24.◇優しさ
「どうしたの?ハルアキ」
「え?何が?」
「めずらしいこともあるのね。私の家じゃなくて、外で会おう、だなんて」
「たまにはファミレスデートも良いって言ってなかった?」
「それは付き合っていた頃のことでしょ?今となっては人目が気になるだけよ」
辺りを注意深く見て回す稜。と、その後で、
「ま、私たちのことなんて誰も見ていないけどね」
と付け加えて笑った。
以前は、こんな風に差し向かいで話をしたことなどほとんどなかった。
車の中・ベッドの中・抱きしめている時は、相手の顔は見えないから、こんな風に友達みたいに真向かいで話をすることは、なかったかもしれない。
稜は先程お代わりしたばかりのホットコーヒーを、一口だけ飲んだ。
ブラックを好んで飲んでいたのに、今は胃に悪いからとミルクを半分だけ入れていた。
「本当に久しぶりね、ファミレスなんて」
アイスティーの氷をストローで突いて遊びながら言う俺を、彼女は目を細めて懐かしそうに笑う。
「紅茶、ストレートで飲めるようになったのね」
「いつの話してんだよ。もうコーヒーも紅茶も砂糖なしでも飲めます。いつまでもガキ扱いするなよ」
「えーびっくり。激甘好みだったのに。でも、氷突いて遊ぶのは変わってないのね」
「うるさいなー」
は、と気づいてから慌ててその手を止めても、もう遅かった。相変わらず稜は、楽しそう。
でもあの頃は、年下なことがコンプレックスでそんなくだらないことばかりを気にしていた。
「久々のデートなんだからもっと楽しめよ~稜」
「……最後の、じゃなくて?」
「え?」
飲み干したグラスの氷が溶け出して、カラリと音を立てる。
稜は、すべてを見通しているかのようなあの瞳で、真っ直ぐに俺の目を見る。
「はっきり別れよう、って言えばいいのに」
「は?誰と?」
「わかっているでしょう?その気がある方と、よ」
「何言ってんだ?」
ごく自然に火をつけたタバコ。
誰になんと言われようとも、そう簡単にはやめられない。やめてしまったら、この苛立ち・わだかまりをどう吐き出したらいいのかわからない。
きっと、悪くもない稜や涙華に当たってしまうだろう。
俺は、弱い人間だから。
「稜?どうした?」
「タバコをやめるのと一緒よ。無理しない方がいいってこと」
「だから無理なんて、」
「してる。……あの事は、忘れて」
「忘れられるはずないだろ!俺が無理に…」
勢いに任せて出てしまった大声に、俺は自ら驚いて語尾を濁す。
「それで妊娠して、生むって決めたのに結局流産した。俺なんかのせいで、稜にあんな思いを」
「無理に?」
目を丸くした
稜が、不思議そうに言って、
「合意の上でこういう関係になったのよ?」
軽く、笑うようにそう続けた。
「かばうなよ。俺なんか」
まだ吸い始めたばかりのタバコ。
最後に大きく吹かして、吐き捨てる。後は灰皿に乱暴に押しつけて、火を消した。
「正直に言えよ、稜」
「本当のことよ。私だってハルアキが必要だった。それに、あなたとはちゃんと避妊していたでしょう?…旦那との間に出来た子だって言ってるのに」
「そんなのわからないだろ。…どうやって償ったらいいのか。俺なんかが一生かけても償いきれないけど」
「じゃぁ」
と、テーブルに視線を落とした稜。
そして一度の瞬きの後に、目線だけを寄越した。
「私のためだったら、何でもしてくれるの?」
得意げな上目遣いに、俺は思わずドキリとした。
「稜が、望むなら」
「嬉しい」
甘く、誘うような声。
口端が均等につり上がり、艶やかな笑みを作り出す。
大人の女を匂わせるそれは、付き合っていた当時、俺が一番嫌いだったもの。
「だったら、涙華さんのこと忘れて」
「え……」
「できないの?」
そうと知っている上での、敢えての微笑。
「わ、わかったよ」
俺がヤケになって答えた後、突然稜が噴き出した。
「だから、無理しないで。できないくせに」
くすくす、と控え目に声を漏らす彼女。
「何が可笑しいんだよ」
「そんなことで自分の罪悪感が消えるのなら、勝手にそうして。でも私は、ハルアキが傷ついたって何も嬉しくない」
