱きしめた腕の中で、必死に逃げだそうと身を捩る涙華。

 悔しくて、俺は唇を押しつけるように奪い、そのままベッドに押し倒す。

「嫌ッ」

 抵抗しようとする彼女に、余計腹が立った。

 悔しくて、悔しくて、悔しくて。

 こんな事をしたって、何も変わらないとわかっているのに。

 でも、離したくなかった。

 何度も何度も諦め手放して、その度にまた彼女に惹かれ、焦がれて、勝手に苦しくなって。

 半ば強引でも、傍にいて欲しいと何度願ったことか。

 そうしたら、今度はきっと。

「やめてっ」

 嫌、と力一杯に俺の胸を押し返して、顔を背けた涙華。

「どうして、こんなこと」

 その声は怒っているようにも、泣いているようにも聞こえた。

 表情は見えない。見せてはくれない。

「私のせいだよね。ごめん」

 唇を震わせながら謝罪の言葉を述べた涙華を前にして、一瞬壊れかけた理性を取り戻す。

 俺は身体を起こして、再びベッドに座り直した。

「私ホントはすっごく嫌な女なの。汚くて、最低」

 涙華は仰向けに倒れたまま、横に流れた涙を拭う。

「涙華……」

 細い声を震わせながらも、少しずつ気持ちを吐露してくれた彼女。

 胸元の指輪を、強く握りしめながら。

「私は今でも龍那を愛してる」

 息ができなくなるほどの哀しみ、ぽっかりと空いた心の隙間を埋めようと必死だったことなど、全て。

 そしてそんな時に出逢った、怜という男のことも。

「ハルアキには知られたくなかったの。だって、嫌われたくないから。離れていっちゃうんじゃないかって、怖くて」

 俺は相槌をうつことも、否定することもなく、ただ黙って彼女の声を聞いていた。

「心では、もう誰も愛せないって思ってるくせに、ハルアキには愛されていたかった」

 涙華はゆるりと上半身を起こし、最低でしょ、と掠れた声で呟く。

「私、わがままだから…いつも一番に愛されてたいって」

 止めどなく溢れ出る涙を抑えようとする、必死な努力が痛いほどに伝わる。

「わかるよ」

 愛されてたいと思う心は、誰にだってあるもの。

 それだけで人間ひとは生きていけるのだから。

「汚いでしょ?自分だけ、なんて」

「それでも俺は、」

「ダメ!…お願い、言わないで」

 愛の言葉は、紡がれることなく消えて。

「それだけじゃないの。淋しいからって、怜にも傍にいてなんて言っちゃって…本当に最低。恥ずかしいよね」

 涙華は泣き濡れた頬を拭うこともせずに、静かに俺を見た。

「彼の前だと、自分が惨めで情けなくて…哀しくなる」

 そう言って、自嘲気味に笑う。

「涙華」

 名前を呼ぶと、新たな涙が一粒こぼれ、服に染みを作る。

 もう何年も一緒にいるのに、龍那を亡くしてから初めて、彼女の心を見た気がした。

 無垢で真摯な、それを。

「最低だ、って言ってよ」

 彼女はわかっているのだろうか。

『惨めで情けなくて、哀しくなる』

 と言ったその言葉の意味が。

「最低だな。…でも、だったら俺も同じだよ。お前の気持ちを知っていながら、見て見ぬふりをしてずっと縛ってきたんだから」

 愛しているから。

「ハルアキ、同じなんかじゃないよ。私の方がずっと汚い」

「そうだとしても俺は、涙華が好きだよ」

 少しずつ、頑なな心が解けていく。

 彼女のその潤んだ瞳に、汚れなど一つもないのに。

 そう、俺もこれ以上汚くなりたくなくて、涙華と離れる道を選んだ。

「ダメだよ、私なんかに」

「なんか、なんて言うな」

 再び抱きしめて。けれど、今度は優しく。

「俺は次でも良いよ。涙華が必要としてくれるなら、何番でも良いから…頼れよ」

 そして強く。大切に。

「ハルアキ……ごめん、ごめんね」

 子供みたいにひくひく声を上げて泣きながら、それを繰り返す彼女。

 耳に触れる心地よい声音。

 しばらくして、ゆっくりと背中に回された細い腕。指先がおずおずと服の上をなぞる。

 初めて触れ合った時のように小刻みに震えながらも、ぐっとしがみついてくる。

「お願い、もう少しこうしていて。今だけ、そしたら、帰るから」

 少しだけ離れて、俺を見た涙華。

 哀しげに、苦笑すら浮かべて。

 何も言わずに頷くと、彼女は「ありがと」と吐息だけで呟いて、胸に顔を埋めるようにして目を閉じた。

 俺は、稜との約束通り、正面から向き合うことができた。

 稜と同じで、世間一般で言う“良い結果”ではなかったかもしれないけれど、今はとても晴れやかな気持ちで朝を迎えられそうな気分だ。

「なぁ涙華?」

 問いかけた彼女からは、何の反応もない。

 代わりに聞こえたのは、心地よさそうな規則正しい寝息。

「おい?」

 惨めなほどに誰かを想うことこそが、恋。龍那を愛している事に変わりはなくとも、確実に彼女の心に芽生え始めた新たな気持ち。

 情けないほどに彼を想う涙華の心ごと、愛せたらと思う。

「帰るんじゃなかったのかよ」

 見つめたのは、あまりにも無防備な姿で眠る彼女。

 長い髪が一房顔に流れ、露わになった白すぎる項。膝下丈のスカートから覗く、そんなに長くはないけれど肉付きの少ない足に、妙に艶っぽい唇。

「これは拷問か?」

 しばらく離れていた俺には、拷問でしかない、触れてはいけない愛しい人の寝顔。

「無理だろ」

 頬にかかる髪を軽く片手で払い、静かに口づける。

 それだけで、何とか理性を押さえ込む。

「涙華、」

 きっとずっと、何があっても、変わらずに。

「愛してる」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る