22.○すれ違い
―――涙華!
誰かがまた私を呼んでいる。
―――涙華!
龍那なの?
「もぉ起きてるって」
ちゃんと起きて、ちゃんと朝ごはんを食べ、ちゃんといつもと同じ電車に乗ってるんだから大丈夫。
すると、
「――涙華」
耳元で囁かれる低い声。
夢の世界に落ちる瞬間。あの微睡みの中で囁かれる愛の言葉は何よりも心地よくて好きだった。
夢でもいいから、傍にいて。
「おい、涙華起きろ!」
「もぉ何よぉ~」
重たい瞼をようやく持ち上げ、ふと見上げると、目の前にはスーツ姿の龍那が……に、よく似た顔が立っている。
「え?どうして…」
「公共の乗り物なんだから俺がいてもおかしくないだろ?」
「怜?!え?何で?」
「静かにしろ。ガキじゃないんだから電車の中くらい黙ってろ」
「は?電車?」
辺りを見て渡すと、喧騒の中でも冷たい視線をいくつか感じ、慌てて閉口する。
朝の通勤時間はどこも人で溢れていて、電車に乗るのもやっと。
しかし今日はめずらしく席が空いていて、ゆっくりと座っていられたものだから。
車体の揺れが徐々に気持ちよくなってきて、ついうとうとしてしまっていた。
「話は後で。降りるぞ」
横に立っていた怜は、私の握りしめていたスマホを勝手に奪い取って先に電車を降りようとする。
「え?ちょ、ちょっと待ってよぉ」
私は人混みを割って、急いで怜の後を追う。
そんな私など目もくれずに、彼はさっさと電車を降りて行った。
うまく人の間を縫って前に進むことができず、やっとの思いで電車を降りた。
「待ってよー」
改札を出ると外はひんやりと風が冷たくて、思わず身体がぐっと縮まる。マフラーをしっかりと巻き直して、私は速足で先を行く怜を追った。
「待ってよ怜!スマホ返してよ~」
「目が覚めただろ?ありがたいと思え」
「うわ、偉そぉに」
彼にとっては普通に歩いているつもりでも、私にとってこの速さは小走り並みにきついものだった。
「それよりいつも電車だっけ?」
「いや、今朝急に車の調子が悪くなって」
「ふぅん。怜ならすぐタクシー使いそうなのに」
「は?まぁそれも考えたけど、最近思いがけない出費があったからな。少しは節約しないと」
嫌味な笑顔で「はい、どーぞ」とスマホを渡される。
「な、何よ」
「この間の飲み代、タクシー代とか~?」
「あ、すいません。何か結局全部出してもらっちゃって」
「急に大人しくなるなよ。冗談だから」
『酔ってるからってこーゆーのよくないんじゃない?』
あの日、彼に言われた一言。
わかっていたのに。
触れた唇は、冷たかった。
気持ちのないキスは、どうしてあんなにも哀しく、胸を締め付けるのだろう。
惨めで、切ない気持ち。
「ごめんなさい」
「何が?」
「何、って……全部」
「まぁ確かに重かった」
「重っ?ひどい」
「ひどいのはそっち。キス魔だったとはね」
「そこまで言わなくても」
穴があったら入りたいと思う程の羞恥心で、耳までかぁ、と熱くなる。
彼と並んで歩いている今の状況が、せめてもの救いだった。
「沙奈瑚に言ったら、びっくりするくらい笑ってたけどな」
「笑う事?ってか沙奈瑚さんに言ったの?」
「電話で話してたらそんな会話になった。マズかったか?」
「マズイに決まってるでしょ!もぉ沙奈瑚さんに会えない~」
さぁっと血の気が引いていくようで、寒気さえする。
「そう?全然気にしてないと思うけど」
「あぁそうですかー余裕ね」
一見、感情に乏しく見える沙奈瑚さんはヤキモチなど妬かないのだろうか。
妬かないのではなく、彼を信じているから妬く必要がないのだろうか。
「ホントにごめんね」
「もういいって。俺もわかるから。ひとりは、嫌だよな。誰でも良いから理由つけてでも傍にいて欲しいって気持ち、わかるよ」
「え?誰でも良いって……どういう意味?」
会社のすぐ目の前の横断歩道。
青信号が点滅を始め、慌てて駆け込む人々を見つめながら、怜は手前で足を止めた。
半歩後ろを歩いていた私も、彼に続いて立ち止まる。
「アパートまで送った時、見えたんだよ写真。あれ、亡くなった彼のだろ?まったく俺に似てないんだな」
振り返った怜は、作り物の笑顔で私を見る。堅くて、冷ややか。
「あれは…違うの」
おそらく彼の言ってる写真はハルアキと映ったものだろう。
龍那との写真は今もまだ伏せられたまま、正面から見られずにいるから。
「何が違うんだ?…亡くした彼が俺に似てるってのも、やっぱり嘘だったんだろ?正直に認めれば笑って許してやるから」
どこまでも口調は冷静で、涼しげな表情。
怖いくらいに、淡々と。
「違う、違うよ!」
「あーそうくるか!本当は彼が死んだってのもウソなんじゃないのか?誰かの気を引きたいだけだろ。淋しい奴」
軽蔑するかのように、冷たい瞳の色。
違う、この人は怜じゃない。
「ひどい」
これは悪い夢だということにして、もういい加減目を覚ましたかった。
「どうしてそんなひどいこと言えるの?」
もう弁解する気にもなれなくて、
「嫌いッ!怜なんて大っ嫌い」
吐き捨てた言葉と共に漏れた息があまりにも白かったせいか、涙が出た。
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