言われて初めて、気づいた。
謝罪することであのことから逃れようとしていた、恥ずかしい自分に。
彼女から傷つけられることで、痛みをごまかして楽になろうと。
俺と涙華が互いにそうしてきたように。
そうすれば、俺は救われるから。
けれどやはり、稜は大人だった。
弱さを認め、決して楽な方に身を置こうとはしない。
全てを抱え込んで、俺から離れようとする。
「ハルアキが優しいから、頼りたかっただけなの。ごめんね…もう、別れてあげる」
「え?」
「ハルアキもちゃんと涙華さんと向き合って」
「ちょ、ちょっと待て!どーした急に」
一回落ち着こう、と稜を宥める。
本当は俺の方が焦っていたのに。
「何でそんな展開になるわけ?」
「……私、離婚するの」
言いにくそうに躊躇いながらも、笑みを添えて切り出した稜。
「は?もしかして俺のことばれた?」
「んーまぁ、そうね」
「ちょっと待てよ、お前の旦那だってちゃんと説明すればわかってくれるって」
「どう説明するの?ハルアキは元彼で、今はただ傷の舐め合いをしてるだけの関係だって言えば良い?」
力説する俺を余所に、彼女は常に冷静を保っている。
声のトーンやペースに、乱れは一切ない。
もうその心は決まっているから。
「そんなの何でもいいだろ」
「いいのよ、もう」
「どうしてうまいウソのひとつも吐けないんだよ」
「ごめんね。でも、別れようって言ったのは、私の方だから」
びっくりした?と戯けてみせる稜。
彼女はそのままの調子で、コーヒーのお代わりを頼んだ。
「ホントに、それでいいのか?」
俺は、店員が三度目のコーヒーを注ぎ終えるのを待ってから、言う。
「愛してるんだろ?旦那のこと」
「あの人はもう、私に興味がないから。愛してるからこそ、別れてあげるの」
「稜、ごめんな」
「どうして謝るのよ。あなたは何も悪くない。私は、これが彼と正面から向き合った結果。今度は、ハルアキの番」
と瞳をいっぱいに潤ませ、今まで見せたことのないくらい美しい表情で笑った。
これが彼女の最後であり、最高の優しさ。
居候していた涙華のアパートを飛び出してから、有休を使ってしばらく実家に帰っていた。
けれど、数日と経たないうちに親父に追い出され、仕方なく会社の近くの安アパートを借りてどうにか生きている。
いつまでも居候はしてはいられない。
いつまでも誰かを頼ってばかりはいられない。
同じ想いをしている稜に、背中を押してもらったから。前に進むため。
涙華には、もう会わないと決めた。
「だったらどうしてここへ来るんだよ、って言いたいんだろ?…龍那」
きっと龍那は笑っているだろう。
もう会わないと決めたけれど、それでもほぼ毎日霊園に通っているのは、愛しい人に会いたいから。
あれからもうしばらく経ったが、何事も無かったかのように始まった新たな生活。
離れれば、何か変わるのではないか思っていた。
自分も、そして涙華も。
しかし変わるどころか、今は彼女が恋しくてたまらない。
「涙華はちゃんと生きてんのかねぇ。飢えてなきゃいいけど」
稜の想い、優しさを無駄にしたくはないから。
と、その時、
「言ってくれるわねー」
後ろから突然怒鳴られて、俺は慌てて立ち上がる。
足がもつれて転びそうになりながらも、声の主に向き直った。
「ハルアキ」
聞き慣れた愛しい声が、俺を呼ぶ。
見間違えるはずなどないけれど、思わず目を疑う。
「涙華」
「久しぶり」
薄手のダウンコートに、彼女の好きなミルクティー色のストール。肩をすっぽり包み込んで寒そうにく、と身を縮めた。
「あ、あぁ。元気でやってるか」
「うん、まぁそれなりにね」
心なしか、また痩けたように見える涙華の頬。
触れたくて思わず伸ばし掛けた手は、すんでの所で空を握りしめる
「そっか、そりゃよかった」
「ハルアキ、やっと一緒に来られたね…龍那のところ」
離れさえすれば、この想いは消えてなくなると思っていた。忘れてしまえると。
それなのに、どうして――。
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